1
律は珈琲を淹れていた。あめ色のカウンターでサイフォンがこぽこぽと音をたてている。
がらりと扉の開く音がして、「いらっしゃいませ」と、ぼそりと告げる。
「おい律。接客業なんだし、もっと愛想よくしたほうがいいぞ?」
今しがた入ってきた客があきれたような声をはなった。
「おまえにだけだよ、博己。ほかの客にはちゃんとしてるから」
「そうかなあ?」
カウンターの前のスツール椅子に博己は腰かけた。
「黒板とか、ちゃんと残してんだな」
「廃校カフェなんだし、あったほうがいいだろ」
「図書室は、なんだっけ? 本屋になったの?」
「うん。行ってみたけど、なかなかマニアックな品揃えだったよ」
空き教室を活用して、わかい人たちが集まって店を出しているのだ。低学年の教室では若手の陶芸家がやきものを売っているし、となりの教室は布小物の店になるらしく、今慌ただしく準備作業が続いているところだ。
「で。ぶっちゃけ、もうかるの?」
博己が身を乗り出して声をひそめた。律は苦笑して、ぜんぜん、と答えた――。
ガ・ガ・ガ。
ノイズに邪魔されて珈琲のかおりが逃げていく。
律は目を覚ました。雨の音がする。まだ降り続いているらしい。
ベッドの上にいるようだが、自宅のものではない。シーツのかかっていない、むき出しのマットレスの上。このあいだは校長室のソファだったが、どうやらこんどは保健室らしい。
ひさびさに楽しい夢をみた。笑里が「ここをお店にしちゃえば」だなんて突拍子もないことを言い出すからだ。
思い出すと、自然と笑みがもれた。あのとき、すこしだけ想像してしまったのだ。この教室を改築して喫茶店をひらき、大人になった博己や笑里や羽純が集う。
未来。夢物語のような、未来。
そこでは、もちろん自分も大人になっていて。ああ、自分も大人になれるんだと思った。前にすすめばそこにはきっと未来があるのだと思った。たしかな何かを、つかんだ気がした。一瞬だけ。
どうして未だこんなところに自分がいるのかわからないが、とにかく夢のつづきが見たくなった。律がふたたび身を横たえようとした、その瞬間。
り、つ。
ラジオから、声がした。
男の、声。
律は目を見はった。
りつ。
くっきりと、律の名を発音する。律を、呼んでいる。
「おじさん……」
声に出して、つぶやいていた。亡くなった海斗おじさんの声、そのものだったのだ。
律。
「おじさん? ほんとうに、おじさんなんだね?」
ちいさなラジオを揺すった。まさかほんとうに、亡くなった人の声を拾うなんて。
――律。なにをしている。
――はやくこっちに来い。はやく……
「おじさん?」
こっちに……
声は途切れた。
砂嵐のようなノイズだけが、夜の保健室に残された。