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流星群  作者: せせり
桃のような恋にしたい
13/28

2

 重い雲が垂れ込めていた。耐えきれなくなったのか、ぽつりと、葉桜をたたく雨粒の音がする。

 もうすぐ梅雨入りだ。雨がつづくようになれば、屋外プールが使えないからつまんねと、博己が電話で嘆いていた。

 いつもの日傘ではなく、雨傘をひらいて。笑里は廃校舎脇の砂利道を歩いた。雨は次第に勢いをまし、古い校舎を濡らしはじめる。かつて羽純とふざけて水をかけあった小さな手洗い場も、泳いでいたメダカを飽きることなくふたりで見つめつづけたビオトープも、雨に濡れていく。

 校舎にはいると、湿気のせいでより一層木のにおいを強く感じる。

 持参したルームシューズを履いて廊下をあるく。来たときは埃を掃いているけど、それでも靴下の裏が汚れるような気がしていた。

 ここに住んでいる律は、几帳面に掃除をするタイプではあるけれど。彼はいま普通の状態ではないから。自分たち三人には普通に触れられるし、紙コップだの机だの、そういう物体にも触れるし動かせる。だけど、彼がひとりきりのときはどうなのか、それはわからない。だいたい律自身が、自分の状況をまったくもって解っていないのだ。

 ひたひたと歩く。さいわい、今年もまだ雨漏りの気配はない。もっと時が経って劣化がすすめばまぬがれないだろうが。

 六年生の教室のとびらを開く。律の気配がある。

「笑里。めずらしい」

 ちいさな丸椅子に腰かけたまま、律はわらった。彼の背後、古い木枠にはめこまれたガラス窓が濡れている。

「律の珈琲、飲みたくなった」

 笑里はかつての自分がつかっていた椅子をひいた。背もたれに、こっそり星のシールを貼っていたからすぐにわかる。

「それ、暗くなると光るよね」

 律がちいさな星を指差した。たしかにこのシールには夜光塗料が塗られているので、暗がりで光る。こどもの頃、床の間にたくさん貼ってプラネタリウムごっこをした。あとで大目玉をくらったが。

「……律は、夜中ひとりで、この星を見たの?」

「夜中……。なのかな。夢の中でだったのかもしれない。見た、気がする」

 律は眉間にしわをよせて、こめかみを手で押さえた。

 ひとりでいる時の彼の記憶は、あいまいなのかもしれない。そう笑里は思った。

 律はもう思い出すのはやめたようで、サイフォンで珈琲を淹れはじめた。手馴れたもので、一連の動作が流れるようにスムーズだ。

「喫茶店のマスターみたい」

「そりゃどうも」

「将来、ほんとにお店出しちゃえば?」

「いいかもね」

「そうだ。ここの校舎を使えばいいんじゃない? 廃校カフェ」

「辺鄙なとこにあるけどな」

 律がくすりと笑った。笑里の胸にかすかな希望の灯がともる。

「ねえ、そうしなよ。こういうとこ、好きなひといっぱいいるもん。遠くから通ってくれるひとだって、きっと」

 ガ・ガ・ガ。

 笑里のはずんだ声を、ノイズがさえぎった。

「ラジオ……」

 いつも律が持ち歩いている、ちいさなトランジスタ・ラジオ。亡くなった叔父さんの形見だという。

 笑里の父が以前言っていた。ふらふらと遊んでばかりの穀潰し。引きこもり。あれではなっちゃんも、なっちゃんの旦那もたいへんだっただろう、と。

 なっちゃんというのは律の母の名だ。笑里の父とは同級生になる。

 自死したと、皆、噂している。律は「事故だ」と言うが。あいまいなのだ。律の叔父が亡くなったのは小学校二年の夏で、もうじゅうぶんに物心ついている年頃だけど、そのときの律自身の記憶もあいまいなのだという。

 六年生の夜、こっそりと校舎に忍び込んで遊んだことがあった。ブランコをこいだ。ジャングルジムにのぼった。

 そのときに、律が少しだけ話してくれた。大好きだった叔父のこと。

 叔父さんが遺したラジオと、物語のつづられた大学ノート。

 亡くなったひとが住む、宇宙のどこかにある、ふたご星。遠い星から届く死者の声。

 あのときもラジオはノイズを発した。そして――。

「トロイメライ」

 笑里はそっとつぶやいた。

 亡くなった羽純の母がよく弾いていた曲。羽純の母はピアノが好きで、羽純にも羽純の兄にも習わせていたのだが、ふたりとも興味も才能もなかったようで、辞めてしまった。

 笑里はまだ続けている。三歳のときから通っているピアノ教室の先生は羽純の母の友人だった。音大を出て海外留学までしたけど、プロになれずに地元に舞い戻り、自宅で教室をひらいた。羽純の母は純粋にピアノが好きだというだけで、笑里の先生のように本格的に音楽をこころざしたわけではないが。耳は誰よりも確かだと、先生がかつて話してくれた。

「どうぞ」

 律が珈琲を机に置いた。そっけない紙コップに入っているのがいただけないが、香りはいい。ありがとうを言って笑里は口をつけた。

 羽純の家のピアノを、よく弾かせてもらった。羽純の母は、たくさんほめてくれた。

 そのときの、羽純の顔といったら。ほおをふくらませて、嫉妬丸出しで。

「何笑ってんの」

「ううん。ちょっと思い出しちゃった」

 珈琲の湯気が、雨のせいでいくぶんかひんやりした体に心地いい。

「笑里。僕に、なにか、話があるんじゃないの?」

 ふいに律が切り出した。律にはなんでもわかるんだな、と思った。自分以外のことならなんでも。こころの動きに、気づいてしまうんだ。

「あたしって、ずるいなあって」

 とくべつな話があったわけじゃない、ただ、だれかに聞いてほしかった。

「博己とキスしたって、羽純に言っちゃった。羽純、大げさにひえーって言って。博己のエロ、なんて言って。笑って、茶化して」

「うん」

「一生懸命だった」

「……うん」

「おでこだったんだけどね。ぜったい羽純、くちびるだって思った」

 というか、そう思わせるように誘導した。

「わたし。わたしね、知ってるんだ、ほんとは」

 羽純の、ほんとうの気持ちを。

 だけど羽純はもう、幼いころのように、むき出しのこころを表情にのせたりしない。隠すことが、どんどん上手くなっていく。だから笑里は、むきになる。

「だけど博己のことは譲れないの。あのね、わたしが言うこと、へんだって思わずに聞いてね」

「なんだよ急に」

 律が笑う。

「おかしいって思わないでね。……わたし、気配の色が見えるの」

「なにそれ。オーラ的な?」

「多分。でね、それって、羽純と、律と、博己限定なんだ」

 ふうーん、とおもしろそうに律は眉をあげる。本気にとっていないのかもしれない。

「ほんとなの。羽純は緑色で、律はブルー。博己は……」

 博己は。

「オーロラ。博己は光ってるの。五年生の春から、きゅうに光ってみえるようになって……。とっても綺麗なの。綺麗で、見ちゃうの。引き寄せられちゃうの」

 自分でも、どうにもできないことなのだ。羽純にだって譲れない。

 負けたくない。なのに不安で。好きだと言って手をつないで、キスまでくれたのに。

 不安がどんどんふくれあがって、飲まれそうになる。

「泣きなよ」

 と。しずかに、律が言った。

 ふるい校舎に、雨の降る音だけがひびく。


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