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ほんとうに、博己の気持ちを信じていいのかな。
好きだと告げたとき、じゃあつき合おうか、と言ってくれた博己。信じられなかった。博己が羽純のことを思っているのに気づいていたから。だけどいまは。
ふたりきりの帰り道、ふいに胸がくるしくなって、離れたくない、一緒にいてと彼の腕をつかんだ。彼はゆっくりと笑里の頭を撫でた。好きだよ、のことばをくれた。
そして。
閉じたまぶたのうらに、まだ、蛍の儚げな光が揺れている。
笑里はドレッサーの前でひとり、乾かしたばかりの髪に櫛を入れている。冷房のきいた自室にいても、湯上りの頬は熱く火照っている。
母が新婚時代に父にねだって買ってもらったというマホガニーのドレッサーは、三段のチェストに楕円形の大きな三面鏡のついたものだ。イギリスのものだというが、アンティークだからか、純和風のお屋敷である笑里の家のインテリアにもふしぎと馴染む。十六歳になったら譲ってもらう約束をしていた。
鏡にうつる自分の顔。うっとりと目はうるみ、白い肌は淡いさくら色に染まっている。
――うん、綺麗。
博己がおでこにキスを落としてくれた。はにかんだ笑みをうかべた博己の顔を思い出すと頬がゆるんでしまう。それでもなお、笑里にはまだ自分の容姿を客観的に見る冷静さが残っている。
化粧水をつけて乳液を塗る。いつもより感触がいい。たっぷりの水分を閉じ込めた、張りのあるぷるぷるの肌。なめらかで一点の染みもない。早く寝ないと、と思う。どんなに高価な化粧水をつけても、睡眠とビタミンが不足すると、台無しになってしまう。
笑里は幼いころから自分の可愛さを自覚していた。顔の造形のうつくしさ、きめ細かな肌質、やわらかな髪。すべて持って生まれたものだけど、それを維持しているのは自分の努力があるから。
ひそかに、誇りに思っている。うつくしい自分を、ではなく。うつくしくなるために努力している自分のことを。
自室としてあてがわれた広い和室に置いたベッドとキャビネット。和室にベッドなんてと父は苦笑したが、笑里がねだると、落ち着いた調度のものを揃えてくれた。
自由はくれないけれどモノはくれるのが笑里の父だ。母はお人形さん。はいはいと笑って娘や夫のわがままをゆるすお人形さん。
ベッドに身を横たえる。目をとじて、博己のことを考える。胸の奥があまく焦がれた。
三つ葉女子高校は笑里の住む街からはかなり遠い。通学はたいへんだけど、それでも寮に入ることや下宿することはいやだった。
バスに揺られてちっぽけな田舎町を離れ、小さいころから馴染んだ景色が遠ざかっていくにつれ、解放感でいっぱいになる。にごった色の、重い衣をいちまいずつ脱ぎ捨てて、みんなの知らない自分になる。そんな気がして。
バスを降りて、学校まで続く長い石畳の坂道をのぼっていく。同級生たちが笑里を見つけて駆け寄ってくる。にこやかにあいさつを交わし、教師の悪口や愚痴などで盛り上がりながら正門をくぐる。
伝統校とはいっても、校舎も校風も、たんに古めかしいだけ。長いあいだ清くうつくしい良妻賢母を育てるといった方針で来たのに、笑里が受験した年に、「国際社会に通用する、才能ゆたかな、しなやかな日本女性の育成」などという、百八十度ちがううえにもともとの方針を「しなやかな」などという曖昧な文言で残した、よくわからない方針に転換した。笑里たち生徒からすればどうでもいい。
たくさんのジャージ姿の生徒たちが敷地内を掃除している。地域清掃や施設訪問など、ボランティア活動にも力をいれている学校だ。
教室に入ると紺色の群れがかしましく騒いでいた。セーラー服の襟も身頃もスカートも紺、スカーフも紺。まったく華やかさのない制服だ。指定かばんだけは気に入っているが。スクールバッグではなく、飴色の皮のかばんなのだ。
「エミっ!」
はつらつと笑里を呼ぶ声がする。窓際のいちばん前の席から。自分の荷物を仕舞うのもわすれて、笑里は駆け寄った。
しのちゃん、と彼女は呼ばれている。長い黒髪をうしろでひとつに結わえた、切れ長の目をした和風美人。落ち着いた見た目とはうらはらに、彼女の指定かばんには、たくさんのキャラクターのマスコットが揺れている。アニメキャラからご当地ゆるキャラまで、見境がない。
しのちゃんはにやっと笑った。
「例の。コス衣装、できたの。エミ、ぜっっったいに似合うと思う」
しのちゃんは自分のスマホ画面をスクロールして画像をみせた。まっしろいワンピース、スカート部分はミニ丈なうえにボリューミィで、さらにパニエでふくらませてある。ウエストの後ろあたりには、これまたまっしろい大きなリボン。
「髪はウィッグで、青いカラコンいれて……。問題は羽だよなー」
しのちゃんは綺麗な眉を寄せてうんうんうなる。どうやら天使の見習い、という設定のキャラらしい。笑里はろくにアニメも見たことがない。しのちゃんに動画をちらりと見せてもらったことがあるだけ。
入学して、さいしょに出来た友だちがしのちゃんだ。彼女は笑里をひと目見るやいなやぱあっと顔を輝かせ、
「かわいい! 超かわいい!」
と騒いだ。理想のタイプ、とまでのたまった。女子から、こんなにまっすぐな賛辞のことばを得たのははじめてで面食らった。男子たちがひそやかに笑里のことを可愛いと言っているのは知っていたけど。中学の女子たちからは敵意を向けられることのほうが多かったのだ。
いわく、清純派ぶってる。男子の前だと態度が変わる。好きなひとを盗られた。思わせぶりな態度をとって、あげく振ってしまう。などなど。
まったく身におぼえのないことで陰口をたたかれ、時には笑里自身の耳にはいるように、わざと大きな声で嫌味を言われ。そのたびに羽純が腕まくりして「話をつけに」行ってくれた。羽純まで悪口の対象になって無視されることだってあった。
アニメ大好きコスプレ大好きのしのちゃんは、自分自身がクール系な顔立ちのため甘い衣装が似合わず、こうだったらなあ、という「理想の」ルックスを思い描いていたらしいのだ。ぴったりだったのが笑里だったというわけだ。
しのちゃんにつき合って、架空のキャラになりきるのが、実は嫌いじゃない。
メイクして派手な色のウィッグをつけて、たくさん写真撮られて。
だけどほんとは。「甘い」キャラじゃなくって。しのちゃんに似合うような、クールな戦闘系美少女のコスを、やってみたい。
「どしたのエミ、不満ー?」
しのちゃんが小首をかしげた。ううん、とあかるく手を横に振って笑ってみせる。
羽純は、たたかう女の子。
わたしは、守られる女の子。
いつの間にかできあがってしまったこの図式を、たがいの役割分担を。思うと、すこしだけ笑里の瞳はくもった。ほんとうは、ちがうのに。
だけど。すぐに笑里は顔をあげる。つぎつぎに登校してくるクラスメイトたちに笑顔でおはようを言いながら、紺色の群れのなかに、きらめきの中に溶け込んでいく。溶け込むことが、難なくできてしまう。
この学校に来てよかったと、心の底から思っている。
男子の目のない、否、男子の目を意識する女子のいない世界は、居心地がよかった。
校則違反のメイクをして積極的に合コンなどしまくっている派手目な子も、スポーツ推薦で来たばりばり体育会系の子も、しのちゃんのような趣味まっしぐらな子も、たがいに棲み分けてはいるがいがみ合うことはなく、むしろ皆仲がよかった。
のびのびと息ができる気がした。
ずっと笑里の友だちは、小学校の同級生の、三人だけだったから。
「カレシには、見せないの?」
お弁当の時間。菓子パンをかじりながら、しのちゃんが聞いてきた。
「むりむり」
母手作りの、栄養バランスも彩りも計算し尽されたお弁当をつつきながら、笑里は笑う。
「コスプレしてるって知ったら、すっごく驚くと思う。だってわたし、そういう冒険、しないコだって思われてるから」
ふーんとつぶやくと、しのちゃんはずずずと音をたてて紙パックのジュースを吸い上げた。
「彼氏、幼なじみなんでしょ? いーなあ。王道だよ王道」
頬杖をついて、うっとりと虚空を見つめる。どんな妄想をしてるんだろうと思って、笑里はちいさくふき出した。むくむくといたずら心が湧いてくる。
「じつはね。幼なじみ同士でね、三角関係だったんだよ」
ひそやかに打ち明ければ、しのちゃんはええっと大げさにのけぞった。
「だったっていうか、いまも。たぶん、ね。わたしと親友の女の子がね、おなじ人を好きになっちゃったの」
「まじっすか」
笑里はこくりとうなずいた。
「わたしがあとから割り込んで、とっちゃったの」
でえええーっ、と大声をあげてしのちゃんは目をむいた。冗談だよ冗談、さすがにとったりはしないよと、笑里はあわててフォローしたのだった。
電車を降りると湿気をふくんだ風が髪を揺らした。携帯がみじかく鳴って、羽純からのメッセージが表示される。もうすぐ着くよ、とある。
わたしがあとから割り込んで、とっちゃったの。
みずからのことばを、脳内でリフレインする。ううん、と強く否定する。とったんじゃない。羽純が動けないように牽制してた。そして今から、だめ押しする。
ちいさな駅舎のベンチに腰かけて羽純を待つ。やがて、親友の自転車のタイヤが回転する音が聞こえて、近づいてきた。笑里には羽純の自転車の音が遠くからでもわかる。博己のも、律のも。ブレーキ音の高さも響き方もちがう。自転車だけじゃない、気配の色もちがって見える。たとえば家族とか、ほかの近しいひとたちには、こんな感覚は持ったことがない。自分たち四人のあいだには特別な何かがあるのかな、と思う。
きゅっ、とブレーキの音。スタンドを下ろす音。羽純の音。
「笑里」
息をはずませて、羽純が駅舎に入ってきた。
駅裏の、いつものレトロ喫茶店にて。羽純はアイスコーヒーを一気に飲み干して、すぐにおかわりを注文した。笑里はくすりと笑う。
どんなふうに、切り出そうか。
きょうは、桃の香りのするという紅茶を頼んだ。あたたかい湯気が、なるほどたしかにあまい果実の香りをふくんでいる。
あまい果汁のしたたる、桃のような恋にしたい。
博己が、好き。子どものころからずっと、好きだった。
「しちゃったんだ」
つぶやくように告げる。
「なにを?」
羽純の、邪気のない顔。いつもクラスメイトの攻撃から守ってくれた羽純。大好きなお母さんを亡くした悲しみを押し込めて、笑い続けた羽純。笑里には弱音を吐かない羽純。
容姿にも経済的にも恵まれ、風もたたないぬるい温室で育まれているような自分のことが、すこし、うとましくなる。
笑里はそっと、自分のくちびるに、ひとさし指を押し当てた。