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約束の日は、すぐにやってきた。
午後七時。日は暮れているがまだ空は明るさを残している。
大野川にかかる、古い石橋の上で待ち合わせ。
誰よりも早く着いてしまった羽純は、うす青い空にのぼる細い三日月を見上げていた。
橋の下を流れる水の音はさらさらと優しい。ここからもっと上流のほうへのぼっていけば、蛍のたくさん飛び交う渕に出る。そのころには、虫たちが光を放てるほどじゅうぶんに闇は深くなっているだろう。
足音がする。その音だけで、律だとわかる。つき合いが長いだけあって、羽純は律と博己、ふたりの足音や気配のちがいがなんとなくわかる。もちろん笑里のことも。中学・高校で知り合ったほかの女子の友だちとは違う、笑里がいるとき特有の空気の揺れを感じることができる。
「これも一種の超能力?」
小声でひとりごちたはずなのに、律には聞こえてしまったようだ。
「羽純、超能力、あんの?」
背後から肩をたたかれて振り返る。
「あるのかもしれない」
にやりと冗談めかして答えたけど、あながちそうかもしれないな、と内心思っている。
自分だけではない。おそらく博己も笑里も持っているちから。ただの幼なじみじゃない、あたしたち四人にはとくべつなつながりがきっとあるんだ、そう羽純は信じている。
だからきっと。律の足音も聞こえるし、話もできるし、触れることだって、できる。
「遅いな」
律がつぶやく。そうだね、と返す。
ふいに、言い知れない不安が羽純を襲った。
自分たちのあいだにあるこの糸は、もしかしたら、十六歳の、この時にだけ神様があたえてくれたもので、ちょっとした綻びからすぐに消えてしまうような、そんな気がしたのだ。
とくべつな絆を、無くしたくない。失いたくない。
川に沿うように引かれた細い道を、並んで歩くふたつの影が見えた。笑里の小さな影が博己に寄り添っている。さすがに日傘はさしていない。
手を。つないでいる。
笑里が、恥ずかしそうにうつむいて、博己の指先をつまんでいるのだ。
ひと目見ただけで羽純にはわかった。どんなふうに冷やかしてやろうかと、ぐるぐる考える。心臓がどきどきしていたけど気づかないふりをした。だいたい博己は一時期いろんな女の子をとっかえひっかえしていたわけで、「彼女」と一緒に帰っていく姿だって何度も見ているし、手をつないだとか腕を組んだとか、「彼女」からそういう報告を受けたことだってある。だから慣れている。
「羽純。だいじょうぶ?」
となりにいる律がひそやかに耳もとでささやくけど、
「なにが?」
と、平然と聞き返すだけ。律は時々羽純をこんなふうに気づかうけど、正直ほうっておいてほしい。だいじょうぶかと聞かれて、だいじょうぶ以外のことばを返せるはずがないのに。
ほどなくして博己と笑里が橋に着いた。
「ごめん。待った? 笑里んちの親父さんを説得すんのにちょっと時間かかって」
博己が照れ臭そうに笑う。もう、ふたりの手はほどけている。
「どーやって言いくるめたの? やらしいことはしませんって誓約書でも書かされた?」
「ばーか。今日はみんなで蛍見に行くだけだし。だけどさ、つき合ってるって勘繰られちゃって。めっちゃちくちく尋問された」
「なんつって?」
「勘弁してよ」
心底、げんなりした様子だ。娘大好き、ウルトラ過保護のお父さんだ。やはり誓約書に血判でも押させられたんじゃないだろうか。羽純はくすっと笑うと、
「笑里パパにはちくんないから。手、つなぎなよ」
と。博己をこづいた。一瞬だけ触れた博己の体温。だいじょうぶ、すぐに忘れてしまう。
忘れてしまう。過去になる。
水のにおいがする。青い稲が風に吹かれてざあっと音をたてた。
四人は小道をしばらく歩き、道が川から逸れはじめた箇所で田んぼのあぜ道に分け入って、川べりを歩いた。草は短く刈られているし、自転車が離合できるほどの道幅があるので歩きやすい。ただ、暗い。
博己と笑里、律と羽純というペアに分かれるようなかたちで歩いている。羽純の目の前でひょこひょこ揺れる笑里の華奢なシルエット。普段はスカート派の笑里もさすがにジーンズとスニーカーといったスタイルで、羽純は「笑里もズボン持ってるんだな」と、へんなところで関心してしまった。
田舎育ちのくせに山や土手や草むらを歩くことに不慣れな笑里はしょっちゅうよろけて、そのたびに博己が彼女の腕をとる。だから手をつなげって言ったのに、と思う。遠慮することなんてないのに。
空は澄んだ群青色になり、さらに深まり藍になり、やがて懐中電灯なしでは歩けないほどに暗くなった。ふと見上げれば空には星が散っている。
水音はたゆまなく四人をいざなう。川幅は狭くなる。ガードレールもなにもないし、ふたつの小さな懐中電灯の光以外にあたりを照らすものはないので、うっかり落ちないように慎重にならなければいけなかった。
「そろそろ消そうか」
律が言って、博己と羽純は電灯のひかりを消した。蛍は人工の光を嫌う。
四人は息を詰めて光のあらわれるのを待った。
水の流れる音と、虫の鳴く音だけがひびく。季節はもう夏へと向かいはじめていて、じっとりと蒸し暑い。川の向こう岸は深い林になっていて、より一層深い闇をつくり出している。
「むかしはさ。なーんにも考えずに、へいきで蛍つかまえたよな」
沈黙に耐えかねたのか、博己が口をひらいた。そうそう、と律が賛同する。
「かわいそうなこと、したな。成虫は露しか飲まずに、一週間ぐらいで死ぬんだろ?」
ひそやかな会話のさなか、笑里があっと声をあげた。渕と林のあいだの、いちだん濃い暗がりを指差している。
ふわん。光が浮いて、ゆらりと飛ぶ。
光はゆっくりと明滅する。やがて小さな星が降りてきたかのように、ひとつ、ふたつと光が増え、明滅を繰り返した。
「きれい」
笑里がつぶやいて、羽純は思わず笑里の頭をなでた。ふり返った笑里はどこかくすぐったそうに笑う。
「こんなに、たくさん」
ちかちかとまばたきをするように光る蛍の、その明滅に呼応するかのように、あるいは争うかのように。あまたの蛍たちが、光をともし、光を消し、また光をともし。モールス信号のような、虫たちのあいだでだけ通じることば。
「恋の告白なんだよね」
笑里が言って、羽純は
「この恋愛脳め」
と笑里の頭をこづいた。すると今度は、彼女はぷうっとほおをふくらませてみせる。羽純は苦笑する。
恋の告白。まあ、その通りなわけだけど。
あらためてそんなふうに言われると、初夏の夜、自分たちがまるで他人のひそやかな恋のやりとりをぬすみ見ているような、そんな、少しだけ淫靡な気持ちになってしまう。
夜九時をまわったところで、石橋まで戻ることにした。渕を離れても、まだまぶたの裏に乱舞する光の残像がある。
「つないでる」
前を歩くふたりを見て、羽純はそっと律に告げた。来た時よりもしっかりと、ふたりの手はつながっていて。どうやら博己はもう「遠慮」することをやめたようだ。
「ふたりきりで帰らせたらやばいかも。なんかあったら笑里パパに殴られる」
冗談めかして、ひそひそ声で話しかけたけど、律は笑ってくれなかった。眉を寄せてむずかしそうな顔して、ふうと息をつくだけ。
「もう、なんなのノリ悪い」
羽純は足もとの石ころを蹴った。もうだいぶ闇にも目が慣れていた。
「よく言われる」
「あっそ」
「羽純」
ん? と顔をあげた。思いのほかまっすぐなまなざしで、律は羽純の目を見つめている。
「羽純。ほんとうの自分を見せることが、そんなに怖い?」
何を言っているのだろう。
「弱い自分を見せることが、怖い?」
いきなり何を言っているのだろう、律は。
「悪いことじゃないと思う、僕は。なんでもひとりで抱え込んで強がってたら、壊れちゃうよ。羽純」
たんたんと、しずかに告げる律の声。あまりに低く小さくて、川の流れる音と、虫の声にまぎれてしまいそうだけど、羽純の鼓膜にはしっかりと届いた。
羽純はゆっくりと首を横に振った。律はなんにもわかっていない。
そんなに怖い? って。怖いに決まっている。
一度認めてしまえば。泣いてしまえば、堤防が決壊したみたいに、溢れ出して止まらなくなる。むしろ壊れてしまう。自分を保てなくなってしまう。
母が亡くなってひとり泣いていた時、律に見つかってしまったこと。今思えばありがたかった。決まりわるかったし、おまけにラジオの話なんてされて、なんて無神経と思ったけど、感情の矛先が一時的にでも律に向いたから。
それとも。
あのままずっと泣き続けて、そばにいた律にすがっていたら。あるいはずっと「無理するな」と言ってくれていた兄に、父に。あまえて「辛い」と喚いていたら。もっと早く苦しさは消えていたのかな。少しだけかすめたそんな考えを、やっぱり自分には無理だと羽純はすぐに追い払った。
なにも考えないことだ。
からだを動かし、食べたくなくともごはんを食べ、眠くなくても夜になれば布団にはいる。リズムをくずさない。そうしていれば、いずれは悲しみとも距離ができる。しずかに見つめることができるようになる。祖父はそう言って、娘を亡くしたあとも、毎日畑に出た。羽純はそんな祖父の背中を見ていた。それに。
――あたしには、博己にもらったあの言葉がある。それだけで、じゅうぶん。ずっとずっと友達のままでいるって決めたけど、大事に持っていても、かまわないよね。それぐらいなら、許されるよね。
すうっと、夏のはじまりの夜の空気を、胸いっぱいに吸いこんだ。もう律はなにも言わなかった。




