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流星群  作者: せせり
明滅する蛍の光
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1

 日曜日の昼下がり、本のない、からっぽの図書室は甘くてすっぱい香りで満たされている。かごいっぱいに盛られたいちごを笑里がほおばり、

「あーっ! おいしい! 至福っ」

 と、語尾にハートマークがつきそうないきおいで甘い声をあげた。博己が苦笑しながら笑里のやわらかなほっぺを人差し指でつつくと、笑里は上目使いで博己を軽くにらむ。

「あー。はいはい。ごちそうさまー」

 羽純がやってられないとばかりに頭をかくと、笑里はきょとんと目をまるくする。

「ごちそうさまは、こっちのせりふだよ。ほんとうに、羽純んちのいちご、絶品だもん」

「えっとね、そういうことじゃなくってね」

 あんたたちのいちゃいちゃっぷりを揶揄したんだよ、と言いたかったけど、いちいち説明するのもばかばかしくてやめた。

 赤く色づいた、大小さまざまの、いちごたち。羽純の家のビニールハウスでつくっているいちご。形がいびつで売り物にならないものが山ほどあるから、ご近所にあげたり、ジャムにしたりする。きょうは、小さいころからの仲間たちにおすそわけ。

 いつもの六年生の教室ではなく、きょうは図書室に四人集まっていた。校舎から少し離れたところに建て増しされた別棟にある。理科室と家庭科室もこの棟にあり、本校舎とは渡り廊下でつながれている。

 ここにあった本は、新しいものは町立図書に寄贈され、それ以外は欲しいひとの手に渡った。よって本棚はがらんどうで、あまりにさびしいので資料室に仕舞われていた大きな地球儀を持ってきて大机の横に飾っている。

 五月。いちごの、旬。いちばんおいしい季節。

 薄汚れた窓から差し込むひかりを浴びて、いちごたちはルビーのように艶めく。丸椅子に腰かけた羽純はうーんと伸びをし、椅子に座って地球儀を回している律を見やった。

「律も、食べる?」

 いちおう、そう聞いた。どうせ食べないことはわかっているけど。だけど、それでも、熟れたいちごのみずみずしい生命の力を、律にあげたかった。だけど律はしずかに笑んで、首を横に振る。羽純はかすかなため息をもらす。

「ところで、さ。そろそろアレが飛び始める季節だよ、みんな」

 気を取り直して、羽純は明るい声をあげた。博己が、

「さすがに早くね? まだ中旬だし」

 と口をはさむ。

「うちのじいちゃん、見たっつってた。橋んとこでふわふわ飛んでたって」

「じいちゃん酔っぱらってたんじゃねーの?」

「うっさいなあ。ま、たしかにじいちゃん、いっつもナイター観ながら飲んでるけど」

 やいやい言い始めた羽純と博己のあいだに、笑里が割ってはいる。

「見たい! 見たいよ、ほたる」

 羽純はにんまり笑った。

「下旬になったらもっとたくさん飛び始めると思うよ。梅雨入りする前に、みんなで見にいこうよ」

「でも。パパとママ、許してくれるかなあ」

 眉をさげる笑里。笑里の家は門限がきびしい。なんと、五時。もう高校二年になるというのに、友だちと夜間外出するのもなかなか許してくれない。羽純の家に泊まりにいくのだってそうだ。だけど笑里だって親の言いなりのお人形じゃない。六年生のとき、一度だけ夜こっそり家を抜け出して羽純たちと落ち合ったことがあった。だけど、それ以来ますます彼女の両親の過保護さに拍車がかかってしまったのだった。

「べっつに悪い遊びするわけじゃあるまいし。つーか俺がついてんだから危ない目には合わせねーよ」

「博己が一緒だっつったら、むしろ危ないって思われるに決まってるじゃん」

「どーいうイミだ、羽純」

「そのまんまのイミですよー。ぜったいに飢えたケモノだって思われてるから、あんた」

 いままで女の子をとっかえひっかえしていたことをちくりと責めているつもりだった。だけど笑里は、ケモノって、とつぶやいて、頬を赤く染めて博己を見上げる。目を合わせたかと思えば、ぱっとそらしてうつむいてしまう。

 あーあ。まじでやってらんない。笑里のやつ、なに想像してんだか。

 ふうと息をつき、

「りーつー」

 と。物静かな友人にたすけを求めた。律はくすりと笑った。

「蛍。僕も見たい。五年生のとき、三人で見たのが最後だったよな?」

「うん。あのとき、笑里はお許しが出なかったから、今度こそ四人で見たいよね」

 羽純もやわらかな笑みをかえす。

 四人で。四人いっしょに、いつまでも変わらずにいられたら。羽純はそう、強く願う。満開の桜も、まぶしい若葉も。飛び交う蛍たちも、満天の星空も。めぐる季節を、ずっとこの四人で、手をつないで眺めていたい。

 羽純は、博己をちらと見やった。

 水泳部の練習あがりだという博己の短髪は濡れっぱなしで、かすかに塩素のにおいがする。まだ五月だというのに、まくり上げた袖からのぞく腕は日に焼けている。

 博己。羽純はきゅっと下くちびるを噛んだ。

 そのためなら。あたしは、自分の気持ちなんて。ふたをして、押し込めたってかまわない。すこしぐらい胸が痛いのなんて我慢できる。笑里がわらっていてくれるなら、それでいい。

 いちごをつまんで、そっとかじる。たっぷりと太陽の恵みを閉じ込めた赤い果実は、甘くて。だけど酸っぱくて。酸っぱくて。


 五月の第四土曜日。晴れていたら蛍を見に行こう。梅雨が訪れる前に。

 そう約束を交わし、博己と笑里は先に帰った。羽純が促したのだ。

「せっかくだからふたりでデートでもなんでもしなよ」と。

「むかしはすごくたくさん飛んでた気がするけど。今はどうかな。去年もおととしも見てない気がする」

 残された律がぼそりとつぶやく。

「そんなことない。いるよ。今も」

 羽純はそう返した。きっと律が見に行った時期が悪かったのだ。

 温暖なこの地方では蛍の見ごろは早く、梅雨を過ぎればもうほとんど飛ばない。

 羽純はからっぽの書架を見つめた。

「じいちゃんがね。稲の藁でちっちゃい籠を編んでくれたんだ、よく。ほたるを入れる籠だって」

「ふうん?」

「へんなのって思ってた。だって、稲刈りのころは蛍なんていないのに」

「稲でつくるのは邪道なんじゃないの?」

 羽純はうなずいた。

「そうなんだよね。ほたるの籠って、ほんとは麦わらでつくるんだ。ほら、麦って今の季節、こがね色に実るから」

 そんな話を続けて。ふたりで帰っていった博己たちのことから意識をそらしたかった。律はそんな羽純の気持ちにきっと気づいていて、あえて何も言わずに乗っかってくれているのだろう。

 息をゆっくり吸い込むと木のにおいがする。落ち着く。六年間過ごしてきた校舎だ。当時は、木造平屋の校舎が貴重なものだとは思いもしなかった。掃除の時間は床を雑巾で水拭きするだけでなく、ぬか袋で磨いて艶を出していた。中学にあがってできたほかの学校出身の友達は、この話をすると決まって目を丸くして驚いた。

 律がここに住んでいるのも、うなずける。

「外行こうよ。律」

 羽純は律の腕をとって立ち上がらせた。

「木登りしよーよ」

 にっと笑うと、図書室を出て、駆けた。

 敷地の砂利のあいだにも草が生え、かつての花壇では、おそらくこぼれ種から萌え出たのであろう、ビオラやスノーポールが雑草にまぎれて可憐な花を咲かせていた。流れていく視界のはしっこで、たくましい花たちが揺れていた。


 グラウンドの、体育倉庫の裏手に大きな楠の木が三本、絡まり合うようにして生えている。枝は大きく張り出し、生い茂った葉が倉庫を包みこむようにして影をつくる。

 羽純はジャージの袖をまくると、真ん中の楠の幹に手をかけた。

「高校生にもなって木登りとかさあ」

 律がぼやいているが、スルーする。

「よっ、と」

 くぼみに足をかけ、枝に手を伸ばし、猿のようにするすると登っていく。

「のぼったはいいけど降りられないなんてことになるなよー」

 下から見上げている律が叫んだ。羽純はにやっと笑う。

「律もおいでよー」

「無理」

「なんで」

 羽純は叫んだ。

「意気地なしっ! へたれっ! 運痴っ!」

「運痴って言うなっ」

 むっと眉を寄せた律が木の幹に手をかけた。たどたどしい足さばきで、なんとか登ろうとしている。羽純は少し下まで降りて手を伸ばした。律が握りかえしてくる。

 だいじょうぶ。まだ、手をつなげる。触れられる。

 羽純はぐいっと律の手をひっぱりあげた。ちゃんと重い。相当重い。インドア派でほそっこい律といえど男子で、羽純より身長もあるし肩幅だって大きいのだ。

 博己ほどじゃないけど。

 そう思った瞬間、頭がくらりとした。

 みしっと枝がしなる音がして、律が羽純が腰かけた太い枝までよじ登ってきた。

「羽純?」

「あ。……あ、えと。なんでもない」

――まじでつき合っちゃう? 俺たち。

 いきなりだ。いきなり。むかしの博己のせりふが耳の奥によみがえってしまった。

 あのとき。冗談めかした口ぶりだったけど、見上げた視線の先にある博己の耳たぶが赤く染まっていたのが、夜目にもわかった。

 中二の、合宿の夜。

 心臓がどきどきする。なんで今さら。

「もっと上、行く?」

 律の声で我に返る。もちろん、と満面の笑みを返した。

 楠の葉はあたらしい葉が生えると同時にふるい葉を落とすという。だから木々の枝がはだかになることはなく、ふるい葉とあたらしい葉はいつの間にかそっくり入れ替わっているのだ。

 今、ふたりの目の前で揺れているのは、初々しい若葉たち。少しだけ傾きはじめた初夏の光が、そのいちまいいちまいに反射して、ちかちかとまたたく。

 張りだした枝に座り、ふたりは風に吹かれた。

 すずしげな葉擦れの音がする。空が近い。体育倉庫の赤い屋根を見下ろし、投げ出した足をぶらぶらさせた。萌え出たばかりの若葉のにおいを吸い込むと、胸の奥が痛くなる。芽吹いたいのちが伸びてゆくさなかに、母は亡くなった。

「羽純は」

 律の前髪が風にそよいでいる。

「羽純はもう、バレーはしないの?」

「しないよ」

 即答した。高校の勉強は思いのほか忙しいし、通学にも時間がかかるし、家事だって兄とシェアしなきゃだし、だからもうバレーボールに割く時間はない。

「もったいないと思って。すっげえ楽しそうだったのに」

「楽しかったけどさ。最後の大会で燃え尽きちゃって、もういっか、って」

「ふうん」

 律はちらりと羽純の目を見やってから、すぐに、空へと視線を逃がした。

「ま。博己もバレー辞めたしね」

「博己はカンケーないよ」

 関係ない。

 中学の頃は博己もバレー部に所属していた。男バレと女バレは練習場所もセットで取っていたし、合宿も合同で行っていた。部員同士の仲も良かった。

 当時から背が高かった博己はエースアタッカーで。普段はバカばっかり言ってるのに、コートの中ではまぶしかった。

 小柄だけど機敏な羽純のポジションはリベロ。時々博己が練習相手になってくれた。もちろん女子相手だから手加減はしてくれていたけど。だけど羽純には少しそれが疎ましかった。

 部活ではいつも博己と羽純はワンセットで扱われていて。つき合うまで秒読みとか言われて、どっちが告白するか賭けをしている部員までいた。

 くすぐったかった。教室とはちがって、部活ではちょっとだけ気がゆるんでいたんだと思う。笑里がいなかったから。笑里の、博己への視線がなかったから。

 だから。博己に「まじでつき合っちゃう?」なんて言われたとき。とっさに、うなずいてしまいそうになってしまって。だけど。

「羽純はいいなあ。あたしも合宿に行きたい」

「笑里もマネージャーにでもなればいいんじゃん? 博己のことずっと見てられるよ」

「そうしたいけど。ぜったい、パパが駄目っていうし。習い事だってあるし」

 合宿の直前に、笑里と交わしていた言葉がよみがえって、羽純は博己をかわした。「バーカ」なんて言って、煙にまいた。

 冗談でしょ? 冗談だよね。 冗談ってことにして。おねがい。

 博己は羽純の、言葉にしない意図を汲んだ。そのときは。

「羽純」

 低い、やわらかな声がする。はっとして、

「律」

 と、たいせつな友の名を呼ぶけれど。

 さっきまでとなりにいたはずの律は、もういなかった。その気配さえも、若葉を揺らす風にまぎれて、ちりぢりに消えていた。



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