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白き幻燈

作者: 白瀬 凡

ダムに沈んだ村

 その人がカウベルを揺らして入ってきたのは、四時を知らせる工場のサイレンが鳴って三十分ほど過ぎた頃であった。辺りは既に薄暗くなっている。男は店の一番奥まったテーブルに座った。暖炉に最も近い席である。ウエイトレスのしずくちゃんが注文を聞いて私に伝え、こう付け加えた。

「あと、マスターとお話がしたいからあ、お手すきになったら来てもらえませんかって」

 私が自分でコーヒーを運んで挨拶をした。

「私にお話が、ということでございましたが?」

 濡れたコートを入口わきのハンガーに掛けたその客は、灰色のハンチングを目深に被ったままだ。真ん円い黒縁の眼鏡に、半白の頬髭が光っていた。おもむろに帽子を脱ぐと、出っ張ったおでこと、短く刈り上げたごましお頭の下の目が笑った。

「時だよな。園生時助(そのうときすけ)だろ?」

 私は口を半開きにして相手を見つめた。

朗承(あきつぐ)だ。畠坊(はたぼう)の森内朗承。忘れた?」

 畠坊というのは私の生まれ故郷だ。ただし、もう五十年以上も昔、小学生の頃にダムの底に沈んだ村だけれど。その名を耳にした途端慕わしい香りの風が鼻先を過ぎり、紅い頬した坊ちゃん刈りが、目の前のデコ頭のごましおに重なった。堆積した時間の欠片(かけら)が一息に吹き払われ、私たち二人は時ならず山峡(やまかい)の里の童と化している。戯れる子猫たちのように会話は弾んだ。窓の外の冷たい雨はいつしか霙に変わっている。

ひととき話が途切れ、朗承が炎を見つめながら静かに言うのだった。

「俺さ、この頃同じ夢を何度も見るんだよ。学校の夢なんだけどね」

「学校って?、畠坊小中学校のことかい?」

「そう」

 目をつむってみた。それだけで懐かしい学び舎の木の香を吸った気がした。一階に小学生の下学年から上学年迄の教室が三つ並び、二階に中学生の教室が二つあった。一つは中一と中二の生徒たちが学んだ。中学三年生は受験のためもあって、人数の多少に関わりなく一つの教室を占めていた。一階に音楽室、二階には理科室と家庭科室もあったな。随分反抗もしたが、大人たちはそれなりに考えていてくれた。

 ノスタルジーに耽っていたひとときはその後に続いた朗承の言葉に打ち破られた。校舎が湖底から姿を現すのだという。それはけしてただの幻ではない、多少朽ちてはいるんだが、そのかみの面影をしっかり留めている、自分はその建物の保存を企てているんだと、彼はそう言い募る。澄んだ目に邪気の(かげ)が全く無いからかえって恐かった。

「畠坊の出身者をね、こうやって探し出してさ、協賛金を集めているところなんだ」

 薄暮の窓を霙は流れ落ちる。私は朗承の目の色に吸い込まれてはいたけれど、瞬間体を強張らせた。おい、おい、何十年か振りの懐かしい話に載せて金の話かよ、と思ったのだ。そんな寸借詐欺がついこないだの新聞にあったもの。

 でもね、こいつだけは嘘をつかないはずだ。遠い少年の頃の一つの記憶を私は思い出していた。そう、この男は嘘のつけない奴だった。

「いくらだい?」

「一口三万円だ」

 私は黙って頷き隣のコンビニで六万円を下ろして渡した。妻に叱られそうな気もしたけれど、何だか一口だけではみっともないと思ったのだ。男の見栄に過ぎないのかも知れないが同時に確定申告でこれをどう扱おうかとも考える自分がいた。そう考えつつ、水底に沈んだ母校を甦えらせようという朗承の高邁な志に比して、我ながらけちな料簡だと苦笑する。

 その夜、朗承は私の家に泊まった。さして強くもないらしいのに盛んに盃を重ねては、妻や母、そしてまだ嫁に行かない次女の咲子にまで世辞を言っては笑わせていた。

「病院の薬局手伝いってのもしたことがあるんですが、座薬ってあるでしょ。ある婆さんが言うんですよ。この薬はどうしても座って飲まなくてはならないのでしょうかって」

 そこでまた母たちの笑いが起こるのだが、私の知る限りの朗承から推せば、きっと無理をしていたのに違いない。こんなに賑やかに話のできるやつではなかったのだから。むしろ無口で暗い感じの少年だった。けれど私はこいつを信じたい。月日は随分経ったけれど、人はそうそう変わるものじゃあない。朗承は嘘の無いやつなんだと、繰り返し念じた。それは心の隅に居座る微かな疑いの裏返しとも言えたのだが。

 その夜、妻は娘の部屋に寝て、朗承は私と枕を並べ、眠りに落ちるまで思い出を語り合い続けた。カーテンから漏れてくる街灯の光から、初雪が降っているらしいことが知れた。こいつはやっぱり良いやつだと思いつつ私は軽い鼾を心地よく重ねていった。    

 翌朝、妻の作った熱い粥料理に朗承は舌鼓を打ち、コーヒーを啜りながら静かに言った。

「なるほどな、時助、料理自慢の奥さんをもらったね。いいもんだな」

「馬鹿なことを言うな。何が料理自慢だよ」

 朗承の家族をついに聞きそびれてしまった。聞いてはならないような雰囲気をまとっていたからだ。その朝、うっすらと積もった雪道を帰っていく小さな背中を見送った。円い肩をしていた。

 十日ほど経った頃だった。君一から電話があった。彼はやはり畠坊の幼なじみで、今でも付き合っている唯一のと言ってよい友人だ。朗承のことであった。

「そうなんだ。詐欺の前科があるらしい。え、お前ももう払ってしまった?ほんとか?じゃあ、お互い諦めるしかないぜ」

 一口三万というのは、絶妙な金額かも知れないな。ついつい出してしまうもの。覚めた頭で考えてみれば、畠坊を故里とする人に連絡をつけることだけでも大変なことだ。たかが知れた人数の三万円は、やはりたかが知れているはずである。湖底の学び舎保存という夢は、文字どおり夢の中でしか叶えられぬほどの金額を要するはずなのに。

 でもあいつは私を欺いたりしないはずなんだ。嘘のつけない男なのだ。私は胸の裡で再び繰り返し、少年の日の一齣(ひとこま)をまた思い描く。

 それからちょうど三年くらい経った時、朗承の病死の知らせを君一が私にもたらした。その頃、私の夢の中にも畠坊が時々現われるようになっていたのは奇妙な暗合と言えるかも知れない。少し離れた牧原という地区に墓などが移されたから、墓参りにそちらへ行くことはあっても、産湯をつかった本当の故郷の畠坊には何年も行っていない。水に沈む頃、私たちは少年で、心に痛みなんか感じなかったけれど、大人たちはきっと辛かっただろう。今ならよくわかるのである。

 その年の冬、妻を誘って発作的に畠坊に旅立つことにした。あの山国はもう雪に覆われているに違いない。君一にも声を掛けた。騙された連中が喜んで応じたのは不思議な話だ。君一は付き合いを大事にする男で、彼の筋から、朗承に一口、二口応じた十数人の同郷の者たちが参加することになったのだ。貸し切りバスをチャーターした。車内はいい歳をした男女が遠足気分ではしゃぎ回って、その家族はやや呆れ顔であった。孫を連れてきた者もいる。じいちゃん、ばあちゃんの騒ぎをよそに、彼らはゲームに夢中になっていた。

 ひかり湖展望台がひとまずの目的地だった。ひかり湖とは畠坊ダムの愛称である。故里が姿を消したのは寂しかったけれど、水を湛えた人造の湖は季節ごとに美しい粧いを見せているという話を人づてに聞いてはいた。明るいうちにその場所に到着したかったから、そのように計画を立てたのだが、吹雪が生半ではなかった。途中でチェーンをタイヤに装着したのに少し時間をくった。展望台に着いたのは既に日が西に沈もうとし、東から(もち)の月が顔を出し始めた頃である。その日の残照はこれまで見たどれよりも明るく美しいと私には映った。ひかり湖はそのきららかな光に抱かれてあった。

「わあ綺麗、マスター、ここがマスターの生まれ故郷なんですか。真っ白ですね」

 そうそう、一行の中に、ウエイトレスのしずくちゃんもいた。彼女は咲子の中学時代の同級生である。咲子にも我が生まれ里を見せることができたのは妙に嬉しかった。アクアマリンの雲がたゆたっている。こんなに美しい土地で自分は生まれたんだなとあらためて思う。そのときだった。咲子の叫び声が感傷の夢を破った。

「わあ、お父さん、あれ何?雪の小山かなと思ったら、あれ、人工物、建物だよ」

 そちらを見た。それは確かに、雪にまぶされたかのように立つ畠坊小中学校の校舎だった。呆けたように暫くその姿に見入っていた。冬の短い日は暮れようとしている。魔法でもなんでもない。渇水期、比較的高い所にあった一部の建物がその姿を現したのに過ぎないのだ。でも、理屈とは別の思いが私には湧いていた。月光に照らされたその一画はささやかな写し絵の劇場と化していたのだ。

 西空の群青色も消え果てようという間際、校舎を覆う雪をスクリーンとして、私にとって紛れもない子どもらの影絵が見えていた。群れ遊ぶ少年少女の横顔は、誰それとその名を言うことはできないけれど、きっとあの頃の懐かしい誰かの頬のシルエットに違いない。朗承、嘘をついていなかったじゃあないか。やっぱりおまえは昔から嘘のない男だった。おまえに会ったから俺たちはみんなここに呼び寄せられた。来し方を振り返り、それぞれの心の裡に描かれた薄墨色のそれぞれの絵を眺めている。そう、朗承、あそこにセピア色したおまえのおデコの横顔も確かにあるではないか。

 雪がまた舞い始めた。雪片が大きくて掌に暖かい。あの年の初雪の朝に帰っていったお前の円い背を、私はけして忘れはしないだろう。ー了ー

美しき幻燈

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― 新着の感想 ―
[良い点] 湖底から浮き上がる校舎の姿が幻想的で美しいと感じました。 [一言] ありがとうございます。
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