労働基準法では守れないあなたに、せめて家路を。
そうだねぇ、と後藤さんは力なく笑った。抜けてしまった歯の隙間からこぼれ出る笑みが痛ましくて僕は何も言えなかった。
「でも、働かないといけないですから」
後藤さんはいつもの敬語口調に戻って付け足した。
彼はずっとマスクをしていた。いつから歯が抜けていたんだろう。週に一回しか会わないとはいえ彼がこれほどにまで弱っているのに気付かなかった自分が情けなかった。
「あの、お体は大事になさってください」
「あはは、ありがとうございます。渋江さんも」
僕なんかはいいんだよ、と僕は心の中で叫んだ。そして同時に僕なんかが後藤さんに何を言っても後藤さんを楽にしてあげることはできないと分かっていた。だから僕はそれ以上のことを言うのをやめた。
今日最後のバスの中には僕たちだけが乗っていた。東京のはずれのこの町はこの時間になればほとんど真っ暗だった。
「あ、それ新発売のですよね」
僕は後藤さんの持っていた紅茶のペットボトルを指差す。
「そうそう。このシリーズは好きでやめられないんだよね」
「自分はマスカットのが一番好きです」
「私はやっぱりミルクティーですね。ミルクティーの甘さが一番なんですよ」
「甘くておいしいですよね、ミルクティー」
場違いに明るく光るコンビニの看板を左手にバスは大きく曲がる。駅はもうすぐそこだ。誰も聞いていないアナウンスのテープが終点と告げる。
僕は前を見ている後藤さんの横顔を見た。初めて会ったときよりだいぶ痩せたみたいだ。鞄にかけた手の甲も骨が浮き出ている。後藤さんはこの手で毎日生徒達に教えていたんだ。
後藤さんは僕の大学の卒業生だった。そしてアルバイト先の塾の先輩だった。
バスは駅前に着き僕たちは小さなロータリーに降ろされた。行き先表示を回送に替えバスは遠ざかっていく。駅にはいつも通り疲れた顔をした人と赤い顔をした人の二種類の人間が吸い込まれていく。お互いに他人のことなど見ていない。
人は皆自分のことで精一杯だ。自分の家に辿り着くのに精一杯だ。辿り着けない者は見捨ててゆく。
「じゃあ」
と後藤さんは新宿行きホームに向かう。僕は逆方向。ここでお別れだ。
「あっ、後藤さん」
「渋江さん、大学での勉強、がんばってください。私みたいになっちゃだめですよ」
まただ。僕なんかを気遣って後藤さんは笑う。
「後藤さんも、お元気で。」
「...ありがとうございます」
後藤さんは困ったように笑いながら小さく手を振ったのち、僕に背中を向けて歩き出した。
僕はその背中が階段を上って消えるまで見送った。
後藤さんの背中が見えなくなると僕も反対ホームの階段を上った。酔って蛇行しながら歩くおっさんを追い抜いてホームに出てちょうど来た電車に乗り込んだ。
ドアが閉まり、電車がゆっくり動き出す。
床に座り込んでしまったおっさんに駅員さんが声を掛けているのが目に入った。おっさんはその手をうるさそうに払いのけ、駅員さんは腰に手を当てた。駅は静かに遠ざかる。
差し出す手を拒んでも自分で選んだ荷物を背負っていく人がいる。彼を救えるのはその手ではなく、荷物を減らすルールでもなく、ましてや僕でもない。
僕は遠ざかっていく駅から目を離し進行方向を見遣った。
僕だって家に辿り着かなければ同じように見捨てられてしまうのだから。
《終》
僕には誰も救えません。だからこそ知ってほしい。
架空の物語かどうかは問題じゃありません。僕にとっては真実のひとつなんです。