四章 不在の朝
ドンドンドン!
「ん……何……?」もそもそ。「あれ……ああ、そっか」ロッジに泊まっているんだった。時計を見ると六時半。誰?
隣のベッドを見ると、彼女は既に起きているらしい。羽毛の掛け布団が丁寧に上げてあった。
(あ、そうだった)一瞬忘れていた。まぁ、収穫は戻って来た時に嫌と言う程聞けるだろう。
「ボビー、ちょっと開けてきて」
「クゥン」同じ布団の中にいた毛玉はぶるぶる首を横に振った。コリーには鍵を開けられないよ、とでも言いたげた。
「ノブの下のつまみを回すだけだよ。それならこの肉球でもできるでしょ?」ぷにぷに。「早く行って。でないと朝御飯抜きだからね」
ドンドン!
「クーン」
渋々ドアに行って前脚を上げ、二足歩行のままサムターンに脚を掛ける。カチャン。ほらできた。
キィ。ドアの先にいたのはボーイだ。
「どうかしたの?こんな朝早くから」壁を指差し「用ならあの電話を使えば良かったのに」
「申し訳ありませんマクウェル様。百五号室のお客様はこちらにいらしておりませんか?」
「ううん。いないのは女の人の方?」
「いえ。御主人です」意外な回答に軽く驚く。「奥様が起床された時には既に部屋にいなかったそうで。お客様はお二人の知人だと伺っておりますが、何か御存じですか?」
「全然」ベッドから立ち上がる。ガウンに皺が寄っていた。「栗花落さんは部屋?」
「はい。介助無しに探しに行かれては困りますので、待つように言ってあります」
「分かった、私が付き添うよ」
「では失礼します」バタン。
顔を洗い、いつもの黒服に着替えて髪を梳かす。
「――はともかく、おじさんは別に行方不明でもいいかな」
「クゥン」
廊下に出て隣室のドアをノックする。
トントン。
「栗花落さん、遊びに来たよ」
「クランベリー様?どうぞお入り下さい」
百五号室は百四号室と家具も配置も全く同じだ。
彼女は自分で淹れたのかソファに座って紅茶を飲んでいる所だった。気品漂う優雅な朝の一杯だ。
「おはよう。おじさんいなくなったんだって?」
「はい。私が起きた時にはもう……お仕事の調査にしては急ですし、一言も無しというのはやはりおかしいのです」
そう言いつつ取り乱していないのは、ベルイグ氏の力を信頼しているからなのだろう。
「ねえ栗花落さん。おじさんから仕事の事何か聞いてる?」
「私も詳しくは……旦那様が面倒だと仰っているのは何度も聞きましたが」
「仕事って大抵面倒じゃない?」
くすっ。
「どうやら詐欺グループが近々この辺りで集会を開く、と言う密告が連合政府の方にあったらしいです。それで旦那様と数人の政府員の方が、それぞれ別のロッジに泊まり怪しい動向が無いか調査をなさると、そんなお話でした」
「ふぅん……真面目に捜査しているようには見えなかったけどね」
「那美さんと私が強引に付いて来たので嫌気が差したのかもしれません。元々気乗りしていない御様子でしたし」
その割には橇を真剣に選んだり練習したり、サボる方面はすこぶる楽しそうだったけど。
「あの、クランベリー様」珍しく眉を顰めて「二人がいなくなってしまったのは、もしかしたら私のせいかもしれません」
意外な告白。
「どうして?」
「同行を決めた時に旦那様と那美さん、今までに無いぐらい大喧嘩をなされて。それも原因は私なのです。お互い相手がいたら私にとって迷惑だ、と。勿論そんな事はありません。両方とも大事な方です」
その話が行方不明にどう繋がってくるのか。
「那美さんがトイレに行って気が緩んだのですね。溜息を一つ吐いた私に、この宿の御主人が心配して声を掛けて下さったんです。それで喫茶店へ行き、少しだけ相談に乗って頂いて……話し終わった時、御主人が呟かれたんです。『お二人は余程相手が気になるのですね。案外片方の人が少しの間いなくなれば、心配して素直に仲直りができるかもしれません』私はもしそうなれば嬉しいです、と同意しました。その矢先に那美さんが――」
「残ったのが那美ならまだしも、おじさんじゃ効力無いね」
「そうなんです。旦那様、折角金を出して連れて来てやったのに勝手にいなくなるとは猫にも劣るお転婆め、と散々仰られて少しも心配していませんでした。那美さんが取っていた部屋も即決でクランベリー様達に渡してしまわれましたし」
「で、おじさんの行方不明も心当たりがあるの?」
突然栗花落さんは手を叩き、「まぁ!私とした事が、クランベリー様にお茶をお出しするのをすっかり忘れていました!」
「え、いいよそんなの」と言いつつ咽喉の渇きを覚える。起床してから一滴の水も口にしていなかった。
盲人とは思えない素晴らしい動作でティーカップを出し、わざわざ新しい湯で紅茶を作ってくれた。
「どうぞ」
「どうも」
顔を近付けるとふんわり良い香り。お茶は特に好き嫌いは無い。
「はい、ボビー様」いつ用意したのか浅皿にミネラルウォーターが入った物を床に置く。クーンと感謝して舐め始めるコリー。
「で、どこまでお話ししたでしょうか……そうです、旦那様の事ですね」
「うん」
「昨晩、少し私用でフロントまで一人で行ったのです」
「電話でしょ?丁度私も散歩してて」
「まあ。あの足音はクランベリー様でしたか。道理でどことなく聞き覚えがあると」
口元に手を当て、ふふ、と笑う。
「ええ、電話が終わって部屋までの帰り道、また御主人とばったり。『大変な事になってしまいましたね、お気の毒に。ところで問題は解決なされましたか?』私は正直に、旦那様は全く心配していませんでした、と答えたのです。すると御主人は唸られて『成程。あなたの御亭主は随分プライドの高い人間のようですね、あの年代には往々にしてある事ですが。きっと下手に取り乱してはあなたを不安にさせてしまうので、態と気にしていない振りをしているのでしょう』と仰られました」
「あのおじさんに限ってそんな愁傷な心掛け絶対にない」
「相変わらずはっきり言われますねクランベリー様は。私もそう思いますが、旦那様は別に鬼ではありません。ああ見えて初仕事の時は今程仲は悪くなかったのですよ」苦笑混じりに弁解する。
「それで?」
「御主人は『御亭主を素直にさせるのは骨が折れる作業です。私も方法を考えておきます』その後『口論の元があなたであるなら、少しの間離れれば冷静になるかもしれません』と。私は無理です、取り乱して和解どころではなくなりますと答えました」
「でも実際おじさんはいなくなった、主人の提案通りに。でも」欠伸。「意味無いよねこれじゃあ」
「??意味、ですか?」
「だって那美もおじさんもいなくなったんだよ?二人が仲直りしても栗花落さんには分からない。折角相談に乗ってもらったのに、解決したとは到底言えないよこれは」
「確かにそうですね……行方不明になるぐらいでしたら一日中喧嘩している方がましです」
やってみる価値はあるか。息を吸い込み気持ち大きな声で「せめて那美が帰って来ておじさんを心配してくれたら、願いが叶った内に入るんだけどなぁ」
クスクス。
「クランベリー様は本当に面白い方ですね」
飲み終わったカップを手に取り、「そろそろ朝食のお時間ではありませんか?私はいりませんのでお連れの方と摂ってきて下さい。お腹が空いていては戦はできませんよ」
「栗花落さんは大丈夫なの?」
「ええ。でも皆さんを探しに行かれる時は是非お声を掛けて下さいね。仲間外れは嫌ですよ?」
「ん、分かった」コリーの頭を撫でる。「御馳走様。ボビー、朝御飯に行こ」「クゥン!」
一瞬チラッ、と見た彼女はいつもと変わらず微笑んでいた。これなら大丈夫だろう。
「待て、踏み込むな」
制止の声。しかし既に持ち上げた右脚を止められるはずもない。
ズボッ!
「わっ!!」
太腿まで一息に埋没、バランスを崩して前のめりに転倒。ずぶずぶと雪に沈む。
「新雪に足を入れる奴があるか」首根っこを掴まれて引き起こされた。「しかもスリッパのままで」
はっ、とした途端足先が冷たい事に気付く。窓の外の姿を追い掛けるのに夢中で、ブーツに履き替えるのを忘れていた。
『相変わらずイスラは抜けているわね』水鏡の中からクスクス笑い声。
「あなたがこんな朝早くロッジの外に行くからです」
スキーウェアを着込んだ人形は眉を顰めた後、重い溜息を吐いた。
「随分間の悪い時に来たものだ」
「え?」
「見えるか?向こうの樹の根元に三人倒れているだろう?」
遠目で分かりづらいが、彼女の言う通り雪上で人間が折り重なっている。気絶しているようだ。
「私はただランニングをしていただけなのに、何がいけないのだ?」
「ランニング?こんな足場の悪い所でですか?」
「負荷を掛けるのは鍛錬の基本だ。雪の見分けさえつけばこれ程格好の訓練所は無い――早くロッジに戻って温めろ、凍傷になるぞ」
「この状況で平然とよくそんな事が言えますね?あの人間達は何者です?」
「知るか、私が教えて欲しいぐらいだ。あの天使ならともかく、私はいきなりハンマーで襲い掛かって来られる心当たりなど」
そう言ってズボンのポケットからはみ出た一枚の紙を押し込む。
「それは?」
「貴殿には関係無い。さて、どう追及してやれば効果的か……」
どうやら質問は無駄なようだ。一旦諦めて別の話に移る。
「昨日の報告もまだです。四天使の命令です、答えなさい」
紙を睨んだまま人形は頭を掻き、「彼女が許可を出さない限り私の一存では答えられない。昨日そう言ったはずだが?」
「私の命はミーカールの物と同一ですよ。それでもですか?」
「今の主人は彼女だ、約束は守らねばならない」
『随分強情な人形ね。イスラ、訊き出すのは無理そうよ』
説得も通じず実力行使も不可能な今、取れる手段は皆無。だからと言ってクランベリーにまともに相手されるとも思えない。酔いであやふやな記憶だが、昨夜探りに行かせたラントの報告を聞くしかない。
「全く、仕様がないな」大きな手が私の腕を掴み、ズンズン来た道を戻り始めた。「風邪を引かれでもしたら私の立場が無い。早く歩け」
ザッザッザッ。一歩毎にスリッパの中の素足に雪が触れて冷たい。
「あの人間達は放置するのですか?」
「勝手に襲撃してきたのはあちらだ。凍死しようが私の知った事ではない」
よく見れば人形は無手。なのに凶器を持つ三人を易々と打ちのめし、傷一つ負っていない。ミーカールの訓練の賜物とは言え、圧倒的な強さだ。
氷の森を抜けた時、ロッジの外周を回ってスキーウェアを着たラントが走ってきた。
「イスラフィール様!何て格好しているんですか!?早く中へ!」
彼は人形の方に向き直り深々と頭を下げた。
「ここまで連れて来て頂いてありがとうございます。あなたはクランベリーさんと一緒にいた」
「ああ。足先が霜焼けし始めている、熱めの湯を用意して半時間程浸からせておくといい。出したら水分をよく拭き取って保湿クリームを塗ってやってくれ」
「アドバイス感謝します。詳しいですね、医療関係の方ですか?」
「いや、傭兵仕込みの応急処置だ」
「成程」
「では鍛錬の途中なので、これで失礼する」
人形は元来た道とは別の方向、ロッジ脇の焼却炉の方へ走り出して、止まった。
「何だあれは……人が倒れているぞ?」
「え?」私達も踵を返す。「本当だ」歩き出そうとした私の肩を人形が掴む。
「貴殿は中に戻れ。君は来い、運ぶのを手伝ってもらう」
「分かりました」二人は駆け足で去って行った。
『体よく仲間外れにされたわね。まあいいわ、戻りましょう。本格的に凍傷して歩けなくなっても厄介だわ』冷えは何時の間にか、ズキズキとする痛みに変わっていた。『歩ける?』
フロントに入るとボーイが飛んで来て、私が何も言わなくても湯を運んできてくれた。ソファに座り足首まで浸けると痛みが引いていく。
バタン!「済みません!外の雪の上に知人が!もうすぐ連れの者が運んできます」
「遭難かもしれませんね。毛布を取ってきましょう」
バタン。人形が要救助者を背負って入ってきた。
「ソファを借りるぞ」私の隣のソファに寝かされた女性は見覚えがある気がした。短髪にボーイッシュな雰囲気。
「宝君!目を覚ますんだ!」
思い出した。宝 那美、クランベリーの知人。ラントも知り合いのようだ。
「どうぞ」
「ありがとう」人形は体温を下げないよう普段着の女性を毛布で包む。
「すぐに病院へ運びましょう」
「その必要は無い。眠っているだけで体温は正常だ、恐らくあそこに放置されてからそう時間は経っていない。しばらくすれば目を覚ますだろう」
手を彼女の顔に翳し生命力を感じ取る。
「どうだ?」
「あなたの見立て通り大丈夫そうです。しかし何故あんな所に」
「へぇ、本当に帰ってきた」
眠そうな目の少女がコリーを引き連れてロビーに入ってくる。「栗花落さんに電話しよ」フロントの受話器を親指と人差し指で摘み上げる。
「もしもし栗花落さん。早速那美が戻ってきたよ」口から受話器を外し、「大丈夫なの?」
「ああ、眠っているだけで問題無い」
「そう……うん、命に別条無いみたい。今フロントのソファにいる……分かった」ガチャン。
「どうするんだ?」
「看病するって。百五号室に運んで」
「分かった」女性を軽々と横抱きに人形は歩き出す。
少女は私の方を見て、「何やってるのイスラ?こんな所で足浴?」
「霜焼けの治療中です。スリッパのまま外に出てしまって」
「スリッパで?可愛い兎でも追い掛けてたの?」
「ええ、やたら足が速くて大きな兎を」精一杯の皮肉で返す。
「あ、そう」興味無い声だ。「ラント、御両親は?そろそろ朝御飯に行く頃じゃない?」
「――本官などよりクランベリーさん。イスラフィール様に頼む事があるのではないですか?」
私に頼み?
「何を?」
「レイさん達の事に決まっているでしょう!水鏡を使えば居場所ぐらい」
その一言で全てが繋がった。何と言う失態だ!クランベリーが人形と二人でこんな遊び場へ来るはずがないではないか!
少女は首を竦め「あーあ言っちゃった。ま、そっちは別に約束してなかったしね」あっけらかんと言う。
「クランベリー!」
「うわ、イスラ怒ってる。下手に声掛けるんじゃなかった」
何故この少女は何度目覚めてもこう飄々としているのだ。私の気も知らずに。
「どうして言わなかったのです!?そんなに私が嫌いなのですか?」
「イスラフィール様!クランベリーさんはあなたのためを思って」
「私の?」
「ラント!」
少女は両手で大きく×を作った。
「どういう事ですラント?説明して下さい」
「言ったら絶交だからね!」
彼はしばらく私達を交互に見た後、「済みませんクランベリーさん」頭を下げた。
「イスラフィール様、彼女に悪気は無かったのです。ただ初めての布教の邪魔をしてはいけないと思ってあえて」
吃驚し過ぎて眩暈が起こった。
「本当、なのですかクランベリー……?私のためにそんな」
「うわ……確かに間違ってはないけど。ラント、後は頼むよ」
ずっと誤解していた。彼女にも人を気遣う可愛らしい感情はあったのだ。ただ私の曇った目には見えていなかっただけで。
ボロッ。
「クランベリーがそこまで気遣ってくれていたなんて……私は大馬鹿者だ」
「イ、イスラフィール様……目から血が」
ボロボロッ。
「ええ、彼等を早く見つけなければ。私は彼女の庇護者なのですから」
「それはいいですけどは、早く拭いて下さい。あ、済みません」
頬に柔らかな布の感触が当たった。
「三十七・五℃か……」
体温計をベッド脇のテーブルに置き、代わりに指輪を右手の中指に嵌める。
「報告を」
目の前に光のモニターが現れ、宇宙中に散らばる手足からの数十にも上る定時報告が時刻順に列挙された。
(イスラフィールがいないとこう言う所も大変だな)普段なら悪夢で弱った自分に代わって彼が毎日数回新しい物に目を通し、対処すべき問題をピックアップして報告してくれる。
微熱の長引く身体に延々続く文章の羅列、仰向けとは言え体力的にきつい。幸い異常事態を知らせる報告は無かったが、残り一通になった時には流石に目がチカチカした。
(明日からはウーリーエールに任せよう……)あれの情報処理能力なら造作も無い。(さて)
『軽度貧血を除き健康状態良好。潜入概ね成功。布教活動の進行状況不明。対象の危険度、戦闘能力面では一般人並。但し武器所持の有無は不明。到着直後に若干のトラブル、任務への障害度は現時点では不明。問題有る場合は追って報告する』
若干のトラブル、か……煮え切らない単語だ。詳しい説明を送らせるべきか?
「いや」
あれはミーカールの推薦した物。通常の木偶と違い状況把握能力は格段に優れている。報告に上らせていないのは、単純に任務対象から外れた所の問題なのだろう。
モニターを閉じ窓の外の氷城、封印を確認する。
(四柱六紡が四つも解けたのは本当に偶然なのか……?)
封じられていてさえ悪夢による侵食を行える悪魔なら、直接手を下さずとも人の無意識を操り、天を廃し魔を滅させる事ができるのではないか?
(矢張り帰還命令を出して手元に置いておくべきだったか……)
様子がおかしいのは分かっている。基本的性質に無いバグ、プログラムされた行動原理に合わない言動。
(まさか……天使は道具だ、操られるはずがない)
喜怒哀楽があるように見えるのはプログラムの内。他の者の修復を担当する彼に穏やかな性格を与えたのは、ただ任務に有利だと考えた上での事。しかし幾ら優しくとも別の天使の任を継ごうなどと判断するはずがない。四天使が欠けた場合、速やかに忘却せよと基本プログラムされている。勿論欠けた事実自体は記憶されているが、人間のように感情を伴い悲しみはせず、能力と任務の軽重によって新たな分担を決定するだけだ。ジプリールの場合は、私が兼務は必要でないと判断し振り分けを行わなかった。なのに、
(クランならどうするだろう……?)毎度毎度結論をそこに持って行く自分が嫌になる。彼女は神ではないと言うのに。(でももしあの子が神になっていたら)きっと全ては違っていた。
頭を振って身体を起こす。横になっていても気が滅入るばかりだ。
湯浴みで汗を掻いた全身を清め、創造したばかりの寝巻きに替えて朝食。卵粥も指輪に掛かれば一瞬で出来上がる。
(そう言えば、イスラフィールは今朝何を食べているのだろうか)
人間と行動を共にしているなら朝餉にも誘われるだろう。下界では今ぐらいの時間のはずだ。
(クランなら指輪の試運転に覗き見ぐらいしそうだな)
やってみようか、ふとそんな考えが浮かぶ。面白半分に使うのは勿論良くない。しかしこのまま戻って来るまで悶々と熱に浮かされているよりは建設的だ。
中指を水平に突き出す。「幻視を」光のモニターが一瞬現れ、星瞬く宇宙に切り替わる。
(ええと、“白の星”の……ソイスキー場、とか言っていたか)
思念で画面を操作し目的地を拡大表示するのだが、やってみると意外に難しい。普段は最初の画面で用足りてしまうので、一からだと扱いに慣れるのに時間が掛かる。それでもどうにかスキー場を映し出せたが、まだ営業時間前のようだ。従業員らしき人間がロープウェイの点検作業をしている。
(宿の名前ぐらい訊いておくべきだった)上空から見渡せる範囲で確認できるだけで十三軒。近場から検索を掛ける事十分。
「見つけた」
四軒目のロッジの一階レストラン。イスラフィールは初老の夫婦、息子らしき青年と一緒のテーブルに着いている。丁度今から食事らしい。
モニター越しなだけで随分新鮮な感じだ。翼を隠して一般人の服を着ていると成程、普通の人間と変わらない。
『ん?』不意に高い声が聞こえた。モニター一杯に映る顔。
「うわっ!!」思わずベッドの上で後ずさった。
何でクランが!?
「どうしました?」後ろからイスラの声がする。
「いい加減切らなきゃと思って、前髪」壁に掛かったピカピカの鏡を覗き込む。そう言えばここに立てば丁度レストランの全体を見回せるな。
「イスラさん、お知り合いなの?」ラントの母親が尋ねる。
「はい。大恩ある方の妹で、よく懇意にして頂いています。私達と同じく昨日から宿泊を」
「ほう。どうかね、一緒に朝食でも?」
「ごめんなさい、部屋に友達を待たせているの。あ、出来たみたい。じゃあまた」
カウンターへ行き、出来上がったばかりの犬用スープの皿を受け取る。
「こっちで食べるって言ってあったんだけど、また部屋に朝食持って来てくれる?百五号室に三人分お願い」
「畏まりました」
ここのボーイ達は本当に親切だ――本当に。
「ボビー、貰って来たよ」
「クゥン!」
昨日一日中雪の中を走り回ったせいか、今朝は若干お腹を壊し気味。温かい物を飲んで少し休んでいれば大丈夫だろう。
百五号室のドアの前に立ち、「手が塞がってるの、開けて」中に呼び掛ける。
「ああ」
部屋に入り、まずはテーブルの下に皿を置く。ほかほかの湯気に乗って蕩けた冬野菜の良い匂いが漂う。
「今日は先に食べていいよ。でもゆっくりね」
「クゥン」
ピチャピチャ――。指を入れて舐めてみると、塩胡椒していないジャガイモのポタージュだった。確かに犬に塩分は良くない。
「ん、那美は?」先程まで膨らんでいたベッドが空。
「ついさっき目を覚ました。眠気覚ましにシャワーを浴びている所だ。多少ふらついていたので、脱衣所まで彼女が付き添っている」
不意に彼女は私をじっ、と見た。どうやら予想通りに事が起こったらしい。
「そんなに見つめないで。私、可愛過ぎて惚れさせちゃった?」
「かもな。――この落書きに見覚えは?」
ポケットから出した紙を広げて見せる。
――助けて下さい。
私は遺産相続争いに巻き込まれ、兄の手下である女に明日、山の頂上から事故死に見せかけて殺されてしまいます。この一筆も彼女の目を掻い潜り、暗い監禁部屋で書いています。
誰でも構いません、私を助けて。報酬は彼女の財布の中のゴールドカード――
「酷い読みにくさだね。字を習いたての子供でも書かないよこんなの」
「仕方ないだろう。『暗くて』しかも『監禁された部屋』から書かれたSOSだ。ギリギリ判読可能なのがせめてもの救いだろう。完全に読めなければこの哀れな少女は死を待つばかりだ」
「少女とは限らないんじゃない?成人女性、或いは男かも」
「成程、それもそうだ」彼女はぽん、と手を打つ。「貴殿は流石頭が回る」
「お褒めの言葉どうも」
おどけて一礼してみせる。
「いや全く素晴らしい頭脳で――何故私を襲わせた?」
私は片目を瞑り、慣れない微笑を浮かべてみせた。
「証拠はある?私には嘘の手紙を書いてまでお姉さんを亡き者にする理由は無いよ。大好きなお兄ちゃんの寄越した護衛のあなたを、ね。何なら筆跡鑑定でもする?」
「いや。幾ら女王陛下が悪筆でもここまでではないだろう。利き腕で書かれていない以上鑑定は無意味だ」
「左手で捏造したと言いたい訳?」
「或いはペンを足の指で固定したか、口で銜えたかだ」
「まあ大変そう」見当違いの推測に微笑ましくなる。本当は熟睡中のコリーの尻尾をペンに巻き付けて書いたのだ。適度な筋肉の動きで字形が程良く乱れ、如何にもそれっぽく完成した時は軽く吹いた。
「まあ、書かれた方法など瑣末な事。問題は貴殿がこれをどこにやり、誰が真に受けて襲って来たかと言う件だ」
彼女はふっ、と息を漏らし、まさか他には無いだろうな?そう尋ねた。
「残念。手紙の主は一枚で止めたみたいよ、眠くて」
「それは有り難い。しかしその態度は感心しないな。自分の命が懸かった夜なのに、眠気に負けて諦めてしまうとは」
「睡眠欲って人間の三大欲求の一つじゃなかった?しょうがないよ」
一向に効かない酒で一杯のお腹を抱え、寝返りを打とうとするコリーを押さえつつペンを走らせていれば嫌でも疲労が溜まる。
「――機はまだ熟していないのか?」真剣な表情。
「もう少し待って。まだ掴み切ってない」
不明なまま行動を起こすのは愚か。動くのは全部把握してからだ。
「了解した」
ガタン。
「あー気持ち良かった」
バスローブ姿の那美が、後ろ手に栗花落さんを引いて出てくる。
「那美さんがお元気になられて何よりです。もう意識ははっきりしていますか?」
「はい。先生不在の今、私が栗花落さんを何処へなりともエスコートしますよ」
溌溂とした姿は健康体そのものだ。
「頼もしいお返事ありがとうございます。……まぁ、クランベリー様にボビー様。お戻りになられていたのですね」
「クラン!?」政府員は目を見開いた後、俯いて「済みません。他の皆を差し置いて私だけ帰って来てしまって……元はと言えば私のせいなのに」
「別にいいよ。それより何があったの?今朝までどこに?」
彼女は頭を横に振り、「それが……どうもずっと眠らされていたようで、記憶が全く無いんです。誘拐された時も後ろから襲われて、犯人の顔は見ていなくて……済みません」手を繋いだままソファに倒れ込むように座る。頭を押さえて「まだ睡眠薬が効いているみたいです、痛い……」
様子を見ていた彼女は、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取って那美に渡した。
「水分は薬の代謝を促す。飲んで早く楽にするといい」
「ありがとうございます」キャップを開けて一気にゴクゴク半分飲み干す。相当咽喉が渇いていたようだ。
「連れ去られる前の事話してくれる?」
「えっと……栗花落さんがいなくなって困っていた所に、丁度レイ君達がレンタル店から出てきたんです。事情を説明して、手分けして探していたら逆に……栗花落さん、一体どこにいたんですか?」
「すぐ傍の喫茶店ですよ。このロッジの御主人にお茶を御馳走してもらっていました」
返事を聞いて、那美は訝しげに眉を顰める。
「おかしいですね。喫茶店なら真っ先にセミアちゃんと一緒に調べましたよ?でも、店員以外お客は誰もいなくて……と言うか栗花落さん、駄目じゃないですか知らない人にほいほい付いて行くなんて!人攫いだったらどうするんですか!?」
「御挨拶も致しましたし、強ち知らない方ではないと思いますが」
「駄目ったら駄目です!今度から付いて行く時は私か先生にちゃんと言って下さい」
「はい、分かりました」
「よろしい」
素直な答えに那美は上機嫌だ。
「ねえ那美。おじさんの仕事の話は聞いてる?詐欺グループがどーのこーのって」
「ああ。詐欺集団には違いないですけど、詐欺は詐欺でも詐欺宗教です。夜来教と言う団体名で、願いを叶えますから御布施を寄越せと言ってくるらしいですよ」
繋がった、しかも新しい情報付きで。
「御布施、ね」盲目の婦人に視線をやり、「栗花落さん、お財布は?」
「旦那様の言い付け通り、いつも肌身離さず持っています」取り出したのはやや草臥れた茶の革製財布。中を指先で探り「私の物は大丈夫です。硬貨一枚たりとも無くなっていません」
ローブのポケットからパスケースと一体になった黒革財布を取り出す。「二人も自分の調べて」特に異常無し。目線を上げると、彼女は首を横に振り「紙幣は抜かれていない。カードの方は後で確認しておく」となると、
「ありません!!紙幣も硬貨も全部無くなっています!!」顔面蒼白になりながら叫ぶバイトの政府員。
「ええ!?まさか……先程私が、那美さんに帰って来て欲しいと言ったせいでしょうか?」
「栗花落さんそんな事を……心配掛けて済みませんでした」
「私こそ申し訳ありません。お金が必要でしたら遠慮無く言って下さいね。宿泊代は支払っておきますから」
「済みません。必ず後でお返ししますから」
ひたすら頭を下げる那美を見つつ、私は首を捻った。
「変なの」
「何がだ?」
「那美に帰って来てとお願いしたのは私と栗花落さん。なのに何で代金は本人の財布から持って行ったの?夜来教は御布施をした人間の願いを聞くんでしょ?」
「彼女が一番盗みやすかったからではないか?拉致されて意識の無い人間だ。幾らでも盗り放題だろう」
そこではた、と気付く。(二重だったのか)それなら那美の財布が空な説明も付けられる。
「なら尚更おかしいよ。だって栗花落さんの望みはまだ叶ってないもの」
「……確かに仰る通りです。少なくとも私の当初の願いはまだ達成されていません」
発言を聞いて、那美が天地でも引っ繰り返ったような表情をする。
「な、何ですか当初のって!?困った事があれば何時でも相談して下さいって私言いましたよね?」
「ええとそれは……」曖昧な笑みを浮かべ「その、人様の事を私如き口出しするのもどうかと思いまして……」
その様子でようやく悟ったらしい。
「――もしかして、先生と私の喧嘩を今までずっと気に病んでいらしたんですか……?」
一転泣き出しそうな顔。ひしっ!と栗花落さんの手を両手で掴み取る。
「あれは性懲りも無く栗花落さんを一人留守番させて出て行こうとした先生が悪いんです――って、私がこんな態度だから余計辛くしてしまったんですよね。でも私、間違った事を言ったつもりはありません」
「分かっています。那美さんは私の寂しさを代弁してくれたのですよね?内心とても嬉しかったです。ですがそのせいで旦那様と感情の行き違いが生まれてしまって、道中言葉はおろか目も合わさない険悪振り。あの、那美さん」空いた手を重ね、「今回は私に免じて旦那様と仲直りして頂けませんか?旦那様はああ言った性格なので、自分からは中々謝りづらい方なのです。先に頭を下げてさえもらえれば自分の非を認める、はず。お願いします」
こう深々と頭を垂れられては堪らない。
「わ、分かりました!先生が戻って来たら絶対真っ先に謝ります!」
「ありがとうございます。そう言って頂けると、私も大変嬉しいです」
さて、こちらは叶ってしまったぞ。どうする、もう一人の祈願者さん?
水鏡はまず暗闇を映し出した。意識を向けて視点を横へ移動させると、壁に火の入ったランタンが掛かっているのが見える。
『場所を特定する物が上手く映り込むといいわね』
「これはどこを映しているのですか?」覗き込みながらラントが尋ねる。
「レイの視覚を借り、現在彼が見ている情景を送っています」
僅かな光に照らされて前方に鉄格子が見える。景色が一瞬ぶれ、下を向いたと分かった。視線の先にはクロワッサンと、色ははっきりしないがスープの乗ったトレイ。クロワッサンが手前から伸びてきた指に掴まれて移動し、無くなった。
『ああ、こんなんじゃ全然足りねえよ』
「わ!声も届くんですね」鏡に額を擦り付けんばかりに近付き、「こちらから交信はできないのですか?」
「水鏡はあくまでも映す聖具、残念ながら無理です」
もぐもぐ、ずずずっ……。咀嚼音が響く中、私達は手掛かりを得ようと目を凝らす。
『いつまで落ち込んでんだよおっさん?飯まだなんだろ?食っといた方がいい』
黒い格子の向こうの闇を両眼が捕らえる。
『吾輩の事は放っておいてくれ』
『あいつ等の言う事なんて真に受けんなよ。嘘八百に決まってる』
『お前のような若造に何が分かる。大事にしてきた娘に拒絶されて……餓死を待つのもまどろっこしい。おい、ロープが何か持っていないのか?』
『持ってねえよ!だからあいつ等に騙されんな。栗花落さんがおっさんにいなくなって欲しいなんて言うはずないだろ?常識的に考えて』
沈黙の後、男性の唸り声が響いた。
『そうか分かったぞ!あいつの仕業だ!!奴め、口先三図で栗花落を騙しおったな!赦せん、ここを出たら真っ先に八つ裂きにしてくれる!!』
『お、おっさん!?よく分からないが微妙に想定する相手が違うような』
『いいや奴だ!吾輩を亡き者にして一番利があるのは奴だからな!』
『そうか……?方々で恨み買ってそうだがなぁおっさん。と、俺が告げ口してどうする』
彼の興奮は留まる所を知らない。
『若しくは奴?いや或いは奴か?吾輩のコレクションを妬んでこんな真似を……。いや、それを言うなら大家も充分怪しい。この間何とか申込書を持って来たと栗花落が言っていたな。まさか吾輩を抹殺して栗花落を施設にでも入れようと言うのか、馬鹿馬鹿しい。生活費を誰が出してやってると思っているのだ。大体、あのオンボロアパートであんな高額家賃を提示して入居者が来ると思っているのか耄碌婆ァ。実際住んでいるのは吾輩達だけではないか』
「ホントに今ここで抹殺しといた方が世の中のためかも」
「!!?」
クランベリーは平然と部屋に入り込み、私とラントの間に座った。珍しくボビーを連れていない。
「イスラ、集中」
「分かってます」
束の間乱れかけた映像が元に戻る。
「お一人ですか?宝君の容態は」
「さっき起きたよ。もう全然平気っぽい」
「それは良かった」
視点がガクン、と下がって縦だった格子が横になる。食事が終わって寝転んだらしい。
『いや待て、動機なら環紗の役人共にもあるぞ。吾輩の留守に何度もアパートを訪問し、近所に聞き込みもしたとか。しかしあれの話では、ここしばらく訪ねて来ていないそうだったが、まさか吾輩達を油断させるためだったとは!』
「うわー、凄い疑心暗鬼に陥ってる。よくそこまで容疑者を広げるね」
眠そうな目が微かに笑っている。明らかに状況を楽しんでいる証拠だ。
「面白がっていないできちんと聞きなさいクランベリー。彼の証言の中に犯人がいるかもしれません」
「いる訳ないじゃんそんなの。ちょっと考えれば分かるよ」
「ですが大家や役人達の行動は若干怪しいです」
「どこが?大家さんの申込書って、多分役所に申請する障害者手当のでしょ?おじさんそういうのやってなさそうだし。で、役人はタレコミでもあったんじゃない?あそこのアパートの主人はしょっちゅう近所の人とつまらない諍いを起こすんです、しかも全盲の奥さんをこき使ってます、とかね」
ラントは頷き「成程、流石クランベリーさんです」
「まるで聞いてきたかのように言いますね」
「ちょっと頭を働かせれば簡単に想像できるよ」少女は肩を竦める。
『そうか、分かったぞ!那美君の仕業だな、くそ!あのあばずれめ!』
『何でそうなるんだよ!?大体おっさんはともかく、俺達は彼女に監禁される程の恨みなんて買ってない!万一そうだったとして、食事を持って来た男は何者なんだよ?フリーターの彼女に人を雇う金の余裕なんてないはずだ』
『那美君はああ見えて女だ、誘惑したに決まっているだろう?』
プッ!私以外の二人が同時に噴き出した。
『ま、まあなぁ……引き締まった上腕二頭筋マニア、とかコアな奴なら釣れるか?』小声で『ツルペタのクランとどっちが色気あるかってトコだよな……』
「つるぺた?」聞いた事の無い単語だ。「クランベリー、つるぺたとは何です?」
「イスラフィール様!それは女性に訊かない方が」
「バストが無い事だよ」
「ああ」彼女の上半身を確認し「成程、確かにつるぺたです」
クランベリーは意味ありげに唇を上げ、「じゃあラントはどう?」と尋ねてきた。
「つるぺたです」
「お兄ちゃんは」
「つるぺたですよ勿論」
クスクスクス。
「クランベリーさん、あんまり変な事吹き込まないで下さい!」
「だって面白いんだもん」
真面目な信仰者を私は手で制す。
「ラント、布教のためにまた一つ知識を得られたのです。感謝していますよ。ありがとうクランベリー」
少女のどんな言動も、全ては私が信仰活動に専念できるように気遣う結果。精一杯応え、早く一人前にならねば。
「ほら、私悪い事してないでしょ?」
「そんな単語何時布教活動に必要なんですか!?」
二人が話す間も、鏡の中の会話は更に進む。
『そうだ何故今まで気が付かなかったのだ!?黒幕はあいつだ、お前等の女王だ!!』
『はぁっ!?ちょ、ちょっと待てよおっさん!それこそ有り得んだろうが』
『いいや、奴の目的は吾輩のコレクションだ。吾輩を始末した後根こそぎ奪う算段に違いない』
『じゃあ俺達を何で牢屋に閉じ込めたんだよ?俺達がスキー場に来たのは本当に偶然だ。イスラの事が無かったら今頃は当然クオルにいる』
『そんな物、鬱陶しいからに決まっておろう。あの娘の本性は冷酷だ、邪魔者は速やかに消しにかかる』
『有り得ないな』
『フン、そう思うのはあの娘に気があるからだ。恋は盲目とはよく言ったもの』
『ぐっ……!』
自らの事を言われているのに、クランベリーは寝惚け眼のまま動かない。目を開けたまま眠っている、のか?
『やっぱり有り得ないな!クランが俺達を裏切るなんて』
『向こうはそう思っていないかもしれんぞ。吾輩には分かる。あの娘、味方など必要としない心性の持ち主だ』
『勝手な答え出すなよ!あいつは見た目通りの女の子だ。寂しかったり辛かったりして当然だろ!口に出さなくたって俺達が必要なんだよ』
『それこそお前の妄想だ』
「そうね」ポツリ。「その点だけはおじさんに賛成」
彼女が幾ら強情を張ろうと私はレイに同意する。宇宙創成以来、彼女はボビーを除いてずっと一人だ。なのに弱音を一度として言わないのは、ただでさえ重責の大父神様を気遣っての事。
クランベリーには長い孤独を癒す仲間が必要なのだ。そして、それは決して私であってはならない。
「彼等に甘えていいのですよ、クランベリー」
「うわ、イスラあっさり感化されてる。止めてよそういうの」
「?何故です?彼等もあなたに好意があってこう言っているのです。自分の感情を正直に出して良いのですよ?」
「私不感症だもん。嘘泣きでもしろって言うの?」
「そこまでは言っていません。ただ苦しい時や辛い時、誰かに縋ってみてはと」
唇を少しだけ尖らせ「何でそんな事しなきゃならないの?意味無いよそんなの」
「あなたが気付いていないだけです。正直になればきっと心の悲鳴が聞こえて」
「嫌ー嫌ー!イスラがお説教するー!」耳を塞いでオーバーに叫ぶ。「って私の心が言ってるー、やー!!」
どっと疲れを感じる。何なのだこの少女、一片の素直さも無い。本当にあの大父神様の妹なのか。
「イスラフィール様」ラントが頭を横に振る。「何を言っても無駄です多分。これが素みたいですから」
思わず歯噛みしてしまう。こちらは誠心誠意尽くして……いや、そんな考えを見透かしてわざと不真面目な態度を取っているのか?私が関心を無くし、布教活動に専念するように。
「クランベリー……」また涙が零れそうになる。「大丈夫ですよ。私の心は何時でもあなたと共にあります」
「う……」彼女は何故か頭を押さえた。
「どうしました?具合が悪いのなら横になりなさい。診ましょう」
「ううん、平気……どうしよラント」
「自業自得です」
水鏡の中では相変わらず言い争いが続いている。変化しない映像の端から、彼女が微笑を湛えて顔を覗かせた。
『あなたは本当に愚直だわ。対してあの子の聡明な事』
広げた翼の先が照明を僅かに隠す。
『あの子には総てが視えているのかもね。過去も、未来も、あなたも』
艶やかな髪に指を絡ませる。
『それでなお飄々としているなら大した物だわ。そう思わない?』
「……ええ」
クランベリーの瞳が常に曇っているのは、小さな頭蓋に内包された余りに多くの真実を隠蔽するため。言動が少女らしからず、ある種変人じみているのもその影響なのか。
ではもし銀の瞳が澄み切った時、私はどうなるのだろう。あらゆる真実が語られる瞬間、私は。
『二律背反ね。恐れている、だけど待ち望んでもいる。終わりの時を』
私も、大父神様も超えて――彼女は戦うのだろうか、悪魔と。
『あなたは彼女に裁きを願っている。量刑をあの娘に託したい、そうでしょう?』
「イスラ」
硝子玉のような目が私を見る。――初めて恐ろしいと感じた。
「どうしたの?」
「い、いいえ。手掛かりを探すのに夢中で」
『見透かしていてもおかしくないわね彼女なら』
了解済みだ。私はもう、後戻りできない所に立っている。彼女と対極の位置で、一人。
「無理しなくていいですよイスラフィール様。水鏡を見るのは本官達に任せて下さい、ね?………クランベリーさん?」
くー……すぅー……。
「………待って下さい。さっきまで起きてましたよね?」
「ええ、目が開いていました」
だが、まさか。
「全部目を開けたままの寝言、だった?」
その亀裂は最初に牢へ入れられた時見つけた。
自分の手首程の太さの管から漏れ出た冷水がちょろちょろと流れ、真下の穴に吸い込まれていく。亀裂は十五センチ程度。療法士のアドバイス通り気を落ち着け、何度も呼吸を整えながら観察した。ここでパニックを起こす訳にはいかない。
水は常には流れていなかった。長くても三十秒程度。排水管と蛇口との距離を考慮すれば、実際使われているのはもっと短時間?水に触れてみると指先には何も付かなかった。
綺麗な水が流れていると言う事は、この管と繋がった蛇口はキッチンやバストイレの物ではない。使用時間から推測するにトイレ横の洗面台だろうか。
使用時間自体は短いが、幸運にも部屋の主は平均して一時間に一回は必ず蛇口を捻ってくれている。恐らく複数人が共同で使用しているのだろう。
身体を凭れさせて壁の排水管を隠し、後ろ手に渡されたばかりの懐中電灯を持つ。
『これを使って』
誘拐犯が自分に課せた仕事は、まだ足腰のしっかりした老婦人のダンスの相手だった。その行き道で一度女王の妹がいる部屋を通過。中年の男女達がカーペットの上で子供のように座る中、彼女は優しい声で絵本を読み聞かせていた。質問すると案内役の男性は、彼等の童心に帰りたいと言う願いを叶えているのさ、そう返した。
広いとは言えない薄暗がりの部屋。ワルツの音楽に紛れ、婦人に自分の病気の事を多少誇張して話した。とりわけ暗闇が怖いと。
三度目の呼び出しの際、彼女はどこかの備品らしき懐中電灯をそっと僕の懐に入れた。
『ありがとうございます』
『昨日の夜は怖かったでしょう?もっと早く持って来れなくてごめんなさいね』
人の良い婦人は騙された事に気付いていた。目の前の男がもういない夫の代わりでないのも。
『済みません』
『いいのよ。――最後に恩返しできて嬉しかったわ』
ステップを刻みながら彼女は啜り泣いた。僕は無意識の内にクオルの話をしていた。自然豊かで活気があり、何より素敵な女王陛下の治める国だと。
『今度是非いらして下さい。その時は僕が御案内致しますから』
スイッチを入れると人肌のように温くなった。しかし老婦人の手よりはずっと冷たい。
(女王様、気付いて下さい……!!)