三章 休息の夜
日暮れ寸前までスキーを楽しんだ後。靴に履き替えても滑る感覚が抜けない脚を、温かい湯船に浸ける。冷えた身体がじわじわ解れていく。
「はぁ……」水晶宮は常に清浄に保たれるため、私自身に入浴の習慣は無い。疲れているからとラントが用意してくれた物だ。今彼と両親は、顔馴染みであるロッジの主人の部屋で歓談している。
『そうやっているとまるで人間みたいね』
バスタブの縁に置いた水鏡の中からジプリールが囁く。部屋に置いておくのが心配でつい持って来てしまった。
「あなたもよく水晶宮で沐浴していました」
『淀みの無い水に身を浸すのは気持ちが良いわ。雑念が洗い流されて主の御言葉が直に響き渡るもの』
何度か見た彼女の裸体は新雪のように穢れ一つ無く、正に主の光の体現だった。そう言うとクスリと笑い『ありがとう。でも人間相手には言わない方がいいわ』そう忠告した。
『あなたに異教徒を罰する力があるのかしら?』鏡の彼女はうっすらと目を細めた。
「困難な事は承知しています。ですが神と欺き人を惑わす者、放置しておくには余りに害悪です」
『協力者もいるし、ね?』クスクス。『頑張ればいいわあなたなりに。試練を受け入れなさい。どうやった所でもう結末は決まっているけれども』
意味深な発言に、胸の空洞から暗い風が鳴る。私は不安に襲われて彼女を呼んだ。「ジプリール……?」
バタン!部屋のドアが開く音。
「イスラフィール様!湯加減はどうですか?」脱衣所からラントが声を掛けてくる。
「ええ、丁度いいです」
「それは良かった。後一時間したら夕食の準備ができるそうなので、湯上がりに本官がロッジの中を案内します」
「はい、是非お願いします」
水鏡の彼女は口元に手を当て笑った。『妬けてしまうわ』
脚が程良く温まった所で湯から出、全身をシャワーで沐浴して脱衣所へ。全身をタオルで拭いてから用意されたガウンを羽織り、右側のポケットに水鏡を仕舞うと、ラントが首に掛けるミニタオルを渡してくれた。まだ乾いていない髪で、ガウンがびしょ濡れになってしまうからだと説明され感心する。
廊下に出ると、彼は持っていたルームキーでドアを施錠した。私達の部屋は二〇五号、彼の両親は隣の二〇六号室に宿泊している。
「今日は御主人が活きのいいターキーを絞めてくれたそうです。ここのターキー料理は美味しいんですよ」
「それは楽しみです」
「はい。折角です。お互い帰るまで夜来教の事は忘れて、思い切り旅行を満喫しましょう」
ロッジ、スノー・プリズンは木造二階建ての宿泊施設だ。客室は全部で十五、一階に五部屋二階に十部屋。フロントやレストラン、バーは全て一階にある。
「ここがバー、向こうがレストランです」
バーはカウンター席が五つの小さな作り。棚に様々な種類の酒瓶が並んでいる。壁にカンテラが数個埋め込まれている。恐らく営業時間に灯すのだろう。
「ここは手狭ですから、飲む時はいつもルームサービスを利用しています。両親が今夜、是非イスラフィール様と飲みたいと言っているのですが、お酒は嗜まれますか?」
「いいえ。ですが」ミーカールの酒豪っぷりを脳裏に描き「問題無い、と思います」
「そうですか、良かった。イスラフィール様下戸っぽいから、無理に付き合わせても御迷惑かと」
レストランの方も二人で覗く。制服を着た中年のボーイが、流暢な手付きでテーブルセッティングを行っていた。肉の脂が焼ける香りが入口まで漂っている。
「きっと今晩はローストターキーですね、良い匂いです」
外の樹氷の精緻さに驚きつつ、彼の後に付いてフロントへ。部屋備え付けの冷蔵庫に入れるソフトドリンク類を頼みに行くらしい。
「いつもはミネラルウォーター程度入っているんですが、忙しい時期ですからうっかり忘れたんでしょう。イスラフィール様は何を飲まれますか?」
「何がありますか?」
「ええとですね……さっき言ったミネラルウォーターの他、ティーバックで淹れる紅茶、緑茶、ジャスミンティー。ジュースはオレンジとアップル、牛乳にコーラ。あとドリップコーヒーがありますね」
??水と紅茶はともかく、他は全く味を知らない。
「なら私は水を」
「了解です。じゃあ本官は……コーヒーとオレンジジュースを頼みましょうか。朝一番に飲むコーヒーは格別ですよ。イスラフィール様にも明日淹れて差し上げますね」
「ええ」
「ん、あれ?何でしょう?」
入館時はボーイ以外いなかったフロントがやけに混み合っている。
「警察と……イスラフィール様!あれ、クランベリーさんですよ!」
ロビーの真ん中の席、眠そうな目で座っているのは確かに神の実妹だ。傍らにラフ・コリー。そして、
「……そうか」
「朝一番に山の捜索を再開します。何かあったらこちらの番号に」
「ああ、分かった」
ミーカールの人形は制服の男性からメモを受け取り、「よろしく頼む」と頭を下げた。
それを合図にガヤガヤと玄関を出て行く男達。残ったのは二人と一匹、あと気難しげな中年男性。
「やれやれ、あの小娘にも困った物だ。うちのに余計な心配掛けおって」
「貴殿達はどうするつもりだ?」
「留まって捜索結果を待つしかないだろう。仕事を片付けながらな」
フン、と鼻を鳴らし、「もしかしてお前達、宿を取っていないのか?」
「ああ。急な命令で予約を入れる暇が無かった」
「……仕方ないな」
男性はフロントのボーイと何事か話し、出てきたキーを人形に渡した。
「元はうちの阿呆娘の不始末だからな。あいつの部屋だ、好きに使うといい」
「感謝する」
フン。「そちらの娘もお前ぐらい礼儀正しければ可愛げがあるものを」
クランベリーは答えない。疲労で眠いのか。若しくは、
「吾輩は部屋に戻る。あれを待たせておくのも不憫だしな」
「……おじさんの仕事って何?」まるで寝言のような声。
「職業倫理上の秘密だ。部外者には教えられないな」
「あ、そ」今度は瞼を閉じた。完全に眠る態勢だ。「引き留めて悪かったね」
歩き去る男性を目で追いながら人形は「眠いのか?」ソファのクランベリーを背中に負う。
「ん……ありがと」
「あれだけ走り回ったのだ、無理もない」そのままフロントカウンターまで歩き、チェックインの手続きに入る。「宿泊料はこれで」紙幣ではなく金色のカードを出した。主から支給された物だろうか。どうやら貨幣の代用品のようだ。
「夕食は七時からですが如何なさいます?」
「部屋まで持って来てくれ。朝食はレストランで」
「畏まりました。何かございましたら部屋の内線電話で御連絡下さい」
「ああ」
石膏のように固い表情筋が、長毛の従者を見下ろして一瞬和らぐ。「待たせたな、行こう」「クゥン」
「待ちなさい!」私の声に人形が振り返る。
「何故ここにあなたとクランベリーが?何かあったのですか?」
人形は一瞬逡巡した後、「今日付けであなたの代わりに彼女の見守りを。遊びに行きたいと言うので」
「何か隠していますね、報告を」
その時、背上のクランベリーが目を閉じたまま「イスラ、布教は終わったの?」尋ねた。
「いいえ」
「そう、ならいいよ。仕事の邪魔しちゃ悪いし、こっちはこっちで何とかする。頑張ってね」ぐー。眠り込んだのを確認し、人形はさっさと行こうとする。
「報告しなさいと言っているでしょう!?」
「彼女が黙秘するなら私も従うしかない」無表情で捨て台詞を遺し、廊下の奥へ行ってしまった。
ドサッ。フカフカのベッドに思わず手足を伸ばす。
「ん……」
うとうとしたまま十数分が経っただろうか、彼女がバスルームから出てきた気配。シャンプーの良い匂いが部屋を舞う。
「大丈夫か?」
「うん」目を開けて上半身を伸ばし、足元のボビーの頭を撫でる。「クゥン」
部屋は入口正面に四人掛けの応接セット、中央に全室を暖められる大きなストーブ、奥にシングルベッドが二つ。左手に冷蔵庫と二口コンロ付きの小キッチンとバス・トイレ。何れも数年物だが新品同様に磨かれている。ベッドの右奥に設えられたクローゼットの取っ手には、行方不明になった那美の旅行鞄が掛かっていた。
冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、コップに注いで一杯。ぷはっ、生き返る。
「結局見つからなかったな……しかし子供ならまだしも、大人四人が一度にいなくなるとは摩訶不思議な現象だ。貴殿はどう思う?」
「さぁ?事件とも事故とも、はたまたドッキリとも判断できないよ」
「少なくともドッキリではないだろう」
「どうかな。真夜中にお化けの格好で脅かしに来る算段なのかも」
ツボに入ったらしく、彼女はクククッと忍び笑う。
「女王陛下のテンションの余りの低さに危惧してか?」
「残念、私そういうの全然驚かない性質なの。あなたが二人分叫んでくれると助かる」
「任せろ、肺活量には多少自信がある」
お互いしばらくニヤニヤ。
「まぁそんな可能性はゼロだね。那美が栗花落さんに一言の断りも無く参加する訳無いし」アスもそんな阿呆な遊びには付き合わないだろう。
「と言う事は事件か事故……この近辺で最近雪崩等は起こっていないと言う話だ。なら残るは」顎に手を当て「事件か」
彼女が冷蔵庫を開け、コップでミネラルウォーターを注いで一気にゴクゴク、二杯飲み干す。
「本当に彼の協力を仰がなくていいのか?水鏡を使えば居場所の手掛かりぐらいは掴めるかもしれんぞ」
「いーよ、向こうは向こうで手一杯みたいだし。イスラ不器用だから下手に他の問題持ち込むと布教が失敗するかもしれないでしょ。それにそんな遠くには行ってない」
「何故分かる?」
「いなくなったのが男女だから。女ばっかりだったら早く売ってどこかでお金に換えようとするだろうけど、それが目的なら男は必要無い。かと言って誘拐なら一人で充分なはず」
「身代金目的なら貴殿を誘拐するのが一番金が取れるだろう。番犬がいるとは言え大人四人よりは遥かに御しやすい、ふむ」
水を含んだ髪をタオルで拭きながら窓の外を眺める。「玄関の灯しか見えんな」
部屋の電話でリリアに今夜泊まる事だけ告げて切る。ボビーを連れてシャワーで身体を洗い、脱衣所の二サイズは大きいガウンに着替える。ストーブの暖気の中、ドライヤーを茶色の長い毛にぶんぶん掛ける。
「何か良い物あった?」那美の鞄を調べていた彼女に声を掛ける。
「いや、中身は着替えとスキンケア用品だけだ。貴重品は身に着けて出掛けたらしい」
調べ方がドラッグを探す警察のようでちょっと面白い。
「底に緊急用のお金でも隠してたりして」
「ああ、あったぞ。自宅の住所と電話番号のメモと一緒に入れてある。――事件と関係ありそうな物は無いな。極普通だ。貴殿も調べるか?」
「いい。それ、いなくなる前の荷物だもん。手掛かりがあったら却って変だよ」
事件の調査資料は矢張りおじさんが持っているようだ。那美はあくまでバイトの補佐だし無理もない。
彼女は鞄から手を離し、まだ半乾きのボビーの頭を撫でた。「クゥン」
「大父神へ定期報告をしてくる。助力は必要か?」
「冗談。幾ら兄不孝の妹でも、更に熱を上げさせる気は無いよ」
「そうか」
五分程度で彼女は部屋に戻ってきた。今日はそれ程報告する事項が無かったからな、訊いていないのにそう説明する。
ノックの後、ボーイが夕食をワゴンに乗せて入って来た。ワゴン下の酒瓶から彼女は赤ワインを一本所望。
「他に必要な物は御座いますか?」
「いや。食器を下げてもらう時は電話で呼べばいいのか?」
「廊下にワゴンごと出しておいてもらえれば取りに伺います。明日の朝は」
「ああ、ちゃんと食べに行く。レストランは六時半からだったな、では七時に用意を」
「畏まりました。ではごゆっくりお寛ぎ下さい」
バタン。彼女は料理を手早くテーブルに並べていく。本日のディナーはアベリティフ(食前酒)のシャンパン、前菜は野菜を綺麗に重ねたテリーヌ、南瓜スープ、数種の薄いチーズ。メインはローストターキーが一人半羽と豪勢だ。濃いオレンジソースの酸味ある香りが食欲をそそる。デザートはアーモンドのたっぷり乗ったチョコレートタルトが四分の一ホール。
シャンパンを二つのグラスに注ぎ「美味そうだ、冷めない内に食べよう」と促した。私は乾杯の態勢を取る。
「お互いの今日一日を労って」「乾杯」チン。
炭酸のシュワシュワが口の中に広がる。グラス半分程を一度で飲み干した。
「いける口か?」
「まぁね」
トクトクトク……赤ワインがグラスを満たす。
料理はどれも文句無しに美味しかった。ボビーにターキーを二切れあげると、手まで食い千切らんばかりに喜ぶ。現金なコリーだ。
「ほら」彼女もプロセスチーズを口に放り込む。尻尾をブンブン振ってもっとと強請る。「クゥンクゥウン!」
「駄目。これ以上食べたらカロリーオーバー」
「クゥン!」
「まだ体重戻り切ってないじゃない」ベシッ、と軽く頭を叩いた。「キュウン……」しょんぼりコリーは、お尻をこっちに突き出したまま布団に潜り込みフテ寝を始めた。ふさふさ尻尾がゆらゆら揺れる。
「強いな、全然顔色が変わっていない」僅かに上気した頬の彼女は、最後の一杯を自分のグラスに注ぎ「私はまだ飲むがどうする?今度は白にしようか?」
「うん、お願い」
ターキーは美味しかったが、量が量だけに段々脂の味が舌に突いて食べるのが辛くなってきた。三分の一程残った所でナイフとフォークを置く。女の皿は既に最後の一口、ぱく。
「まだ入るならこれ食べてくれない?」
「いいぞ」女は受け取るや一皿目と同じペースで食べ始める。新たに運ばれてきた白ワインを二つのグラスに注ぎ、タルトに二回スプーンを入れた所で皿は空になった。
「よく食べられるね」
「任務では丸三日絶食もざらにある。入れられる内に入れておかんと。にしても旨かった」ワイングラスを傾けた。「うむ、さっぱりして丁度良い口直しだ」
「大丈夫ですかイスラフィール様?」
「ええ……」顔を真っ赤にした四天使様は、ベッドに仰向けのまま答えた。
レストランでの食事は最高に和やかに終わった。ところがその後父母の部屋で晩酌を始め、乾杯の赤ワインを一口飲んだ所この有様。目が回ってとても立ち上がれないこの方に、本官の肩を貸して隣室まで連れ帰って横にさせた。
「スキー疲れでアルコールが余計に早く回ったのかもしれません。今日はもうお休みになられた方がいいです」
「済みません、迷惑を掛けて……」謝罪しながら羽毛布団を引き上げ、瞼を閉じる。父母が誤解するのも無理はない。昼間の従兄弟、恐らくは同じ四天使様の御二人と違い、イスラフィール様は体格も顔立ちも非常に中性的だ。
「ラント」
美声で呼び掛けられ、慌てて傍に寄る。「はい、何ですか?」
天使様は懐の水鏡を大事そうに枕元に置き、「このような事をあなたに頼んで良いのか分かりませんが……クランベリーの抱える問題を、それとなく訊いてきて頂けませんか?私では幾ら質問しても、先程のようにはぐらかされてしまうだけでしょう。彼女は余り私を好きではないので……」言葉を切り、「人のあなたになら、少なくとも私よりは事情を話す気になるかもしれません」
アルコールに浮かされた酷く弱気な表情。
「現在の任務でないとは言え、彼女の庇護は宇宙創成以来の私の役目。困難あらば力を貸し与えたいのです」
天使様の思いやりに思わず感動で涙が出そうになった。こんな優しい方を何故、あの女王は毎回困らせているのだろう。
「本官に任せて下さい。必ず訊き出してきます」ドアノブをガチャリ。「では行ってきます」
廊下に出た所で、物音を聞きつけた母が隣から顔を出した。
「イスラさん大丈夫?」
「吐き気は無いみたいです。大事を取って早目に床に就いたので静かに」
「分かってるわ。でも驚いた、一口で林檎みたいに真っ赤になるんだもの。あんなに弱い人本当にいるのね」
開けたドアの向こうでは、父がディナーで残ったチーズと持参の柿ピーで晩酌の真っ最中。すっかり酩酊状態のようだ、目がトロンとしている。
「で、あなたイスラさんを放ってどこへ行く気?“彼氏なんだから”ちゃんと看病してあげなさい」
出た、両親最大の錯覚。よりにもよってイスラフィール様を女性だと思い込んでいるのだ、初めて家を訪れた時から。更にどこでどう曲解したのか、本官の人生初の恋人だとも。何度も訂正しようとしたが全く聞く耳を持たない。恥ずかしがる年でもないだろう、の一点張りだ。
「もう眠ったと言いましたよね母さん?一応フロントで二日酔いの薬を貰ってきます。明日も滑るのを楽しみにしているんですから」
「あら、気が利くじゃない。やっぱり彼女ができると人間成長するものね」
「母さん!」
と、部屋の父が口からグラスを離し、「それぐらいにしときなさい母さん。ラントが何時まで経っても帰れないだろう?」
「……そうね。ほらラント、早く行ってきなさい!」
追い出すようにドアがバタンッ、と閉まる。
「やれやれ……」
気を取り直してフロントへ。薬も必要だが、まずはクランベリー女王の部屋に行かないと。にしても、どうしてベルイグさんまでここに?あの大柄な女性は何者だ?何故ルームキーを?
ナイトタイムを楽しんだ客を迎えるため、フロントは深夜まで開いている。まだ九時半だ、多分女王も起きているだろう。
「済みません、連れがワインで倒れてしまって。二日酔いの薬ありませんか?」
「はい、御座います。お連れ様大丈夫ですか?具合が悪いようなら病院まで車を出しますが」
「いえ、もう寝ているので薬だけで結構です」
「少々お待ち下さい」
ボーイはカウンター下の棚を開け、白いパラフィン紙の粉薬を三包差し出した。
「ありがとうございます」ガウンのポケットに仕舞い「あと、知り合いの部屋を教えて頂きたいのですが」
「お名前は?」
「クランベリー・マクウェルです」
「ああ、コリーを連れたお客様ですね」宿泊台帳を開き「――百四号室に御宿泊です」
「重ね重ねありがとうございます」
「いえ。こちらこそ毎年本ロッジを御利用頂き感謝の言葉も御座いません」
ふと、今朝ロッジを訪れた時から気になってきた事を尋ねる。
「済みません。この箱は?」
カウンター端に置かれた、縦横奥行き三十センチ程度の白い箱。上部に切れ込みがあり、紙が差し込めるようになっている。「去年は確か置いていませんでしたよね?」
「はい。お客様へのサービス向上のため、二週間前から設置しています」箱の横には卓上メモ用紙と万年筆が置かれている。成程、意見箱だったのか。
「ここのスタッフは親切だし、素晴らしく気を利かせてくれますよ。なのに更に上を?」
「常に向上を目指す事が自分達の、延いてはお客様方のためになります」
正にサービス業の鏡。
ボーイは箱を手で示し、「アメリア様も是非御投書下さい。――別に本ロッジと関係の無い事でも構いませんよ」
「え?」
「私達はサービスの一環として、お客様のストレスを軽減するお手伝いをしたいと考えています。この投書箱を使い、御宿泊の間に少しでもお悩みを解消できればと」
「はぁ……つまりその、日常の愚痴を書けば追加サービスでもある訳ですか?」
「はい。御利用されますか?」
コンセプトは理解できるが、具体的に何をしてくれるのだろう?ロープウェイの回数券でも貰えるなら有り難いが、大抵の利用者は最初にフリーパスを購入してしまう。憂さ晴らしの酒でも出てくるのだろうか?
「――お連れ様、綺麗な方ですね。御関係は?」
本当の事を言う訳にもいかない。聖書研究の関係で知り合った方です、と曖昧な返答をする。
「確かに信心深そうな女性です。彼の神に仕える四天使と同じ名前ですし、御両親もさぞや敬虔な信仰者なのでしょうね」
「え、ええ」適当に頷く。
「どこまで行っていますか?」
「は?」
「指輪を嵌めていらっしゃらないので婚約はまだだと分かりますが、ベッドは」
バンッ!「巫山戯ないで下さい!!」全力でカウンターを叩いた。
「失礼しました。――私共でお二人が上手く行くお手伝いが出来ればと思ったのですが、必要ありませんでしたか?」
何なんだこのお節介なサービスは!まるで夜来教だ!
「結構です!!」
「承知しました」
頭を下げたままのボーイを腹立たしく思いながら、本官はフロントを後に廊下を進んだ。
(今度オーナーに会ったら進言しよう)あの投書箱、他の客は使っているのだろうか?メモ用紙は既に半分程度になっていたが。
にしてもあのボーイ、天使様を性愛の対象だと!何と罰当たりで汚らわしい思想だ!雪崩に巻き込まれて死ねば……ああ、いけないいけない。宇宙の生きとし生ける者全てに慈悲の心を持つ。聖書の理念を思い出して頭を冷やす。彼はあくまで親切心で提案したのだ、そうだ、そうに違いない。
(百二……百三……百四、ここか)
「旦那様」少し離れた扉、百五号室に妙齢の女性が入って行くのが見えた。「ぐっすり眠っていらっしゃいますね……よいしょ。これで風邪を引かずに済むでしょうか?」優しい奥さんだな。おっと、聞き耳を立てている場合ではなかった。
コンコン。
「誰?」
「ラント・アメリアです。クランベリーさんに用があって来ました」
「勝手に入って」
「失礼します」ガチャッ。「わ!何ですかこれは!?」
テーブルには一、二……合計七本のワインボトルが並んでいた。しかも六本は既に空だ。
奥のベッドに目を向けると、左側には一緒にいた大柄な女性が布団に突っ伏して寝ている。対して右側は何故か頭隠して尻隠さず状態のコリー。
「座って。一杯飲んでく?」ソファに体育座り、白ワインをまるで水のように飲む女王陛下。恐ろしい事に全く顔色が変わっていない。
「一人で飲んでいるんですか?」
「五本目までは彼女と飲んでいたんだけど、酔い潰れたみたい」
んー、と唸る。
「さっきフロントで騒いでいたのはあなた?」
「ここまで聞こえていたのですか?」
「あ、ううん。何とか酔いが回らないかと思ってロッジの散歩してたの。今帰って来た所。ドアを開ける寸前に怒鳴り声が聞こえて」
どんな思考回路だ。残念ながら運動の甲斐無くアルコールは効力を発揮していないよう。女王陛下は未だ素面だ。
「カウンターから大人の玩具でも出されたの?」
「!!!?」
ケラケラケラ。
「ここのボーイさん、凄く教育が行き届いてるね。何日でも泊まりたくなっちゃう」
「どこがですか!?本官はともかく四天使様へあの侮辱、絶対赦せません!」
ギシッ……ベッドから女性が額を押さえ、頭だけこちらに向けた。
「貴殿は先程彼とフロントにいた……どうした?」
「私に用事なんだって。悪酔いしてない?」
「加減はした、問題無い。それより、警護の者に一言も無く出歩くのは感心しないな」
「寝てなかったの?」
「流石に入口のドアが開けば気付く。どこへ行っていた?」
「探検ごっこよ、ロッジの中で。――ねえラント、この近くってスキーの他に遊ぶ所ある?」
何を唐突に。「……特に無かったはずですよ。街へも車で三十分近くかかります」
「ふぅん。ねえ、ルームサービスのメニュー表ってどこにあるの?」
いきなり話題を変えられた。ついていけない。
「確かベッドヘッドに置いてあるはずですよ」
「ふーん……あ、あった。ありがと」
クランベリーさんはパラリと捲る。
「アルコールばっかりで小腹が空いてきたの。ラントも来たついでに何か注文しない?」
「こんなに飲んでまだ注文するつもりですか!?宿泊料きちんと払えます?」
「ああ、それなら平気」再び目を瞑った女性に視線をやり「彼女がお兄ちゃんからゴールドカード預かってるの」
「お兄さんと言うと……大父神様ですか?」
「そう。私の面倒代に持たされてるみたい」ニッコリ笑って「使える内に使っとかないと申し訳無いでしょ?」
何と言う悪知恵、イスラフィール様が聞いたら卒倒しそうだ。この事は本官の心の中だけに留めておこう。
「晩御飯美味しかったから味は期待していいよね。どうしよっかな」本官にも見えるよう、テーブルのボトルをどけて広げた。ルームサービスとは言え、このロッジのメニューは中々充実している。
「本官も頼むんですか?」
「どうせ寝るまで暇でしょ?イスラは酔い潰れて話し相手にならないし、両親と和気藹々酒盛りする性分でもない」
「な!?何で分かるんです?」
トクトク。ボトルを振って空になったのを確認。
「スキーは親の趣味なんでしょ?アウトドア派は社交的でしかも酒飲みが多い。一方ラントの趣味は四天使研究、もろインドア派。表面上は上手くいってても感情のすれ違いが多い。酒の場なんて話せば話す分噛み合わなくて白けるだけ。ついでにラントは飲める口だけど好きではない。何故なら聖書で酒類は堕落の飲物と書かれているから」
探偵に調べさせたのかと思う程、全てが見事に当たっている。「でもどうしてイスラフィール様の事まで?」
「だって健在ならイスラ一人で来てるでしょ?ラントだけ来たって事と御両親の性格を考えれば潰されたって結論を出すのは簡単」口元を隠しつつ大笑いする。よし、この頭の切れる少女を少し試してやろう。
「では本官がこの部屋を訪問した理由も御存じで?」
「友好を温めるためなら居留守して入れなかったよ、面倒臭いし。――あーあ、折角布教の邪魔しちゃ駄目だって気を遣ってあげたのにお節介だなぁ。私オードブルセットと……ジントニック。ラントは何にする?」
メニューに視線を走らせる。少し食べられる程度の胃は空いている。
「ではオニオングラタンスープを。酒類は結構です」
「あなたは?」
「結構だ。明日に差し支える。女王陛下も暴飲暴食は程々にな」
そう忠告して本格的に睡眠の態勢に入る。
「はいはい、おやすみ」
ふらつき一つなく軽やかな足取りで壁掛け電話を取って注文。「十分ぐらいで来るって」大きなサイズのガウンの裾が歩く度ひらひらした。
彼女が座り直した所で「で、問題の答えは?」
「イスラもラントもすぐ正解を求め過ぎ。自分で少しは考えた方がいい、呆けるよ」自分はまだ二十代だ!
「クランベリーさん並の閃きがあったらいいのですが、本官は如何せん凡人なもので」
「下手に出ても無駄。法律の勉強よりよっぽど簡単だと思うけど?」
「はぁ……」
ロビーの警官、捜索隊、疲れたクランベリー女王、ベルイグ氏のルームキー……頭の中がモヤモヤして巧く事柄が繋がってこない。先程ロビーで会った時、何か奇妙な感じを受けたのだ。違和感と言うか何と言うか……言葉にすると何だろう、うー……。
(足りない。そうだ、何か不足している感じがして……でも何が?)
悩む本官を尻目に、クランベリーさんはソファの肘掛けに頭を傾けて目を閉じている。まさか、眠っている?
「起きてるよ」
吃驚した。読心術か?こんな人を毎日相手している――そうか!
「レイさん達はいないんですか?」
「遅い」
コンコン。「御注文の料理をお持ちしました」
「どうぞ」
ワゴンを押してボーイが入って来る。空のボトルをワゴンの下に入れ、注文の品をテーブルに並べる。
「以上でよろしかったでしょうか?」
「うん、ありがと」
「では失礼します」バタン。
「十三分。ま、及第点はあげる」フライドポテトを一口。「へぇ、ちゃんと揚げたてだ。あなたも食べていいよ、美味しい」
「あ、はい」焼き目の付いたチーズがたっぷり乗ったオニオングラタンスープ。スプーンでチーズと玉葱部分を一緒に食べた。クタクタの玉葱と濃厚チーズが絶品だ。「こんなに美味しいのは初めてです」たかがスキー場のロッジと少し侮っていた。関係無いが、天使様が明日気分が悪そうなら粥を用意してもらわないと。
「レイさん達に何かあったんですか?」
「スキー場で行方不明になったの。隣のおじさん達と来ていた那美と一緒に。宝 那美って知ってる?連合政府でアルバイトしている人なんだけど」
「宝君が!?彼女は大学の後輩です、この間も政府館の前で立ち話をしたばかりなのに……」ボクサーとしても優秀な彼女がそう簡単に誘拐されるとは……いや、つい一週間ぐらい前にされていたな。その時は複数の相手が拳銃を持っていて、かつ一般女性が同行していたと言う話だった。
「皆さんは純粋にスキーを?」
「そんな訳ないでしょ?まぁ二人は楽しみだったみたいだけど」ベッドを指差し、「彼女、お兄ちゃんからイスラを連れ戻すよう言われたんだって。私の面倒見のついでに。それで取り合えず今日様子を見て説得するか放っておくか判断しようって話に」
「連れ戻す?何でです?イスラフィール様はあんなに真剣に布教活動を」
「単に心配なんでしょ。イスラ喧嘩なんてできないし、襲われたら確実に為す術無く殺されるもの」
「布教されているのは本官の両親ですよ?そんな、殺そうだなんて……」
「そうよね」クランベリーさんはあっさり肯定する。「お兄ちゃんは妄想膨らませ過ぎだと思う。話し相手がいなくて退屈なんだよきっと」
グラスにジンを注ぎ、希釈無しにゴクリ。
「辛」
「アルコール度数高いですから。普通は氷や水で割る酒ですよ」
「へぇ、これなら酔えるかも」決してゴクゴク飲む物ではない。咽喉が焼けないのだろうか?
スープを飲みながら壁の時計を確認する。十時十五分、まだ両親は起きているはずだ。
「誘拐なんですか、四人は?」
「多分。でもそれなら、そろそろ身代金の要求がありそうなものだけど」グラスの縁を舐めてテーブルに置く。「成人を四人も連れて行くのって凄い労力だよね?」
「ええ。間違い無く複数犯です」
唐揚げをぱく。「でもさ、お金目的なら私一人で充分でしょ?断然楽だよ。ボビーはササミ一切れでどこまでも喜んで付いて行くし」
「単純に重さだけ見積もっても六倍の手間ですね。割りに合いません」失礼してウインナーを一つ。「(もぐもぐ)……アス君達はまあ置いておいていいですよ。どうして宝君まで?彼女の家は御世辞にも裕福とはかけ離れています。だからと言って、あのベルイグ氏が同僚のよしみで身代金を払う訳がない」大層な愛妻家、だがそれと同じぐらい吝嗇家で有名だ。
「そう。栗花落さんを誘拐しておけば進んで全財産出してくれたのに。ところで彼女、部屋に戻って来てた?隣の百五号室」
「あ!さっきの女性が噂の栗花落さんですか!?」大層美人の箱入り娘、ベルイグ氏には勿体無過ぎる細君と裁判所でも専らの話。確かに頷くしかない。「ええ、丁度本官がこの部屋を訪れた時に帰って来ました。ベルイグ氏は既に就寝しているようです」
「良かった。散歩の時、ロビーで電話掛けてるのを見かけたの。おじさんに聞かれたくない相手だったのかな?お饅頭のお爺さんになら部屋で掛けるだろうし」
饅頭?栗花落さんの用はともかく、これでますます宝君の誘拐理由が分からなくなった。
女王はいつも通り眠そうな目でフライドポテトを黙々と口に運んでいる、と。
「……警察によると目撃証言が無かったらしいの、一切」
「それは困りましたね」ソイスキー場は広い。誘拐現場を見た人間がいなくてもおかしくはないが、運が悪かった。
ところが彼女は眉を上げて「どうして?」
「は?」何故疑問符が出たのか理解できない本官、思わず素の声が出る。「だ、だって誰も宝君達が拉致された所を見ていない訳ですよ、犯人の捜し様が無いじゃないですか」
「ラント、学生の時数学苦手だったでしょ?」
「!?な、また何を唐突に!当たってますけど、それと事件と何の関係性が」
「『誰も見ていない』事が手掛かりって話」
本官相手にハッタリを掛けても意味が無い。重要な事、なのか?
最後の唐揚げをぱく。
「流石にお腹一杯。そろそろ寝ようかな」
「では本官も部屋に戻ります。御馳走様でした」
「ねえラント」
「何ですか?」
「さっきのフロントの件。あの白い箱に関係あるなら聞かせてくれない?」
腹立たしい一件を掻い摘んで説明すると、女王は眉を少しだけ動かした。
「へえ、面白いサービスだね」
「どこがですか!怪しい事この上無い!まるで夜来」
「やこ?」
シャバムで流行する新興宗教だと言うと、イスラにもその話したんでしょ?そう返された。
「成程……とすると」
「何か分かったんですか?」本官は頭を下げる。「是非教えて下さい。イスラフィール様に伝えます」
「うーん……まだ仮説の域だから止めとく」
「仮説でも何でもいいです。詐欺宗教の手掛かりになるなら」
「……ラント。あなたの両親ってさ、ボランティアとか好きでしょ?」
「??え、ええまぁ。毎月律儀に地区の清掃活動に行ったり、街頭で募金を募っているようですね。父も母に付き合って大抵参加していますが……今回の一件と何の関係」
深い溜息の後、女王陛下はグラスに残っていたジンを一気飲みした。
「やっぱり酔えないね。本当はただの生姜水なんじゃないの?」
これだけ空気中に揮発したアルコールを撒いておいて言う台詞か。呼吸器から侵入してきた分だけで本官、軽い酩酊状態だ。
「あの」
「厄介事かなこれ」答える気は無いらしい。酒の臭いに負け、そろそろ退出する事にした。
「誘拐はいいけど、お兄ちゃんが連れ戻そうとしてるの、イスラには言わないで。耳に入れたら落ち込んで使い物にならなくなる」
「分かっています」
「よろしい」
部屋を退出して二階へ戻る途中、自室手前の廊下でロッジの主人に出くわした。
「こんばんは。両親に用事だったのですか?」
黒く豊かに生える髭、確か父と同い年だった気がする。因みにこのロッジのコックも彼。
「ああ。お父さんに飲まないかと誘われて一杯だけやってきた所だ。まだ仕事が残ってるんでね」
その一言で先程のボーイの無礼を告げる気は無くなってしまった。
「今晩のローストターキー、とても美味しく頂かせてもらいました。御苦労様です」
労いの言葉を伝えると彼は笑って、「そう言ってもらえると疲れが吹き飛ぶよ。何せ最近大忙しなんだ。注文がひっきりなしで休む暇が無い」
「スキーやスノボーは今がシーズンですから」
別れの挨拶をし、自室のドアを開ける。(しまった、外鍵掛けるのを忘れてた。それに、内鍵の掛け方もまだ説明してない)出て行った時と同じ姿勢で眠る天使様を確認して安堵の息が漏れる。(明日朝一番に教えておかないと)
隣に行って顔を覗き、思わず息が詰まった。――目尻の両端には一筋の跡が残されていた。
戻って来ていたのですか。怪我は?
――無いわ、いつも通り。
そう、それは良かった。
――あら、残念そうね?
そんな訳ないでしょう。無事で安心しています。
――そうかしら?ふふ、私は傷を負う事が滅多に無いものね。
あなたが優秀な証拠ですよ。
――だけどイスラは治療が出来なくて嫌そうだわ。
頬を撫でる繊細な指先。
――今の任務が一段落したら一緒に下界へ行かない?私が案内してあげる。
甘い囁き。頷きかけた瞬間彼女は消えた。
ジプリール?
背後から靴音。重々しい主の声。
――イスラフィール。ジプリールが死んだ。
深夜、フロント。
カサッ。
無人の空間に、一枚の紙が落ちる音が響いた。