名前だけ青い鳥
1.
チルチルとミチルという名前は母親が付けた。文学に造詣が深く、メーテルリンクの名作にも通暁していた母親は、貧乏でも幸せに暮らせるようにとの親心を込めてこの名を選んだ。長男ではなく、長女が生まれたことに計算違いはあったが、女の子としても十分に可憐な響きを持つこの兄の名を長女に、3年後に生まれた次女に妹の名を与えることに迷いはなかった。
やがて物心ついたこの姉妹には、母によってその名の由来が繰り返し教えられた。だから二人ともこの奇妙な異国風の名をすんなり受け入れることができたし、いつかきっと 『青い鳥』という物語が自分たちの人生と分かちがたく関係してくるだろうという未来をおぼろげながら予想することができた。つまり、それが自分たちの運命であると受け止めることができたのである。そんな姉妹に、母親は「いつかきっと」と言いながら、小さな鳥かごを買ってくれた。それは二人にとって、いつか冒険に出て行くときのための旗印のようなものだった。ただ、それにはいつまでも「いつか」という遠い未来の話であるという永遠の執行猶予がついているようにも思えたのだった。姉妹はしばらく名の由来の物語とは関係なしに、すくすくと健康に育っていった。
だが、いつしか転機は訪れる。まず、チルチルが9歳、ミチルが6歳のときに両親が離婚し、父親が家から去っていくという事件が起きた。父親が、あまりにも子供たちばかりを大切にし、自分を除け者にする母に愛想を尽かし、他に女をこさえたのだった。残された母親はまだ幼い子供を二人も抱えて、しばしの間、がらんとなった部屋の中で呆然とたたずむしかなかった。しかし、母親というものは強い。家計を支えるためにすぐに立ち直って、勤めに出始めた。小さな姉妹は、訳も分からないまま、そんな母親を精神的に支えながら、貧乏なりにも愛情と健康に恵まれて、幸せに暮らしていた。
そんな二人をついに躓かせたのは第二の危機だった。チルチルが16歳、ミチルが13歳のときのことだった。世間一般の大問題である不景気のあおりを食って、母親の勤め先が倒産したのである。母はそれまで小さな事務用機器のメーカーで事務職に就いていたのだが、その正社員としての安定した位置を失い、しばし路頭に迷うことを余儀なくされた。すぐに仕方なく、逼迫する家計を助けるために、昼間は工場で、夜はクラブでという割の合わない掛け持ちの仕事を始めざるを得なくなったのだが、もともとあまり丈夫でなかった母親は、すぐに健康を害して入院してしまった。その間、二人の子は、母の入院費と自分たちの生活費を両方、わずかな貯金で賄わなければならなくなった。そして、そんな貯金はすぐに泡と消えた。借金が少しずつ積み重なって、姉妹は怯えていたが、1年と半年わずらった後、その借金を抱えたまま、母は彼女たちを残して、あっけなくこの世を去った。姉妹には嘆き悲しんでいる余裕すらなかった。
葬式の費用もろくに持っていない二人を手伝ってくれたのは、安永さんという大家であり、母親の葬儀には親戚は誰も出席しなかった。父の行方も知れず、チルチルとミチルはその後しばらく家賃を滞納し、生活費も逼迫した。さすがの大家さんもいい顔をしなくなった。そこでチルチルは、楽しく通っていた県立高校をやめ、夜学にして就職せざるをえなくなった。
ただ、不況のしわ寄せは貧乏な姉妹にさらに追い討ちをかけた。中卒のチルチルを受け入れてくれるような余裕のある企業はどこにもなかったのである。何社も回ったうちに出会った親切な面接官が、その事実をこそっと教えてくれたのだった。チルチルはなけなしのお金で買ったリクルートスーツと靴がすっかり無駄になったことを惜しんだ。そして、水商売に転ずるしか道はないのかも、と覚悟した。
しかし、ミチルのためなら何でも、と思ったチルチルだったが、いざとなると、さすがに逡巡した。面接に行くと決めたその夜、チルチルは思い切ってカッターで手首を切った。真赤な血が一筋、二筋と分かれながら、流れ落ちていく。チルチルはこの寒々とした光景を眺めながら、この痛みを一生忘れまい、と心に誓った。
それは雪の日だった。ちょうどチルチルが17歳になる誕生日のことだった。チルチルは手首に包帯を巻き、紺のスーツを着て、そうした店の多い繁華街に出ようとしていた。その前に閑静な住宅街を横切り、ある交差点で横断歩道を渡ろうとしたとき、積もりかけの雪でぬかるむコンクリの上でつるんと転んだ。またしても左膝から血がじんわりと滲み出てくる。チルチルはそのまま意気消沈してなかなか立ち上がる気にもなれず、車の来ないのをいいことにして、しばらく地面に腰をついたままの体勢で固まっていた。
「どうしたの、お嬢さん?」
そのとき、ふと真上から深みのある男性の声がした。気がつくと、黒いジーパンに茶色の革ジャン、黒めがねのダンディな中年男性がチルチルのすぐ目の前でかがんで、チルチルに助け舟を出そうとしていた。
男性は、チルチルを助け起こし、そして事情を尋ねた。
「どうしてお嬢さんのような若い人が、こんな夜更けにリクルートスーツ姿で出歩いているの?」
「ええと…」
チルチルは初対面の人間を無防備に信用するほどバカではなかったので、男性にまず名前を尋ねた。
「この先にある喫茶店「ブルーバード」のマスターの井出沢だよ。そんな怪しい者じゃないさ」
チルチルはこの店の名前を聞くと運命の不思議を感じた。そして男の顔をじっと見つめて、覚悟を決めたように言った。
「実は3歳下の妹のほかに身寄りがいなくなって、就職を考えたんだけど、どこにも見つからなくて、仕方がないから水商売でも始めようかなあと思って、出てきたんです。もちろん、そんなことはしたくないんだけれど」
「そうだったのか。それはやめたほうがいいよ、お嬢さん。君みたいに世間を知らない女
の子が渡っていけるほど楽な道じゃないからね。俺が何とかしてあげたいところだけれど、それは無理だよなあ」
そのとき、チルチルの頭にぱっとひらめいたことがあった。何も定職でなくても当座のところはいいではないか、と。
「すみません、井出沢さん。私をブルーバードに置いてくれませんか?何でもやりますから」
「ははあ、なるほどね。俺のところか。そうだな、ちょうど手がほしいところだもんな」
チルチルのひらめきどおり、井出沢はその場でチルチルを雇ってくれることになった。
これで救われた!チルチルは躍り上がらんばかりだった。有頂天のチルチルは、急いで家に戻った。もう朝の4時だったので、ミチルは寝ていたが、チルチルは妹をたたき起こした。
「ねえ、決まったよ。バイト先」
「あ、お姉ちゃん。よかったね~」ミチルは眠い目をこすりながらも、答えてくれた。
こうして、久しぶりに姉妹は心の底から安心して眠りにつくことができたのだった。この先何が起こるかなど、まったく気にもかけず、若い者固有の楽天性で、ただこれからが楽しみで仕方がない、それだけだった。
2.
早速その日から新しい生活が始まった。仕事を始める前に、チルチルは井出沢から給料を前借し、滞納していた家賃を支払うとともに、通っていた県立高校を辞めて、定時制に入学金を払い込んだ。これで、後は仕事に取り掛かるだけである。チルチルは相当の覚悟を決めて職場に向かった。
ブルーバードは自転車で通うことのできる距離にあった。住宅街の中に突然現れる白樺の林に囲まれた、木造の黒い二階家がそれだった。赤頭巾でも今にも出てきそうなメルヘンな感じがして、チルチルは自分の職場にれっきとし個性があることに誇りを感じた。
「すいませーん」思い切って、チルチルはドアの前で声を上げた。
「はーい、どちらさま」明るい若い女の子の声がした。
「新入りのチルチルです。井出沢さんの紹介で、今日からご厄介になることになりました」
「話は聞いていますよ、どうぞ中に入ってきてね」
カランカランと鐘のなる音がして、木造りの重い扉がぱたりと開いた。中からは白シャツに黒いズボン、黒いエプロンに頭を赤いバンダナで覆っている、小柄でキビキビとした若い女の子が現れた。
「チルチルね。私は舞子、どうかよろしく」
「よろしくお願いします」
チルチルが頭を下げると、カウンターの中からも声がした。若い男性の声だった。
「俺は常澄。マスターについでの古株なんでね、何か分からないところがあったら言ってくれ。俺でよければなんでも教えるよ」
「常澄君、ずるい。若い女の子には見境なく甘いんだから」
舞子が口を尖らせて常澄君に不満をぶつける。
「舞子だって若いだろう。何言ってんだよ」
「そりゃそうだけど、チルチルにはかなわないもの。ねえ、チルチル、今いくつなの。私は23歳だけど」
「ちょうど今朝で17になりました」
「やっぱり若いわね。まだ10代か。いいわねえ。一番幸せなころじゃない。でもそれにしても、今日が誕生日だったなんてね。よし、じゃ、お祝いを兼ねて、まずはうちのコーヒーを飲んでもらおう」
常澄君もこれに同意した。そして、ひとしきり迷った後、ジャーマンローストの豆を手際よくミルでひいて、コポコポと挽いたばかりの豆の立てる陽気な音にチルチルの注意を惹きつけながら、すぐに熱々の香高いコーヒーを淹れてくれた。
心地よいアロマが充満して、チルチルはふわっと体が浮くような感覚を覚えた。ここが正真正銘の喫茶店、すなわち自分たちの出すコーヒーの質と店の雰囲気とサービスのよさという3点セットで成り立っている自営店であるという事実を心に焼き付けようと、一口一口味わって飲んだ。からっとしかもコクのある味わいがいつまでも、舌先に残っていた。
「ねえ、どうだった?」舞子が待ちきれなさそうにいそいそと訊く。
「舌の上を転がるような軽さと、同時に口の中全体に広がる深いコクが、何とも言えない絶妙なバランスで溶けあっていました」
「うん。まあいいわ。そんなところでしょう。うちのコーヒーはかなりいけるのよ。ね、だから、この店で働けることに誇りを持って頑張ってちょうだい」
「はい、分りました」
私もこの店にふさわしいコクのある人間になろう、そう決心したチルチルだった。
それからは毎日、接客業と皿洗いの徹底的な訓練となった。自然な笑顔というものはなかなか難しい。不自然になったり、笑い自体を作れなかったりする。そして、グラスを持つ手が震えて、がたがたと音を立ててしまう癖がなかなか抜けなかった。チルチルは実はひどい人見知りなのだ。人前に出ると上がってしまい、自意識過剰になって、もじもじしてしまうのだった。
でも、チルチルはそんな弱い自分を克服しようと必死で、笑顔を振りまき、度胸のない分は経験で補おうと、積極的に接客をした。その効果があって、3ヵ月後には目だって明らかなミスが減り、チルチル目当てで店にやってくる客も出始めた。
ただ、もちろん店の経営はコアな常連客によって成り立っている。新しい客はごまかせても、洗練された常連さんの目はだませない。それでも、この店の常連はみな気立ての優しい人が多くて、かえって勇気付けられることもあった。
中でも、いつでも赤と白のストライプのシャツを着ている有名漫画家は、チルチルのことを気に入って、必ず声をかけてくれるようになった。
「君は不器用だが、ユーモアのセンスがあっていい。君を見ていると、なんだかおかしくて、笑えてくるところが不思議だ」
チルチルは褒められているのか貶されているのか分からず困ったが、いつも大人しく聴いていた。たまに思わず話に引き込まれて、自分自身がネタになっているのにもかかわらず、腹を抱えて笑い出すこともあった。
「そういう無頓着なところはどうかねえ」
なかなか点の辛い漫画家はそこでいつも説教を始めるのだが、チルチルは笑ってごまかすほかなかった。
ほかの常連さんは、時間つぶしに出てくる中年から老年の高等遊民の人々だった。その人たちの中には好んで自分から話を仕掛けてくる人もいたし、ただじっと黙ってコーヒーを啜っているだけの人もいた。チルチルは客の好みをいち早く察して、自由にくつろいでもらおうとする工夫を重ねた。そして、それは好評で、それがチルチルの成功の端緒となったのだった。やがてはチルチルと話したいという若者たちが隣町からもやってくるようになった。
こうしてチルチルがいよいよ看板娘に成長したとき、マスターが青いインコの番を贈ってくれた。これで本当に「青い鳥」が手に入ったといえるかもしれない。でも、青い鳥とインコは違う、チルチルは思った。青い鳥とは、もっと絶対的な存在でなければならない。ただのインコであってはならないのだ。そこのところを常澄君と舞子さんに訊いてみたら、
「君は今幸せ?」と逆に問い返された。
「幸せかどうかは分からないけれど、仕事が楽しいです」
「それなら、あなたには青い鳥なんて要らないじゃないの?」と舞子。
「青い鳥が必要なのは不幸な人だからね」と常澄君。
「はあ」
なんだかはぐらかされたようにチルチルは思った。でも、二人ともいつも大変親切に接してくれる、よい先輩だった。チルチルはあまり深く考えず、彼ら二人がチルチルを前向きにさせようと思って言ってくれたのだと思うことにした。そんなことより、本当にチルチルは楽しくて、そして忙しくてろくにものを考える暇などはなかったのだった。
3.
そのころミチルは、働きに出ている姉に対して、任された家事を精一杯にこなす一方で、空いている時間には短い文章を書きまくって文体練習をしていた。
なぜ文体練習かというと、ミチルの小さなころからの夢は、小説家になることだった。だから、人の心に響く文章を書くのが、心からの願いだった。
そんな大それた夢を描くほどだから、ミチルは天真爛漫な姉とは違って、一風変わっていた。物事や人間の真実を見抜き、そして辛らつに批評するのが大の得意で、暇さえあったら、人の悪口ばかり言っていた。そして、それを文章化するのが日課だった。
ただ、そんなミチルにも盲点はあった。ミチルは3歳年上の姉を溺愛していたのだった。
普通、年上の者が年下の者に感じるのが溺愛だが、人を人とも思わぬミチルには、3歳の年の差など無きにも等しかった。そして、単純でだまされやすい(とミチルが思っている)姉のチルチルをわが身より大切に思っていた。これを溺愛といわずになんと言うだろうか?
ミチルはチルチルの真面目さを信頼していたから、仕事に関して心配することはなかった。ただ、まだチルチルも若かった。そして、ミチルと違って女の子らしい女の子だった。ミチルにはまったく恋愛願望がないからいいものの、お姉さんには隙がある。だから、楽しく仕事をするのはいいが、気をつけないと危険だ、そう苦々しく思っていた。
もちろん、事あるごとにその忠告を口をすっぱくして言うのだが、チルチルは聞かなかった。まさに暖簾に腕押しだった。
そんなチルチルを心から心配しているミチルは、気が気ではなかった。
一方のチルチルは、実は一抹の不安がないでもなかった。常連の客たちには微塵もその疑いを持つことはなかったが、最近チルチルの評判を聞いてやってくる新米の客たちのうちには、どうかすると隙さえあればチルチルの手の一つや二つ握ってやろうという下心の見える者が多数混じっていた。
中でも無職の中村健二という男のたちが悪かった。その薄気味悪い目つきで見つめられると、チルチルはゾッとして血の気が引いていくのを抑えることはできなかった。いつか何か起こしそうな気配がしていた。
運の悪いことに、その予想は的中した。ある日、チルチルが夜学が休みで夜までブルーバードで立ち働いた後、家に帰ろうとブルーバードから一歩を踏み出したとき、急に物陰から男が出てきて、チルチルを羽交い絞めにして、地面に押さえつけた。
チルチルは抵抗して足をばたばたさせたが、咄嗟のことでまるで自由が利かなかった。チルチルは最後の手段として大声で叫んだ。
そのとき、急にチルチルの体を押さえつける男の体がふわっと浮いた。チルチルは急に体が動くようになって、たちまちのうちに立ち上がった。
見ると、一人の若い男が中村(チルチルの予想通りであった)の腕を後ろでにねじり上げており、中村は痛がって、じたばたしていたが、万力のような力の若い男の腕を振り放すことはできなかった。
若い男は言った。
「夜中に待ち伏せして女の子を襲うなんて穏やかじゃないな。これでも僕は空手の有段者だ。これ以上痛い目を見たくなかったら二度とこんなことをするんじゃない。今度やったら、そのまま警察に引き渡すからな」
中村は無言のまま、若い男が手を放すと、腕をさすりながら逃げていった。
チルチルは鈍い光の下で、目を凝らして救世主の顔を見つめた。それは、最近よく来るようになった客の一人で、白銀英寿という、とある大金持ちの家の御曹司だった。
「白銀さんですか?」
「そうです」白銀英寿はまじまじとチルチルの顔を見つめながら言った。「お怪我はありませんか?」
「大丈夫です。危ないところを助けていただいて、ありがとうございました」
「当たり前のことをしただけですよ。女性を助けるのは男の役目だ」
「でも、最近はそんな男の人ばかりじゃありませんから」
チルチルは英寿の顔を盗み見たが、いつも通りの点のような目ににきび面に団子っ鼻の決して好男子とはいえない顔つきだが、着ているものといい、挙措といい、物腰といい、上品な雰囲気だった。チルチルとは別世界の人間のように見えた。
「チルチルさんのようなきちんとした人が卑賤な者とかかわるなんてよくありませんよ。これからは夜遅いときなんかはもっと気をつけてくださいね」
チルチルは鼻白んだ。助けてもらったのはありがたいが、金持ち特有の高慢な態度は鼻持ちならないと思った。
「ありがとうございます。でも、私も決して上流階級の人間ではありませんから、卑賎といわれても困ります。ただ自分の身は自分で守れるようにという点だけは気をつけます」
「僕が何かお気に触るようなことを申しましたか?」英寿は慌てたように言った。
「いいえ。そんなことはありませんわ」チルチルはお茶を濁した。そして、重ねて礼を言って、その場を立ち去ろうとした。
「いけませんよ。こんな夜遅くに。また何かあったらどうするんですか。僕が送っていきます」
「いえいえ、お構いなく」
「いいえ、これだけは譲れません」
そう言って、英寿は最後まで紳士的な態度で、チルチルをミチルの待つアパートまで送り届けた。
チルチルは嬉しいというのとはちょっと違ったが、男性に奉仕してもらうことに悪い気はしなかった。
「それでは僕はこれで失礼します」
アパートの前で去っていく白銀英寿のさわやかな後姿をしばらく放心したように見つめていたチルチルは、ふと気づいて慌てて階段を上って、自分の家の鍵を開けた。ミチルはもう寝ていた。チルチルはふうとため息を吐いて、寝支度に取り掛かった。
満月の満ち足りた宵だった。チルチルは男の顔を思い浮かべながら、静かに寝についた。
4.
その後白銀英寿はますます頻繁にブルーバードを訪れるようになった。見たところ、英寿はチルチルに夢中のようだった。彼の顔つきを見ればそれは誰の目にも明らかだった。英寿はチルチルの姿が視野に入るたびに、目で全てを飲みつくそうとでもいうように、チルチルの一挙一動を追いかけていた。
一方のチルチルとしては、金回りのよい客がついたことを喜ぶべきだったかもしれないが、せいぜい三杯もお代わりすればいいほうである、しがない喫茶店の客では、そうそう差がつくものではなく、特に金回りは関係なかった。それよりも、むしろ英寿がチルチルを見る目線があまりにも熱心なので、ほかの客たちが引いてしまうことのほうが心配だった。そして、英寿の立場が他の客たちとはあまりにかけ離れており、英寿自身も庶民を見下しているきらいがあったので、浮いているのではないかと思いやられた。
そんな英寿に対して、チルチルはほとんど自分から声をかけることはしなかった。それでは英寿を逆上せ上らせてしまうのが目に見えていたからだし、また、チルチルが英寿に対して何も特別な感情を抱いていないのがはっきりしているからだった。チルチルはしかし、助けてもらったことに対するお礼の心を表現できないので、申し訳ないと思う気持ちもないではなかったが、他の客たちのいる手前、あまり思い切った行動はとれなかった。
そんな戸惑いの続いていたある日、ブルーバードの目の前に見かけないリムジンがやってきて、中から一人の蝶ネクタイをつけた準正装の中年男性が現れた。珍しく英寿がいない日だった。
「私はこういうものでございます」
そう言って、その物腰の柔らかな、しかし目は油断なく光っている40代の男性は迎えに出たチルチルに次のような名刺を渡した。
「白銀家首席執事 金山商人」
いきなり見慣れない名刺を渡されたチルチルは、扱いに困って落ち着きを失った。
「何かご用ですか?」チルチルは金山氏に尋ねた。
「いえ、コーヒーを一杯所望いたしたい、それだけです」
「はあ。では、どうぞ」
チルチルは階段を上って金山氏を窓際の二階で一番いい席に案内し、注文を受けた。
「ブルーマウンテンを頼みます」
金山氏は窓に向かった姿勢で、チルチルに注文した。
「かしこまりました」
チルチルは一階まで下りて、カウンターの中にいる常澄君に言った。
「VIP待遇でお願いします」
舞子が目を輝かせながら言った。
「あの人、きっと白銀家のご主人から、チルチルのことを調べるように言われたのよ。きっと、何かがあったんだわ、英寿君とお父さんかお母さんの間で」
「そうですかね」チルチルは困ったという顔をしたが、何を言うべきか分からなかった。
「とにかく、私たちに任せておいて」
常澄君は最高の質のコーヒーを淹れることに集中し、舞子はできあがったコーヒーとともに金山氏に近づいていって、話しかけた。
「いつもお世話になっておりますが、今日は英寿さんはどちらにいらっしゃるのですか?」
「坊ちゃまは坊ちゃまのお好きなところにいらっしゃいます。私どもが常に存じ上げているわけではございません」
「普段は何をしていらっしゃるのですか」
「坊ちゃまは科学者の卵でいらっしゃいまして、とある大学の助教授をなさっておいでです」
「そうなんですか。でも、お父様とお母様はそれをお望みなんですか?」
「随分ぶしつけな質問をなさる方だ。当方に何も落ち度はありませんので申し上げておきますが、もちろん、英寿様は後々にはわが白銀家の当主となられる方です。やがては一族の財閥を引き継がれることになるでしょうし、ご本人様もご家族もみなそれを望んでおられます」
「へえ、そうなんですか」舞子は頓狂な声をあげた。
すると、金山氏は言われもしないのに、白銀家のことを話し出した。
白銀家は明治以来の財閥の家系で、今の当主正則が4代目である。普段は白銀商会のCEOをしている。妻は美枝子、さる高名な学者の娘で、今では白銀家の大サロンを一人で取りしきる、洗練された才色兼備の女主人である。子供は長女の妙子、長男の英寿、次男牧男の3人だが、妙子はすでにフランスの一流デザイナーと結婚しており、英寿と牧男だけが白銀家に残っている。英寿は飛行機専門の科学者の卵であり、12歳も年の離れた弟の牧男はクラシック音楽にしか興味を示さない一風変わった少年であった。英寿は現在29歳で、牧男は17歳。まったく接点のない二人だが、仲は非常によくて、英寿は一方的に牧男を可愛がっていた。
そうした自慢話をうんざりするほど聞かされた舞子とチルチルは、英寿の置かれている環境の特殊さに驚いた。
「それで、あんな人間になっちゃうのね」二階の裏で一緒にこの会話に聞き耳を立てていたチルチルは呆れた。
一方の舞子は興味を持って、立て続けに質問を始めた。
「英寿さんがどんな方かは分かりましたが、今日は一体どのようなご用件でいらっしゃったのですか?」
金山氏はしばし躊躇する風だったが、ついに重い口を開いた。
「チルチル様をご招待するつもりで伺いました」
「え?」チルチルもその場にいる舞子も一瞬息を飲んだ。
「チルチル様を英寿様のお誕生パーティーにご招待するつもりで伺いました」金山氏は改まった態度でもう一度言った。
「本当ですか?単なる品定めではなく?」舞子は思わず本音を漏らした。
「なんとまあ、直截的な言い方をするかただ。あなたがチルチル様でなくてよかった。あなたのような方では、当方としては大いに手古摺るでしょうからな」金山氏は非礼にも鼻をフンと鳴らした。
「失礼しました。それでは、チルチル本人と直接お話ください」舞子は鼻白んで、チルチルにバトンを渡すことにした。チルチルは「え、いやですよ。舞子さんがそのままこの場に残ってくださいよ」と慌てたが、舞子は「だめよ。自分でがんばりなさい」と許さなかった。
「あっどうも」
チルチルは金山氏の目の前に再び押し出されて、仕方なくつぶやいた。金山氏は悠然と小さなコーヒーカップを鼻の前で回転運動させながら、口に運んでおり、しばらくチルチルのほうを眺めようとはしない。
「あ、あの、ブルーマウンテンはいかがですか?もちろん、当店最高の品でございますが」チルチルは単に気まずい沈黙を避けるために、儀礼的な言葉を口にした。
金山氏が太い眉毛の中からジロッと目を光らせて言った。
「なかなか香りがいいですよ。もちろん、わが白銀家のコーヒーにはとても及びませんが」
チルチルはこれには我を忘れてかっとなって言い返した。
「うちのコーヒーだって負けていませんよ」
「いや、それはあなたが世間をご存じないからだ。上流の家庭の食卓というのは、庶民が思いつかないほど贅の凝らされたものなのです。とても分からないでしょうな」金山氏が傲然と言い放つので、チルチルは呆れた。
「そんなにすごいことなんですか。上流階級ということが」チルチルはついに今までためてきた鬱憤を、金山氏に向けて一気に爆発させた。
「そのとおりです。それを知っていただくために、あなたを当家にご招待しようというこちらとしての最大限の譲歩ですから、あなたも幸運に感謝されなくてはなりませんよ」
「私はそういう気取ったのが大嫌いなんです。あなたがたの英寿さんはそういう点だけは
気取らないいい人で好きだったのに、私はもういやになりました」
「それは困ります。私たちは英寿様の喜ばれるお姿を拝見できるようにと思って、精一杯の譲歩をしておりますのに」
「結構です」
「そうはいきません。明晩ご自宅にお迎えに上がります」
「勝手にしてよ」チルチルはとうとう切れてしまった。
金山氏は一人で怒っているチルチルに憮然とした表情を送ってから、悠然と席を立った。そのままレジで精算を済ませ、ゆっくりと外に出ていった。金山氏の姿が見えなくなると、一同はみなほっとしたように堰を切ってしゃべり始めた。
チルチルは舞子に言った。
「私、絶対にいやです。あんな人たち」
「まあ、でも、ああいう人たちはああいう人たちでそれなりに筋は通っているんだろうし、いろんな人に関わることはいい経験になるんじゃない?」
「そうですかね。でも、私はあんな人たちには慣れていないし、好きでもありませんから」
「じゃあ、誘いは断ってしまうの?」
「そりゃあ、当然ですよ」
「でも、もったいないじゃない。せっかくの機会を」
「そうでしょうか」
「なら、こうしましょう」舞子がニヤッとしながらチルチルに向かって言った。
「私もついてくわ」
「えっ?」チルチルは本気で驚いた。「どうして?」
「ええ、私は一度そういう場所に行ってみたかったのよ。パーティーなら誰が参加してもそれほどおかしくないかと思うし」
「はあ」
この申し出をどう捉えたらいいのか、チルチルには見当もつかなかった。ただ、少し物事を違う角度から見てみようという気にはなった。チルチルは基本的には恩人である白銀英寿がいい人間だと思ってはいたが、特別な存在として眺めたことはなかった。今回、感情的に特別に思ったわけではないが、特殊な世界の住人であることを脳裏に焼き付けたのだった。大事な客ではある。怩懇にすることは悪いことではないかもしれない。そう思えるようになった。
「いいです。分かりました。そうしましょう」
家に帰ったチルチルはなかなか寝付けなかったが、明日のことを思うと寝ておいたほうがいいと思い、無理やりに布団に横になった。隣のミチルのほうはすでに大いびきで寝ており、明日の姉の冒険のことなど、何一つ知らずにいた。チルチルはミチルの平和な寝顔をいとしげに見詰めながら、いつか自分も夢の世界に落ちこんでいった。
5.
翌朝チルチルはいつもより早く目覚めた。いつも通りミチルを学校に送り出した後、シャワーを浴び、じっくりと髪をトリートメント&ブローし、朝食を食べきれないくらいほどいっぱい作ってのんびり食べていたら、10時ぐらいに舞子が訪ねてきた。
「ほら、これよ。お待ちかねのドレス。きれいでしょう」
そう言って舞子がボストンバッグの中から最初に取り出したのは、きれいに折りたたまれた、乳白色の、肩まわりにたっぷりしたフリルがつき、ウエストから下がギャザーが入って風鈴のように膨らんでいるドレスだった。
「こういうヌーディーなのが今の流行なのよ」
チルチルは何も言わずにドレスに手を通した。サイズはまるで寸法を測ったかのようにぴったりだった。
「似合うじゃない、チルチル」舞子は感心して眺めた。
「そうでしょうか」
チルチルは冷静を装ったが、浮き立つ自分を押し留めるのに苦労した。やはり女の子だった。気づくと、お姫様になったような気分で舞いあがっている自分がいた。
「じゃあ、私も着替えようっと」
舞子はいそいそと、濃青色の肩の出た夜会服にシルバーのストールをふんわりとまとった。これもまたゴージャスで、舞子に良く似合っていた。
「さあ、頭はどうしようか」
「それが一番難しいかもしれませんね」
二人は長い時間をかけて、お互いの頭をいじりあった。結局、チルチルはボブカットの髪をムースでパツパツに固めた後、跳ねるように遊ばせ、かなり大胆なアレンジをした。一方の舞子は、普段は一つにくくっている長いまっすぐな黒髪をアップにして膨らませ、うなじが出るようにきれいにまとめた。
「いい感じじゃない。それじゃあ、仕上げよ」
舞子はバッグの中からさらに小道具を持ち出して、チルチルの首に真珠の首飾りを、耳にはシルバーの大きな輪っかのイヤリングをつけてやった。舞子自身はプラチナのネックレスを身に付けた。
最後に靴を選んだ。チルチルは、ドレスとほぼ同系色のサテンのダンス・シューズを履いてみた。165cmの長身がさらに高く見えて、モデルのようによく映えた。舞子はシルバーのラメ入りのサンダルを選んだ。よく上半身のストールと調和していた。
「ほら、これで二人とも完璧」
「いや、舞子さんのほうがずっと大人っぽいわ」
「でも、チルチルのはお姫様って感じがして、憧れの一着って感じよ」
そんなことを言いあって、お互いに姿見で確認して無邪気に褒めあっていた時、ドアフォンが鳴った。
「チルチル様、お迎えに上がりました」
それは金山氏とはまた違う、若い従僕だった。
「金山さんは」
「下の車でお待ちでございます」
二人はいそいそと従僕のあとに従って、アパートの階段を下りて行った。
「これはこれは。昨日のお嬢さんもご一緒のようですな。まあいいでしょう。シンデレラのようにとはいきませんが、まあまあうまく変身なされましたな。レディーのように見えます。見掛けだけはね。今宵はどのような方が真の令嬢かをお知りになれる、恵まれた機会になると思いますので、どうかご覚悟のほどを」
金山氏は相変わらず皮肉たっぷりな言葉で二人を出迎えた。しかし、その言葉を裏切るかのように、二人のシンデレラを乗せたリムジンは、躊躇することなく出発した。白銀家のプライバシーを守るために、どこをどのように車が進んで行ったかは、不問とするが、とにかく、二人は夜の6時ごろ、無事に白銀家の広大な屋敷の前に無事に送り届けられたのだった。金山氏が右手で軽く合図をすると、鳥居のように大きな鉄製の門がスルスルと開いて、二人を乗せたリムジンは、しばらく門から玄関に至る小道をまっすぐに突き進んでいくのだった。舞子とチルチルは、吸い寄せられるかのように目の前に広がる光景を脳裏に焼きつけようと、目を丸くして窓にかじりついていた。しばらくは道沿いに銀杏並木と芝の原っぱが続いていた。
実際には10分くらいだったろうか、チルチル達は白銀家の表玄関にやっとたどりついた。
「SHIROGANE」という文字がレリーフ風に浮き上がっているファサードのついた、総石造りの御殿の建築は、厳かで観る者を気押すような威容があった。そんな御殿の玄関前に降り立った二人は、思わず武者ぶるいをする自分を発見していた。しかし、そんな気持ちはすぐに忘れた。金山氏に先導されながら赤毛氈の敷かれた入口に入っていくと、それこそ10人ほどの正装をした執事たちがたちどころにチルチル達を取り囲み、口々に出迎えの言葉を発し始めたのだった。そんな彼らに囲まれて、チルチル達はまごまごしてしまったが、最後にまた金山氏が姿を現すと、その群れはピタッと口を閉ざし、直立不動の姿勢となった。
「チルチル様がお見えになられた。ご案内してさしあげなさい」
「はっ」
チルチル達はすぐに赤毛氈のらせん階段を上って、2階の突き当たりとなる控室に案内された。チルチルと舞子はようやく二人きりになれて、ほっと一息をついた。
「私たち、どうなるんですかねえ」チルチルはロココ的なお姫様部屋の外観に気圧されて、思わず弱気な言葉を漏らした。
「何、どうってことないわ。ここは日本でしょう」
「そういう考え方もあるんですね」チルチルは感心したように言った。
「とてもそうは思えないけど」舞子は控えめに本音も述べた。
その白い絨毯がひかれた控え室には、唐草模様のような豪奢な柄で、手の込んだ技術を感じさせる猫足をした、デザイン性の光る白い木製の椅子とテーブルが並んでいたほかに、白い壁には一面にフランスの貴族の家族が食事をしている光景がじかに描かれていた。本物の暖炉があり、マントルピースの上には、カールの豊かな生き生きとした眼のフランス人形が置かれていた。他には壁際のいくつか並んだ白い猫足のカボードの上には、本物のマイセンの白地に紺色の玉ねぎ模様の大皿や、アンティークの陶器製の花柄の電話が置かれていた。そして、部屋のつきあたりには、それこそ人の背丈ほどもある、白い磁器の花瓶がまるでオブジェのようにそびえたっており、その中には見事な何千本もの薔薇の束がいっぱい詰め込まれていた。まるで洪水のように薔薇があふれ出ており、咲き誇っているありさまは耀く太陽のようだった。一言でいえば、貴族趣味と芸術性が綯い交ぜにされた、大変アンバランスな、だが魅力的な部屋だった。
「まるで宮殿のようですね」
「でも、こんなところに住んだら、落ち着かないんじゃない」
「そうですよね」庶民である二人はそれくらいしか言うべき言葉を持たなかった。
二人がしばらくテーブルの上の豪華な銀製の茶器で言葉少なにお茶を飲んでいると、コツコツと扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ」舞子が落ち着いて言うと、
「失礼します」と、銀色のタキシードを着た白銀英寿が入ってきた。
大きな体が洋服に締め付けられて、堂々とした押し出しの良い風采に見えた。
「チルチルさん、舞子、今日は突然の御呼び出しで失礼しましたが、ようこそいらっしゃいました。十分に楽しんでいってください。僕はいろいろと忙しいので、なかなかお相手もできませんが、お二人が楽しんでくださることを心から願っています。僕の家族にも後でご挨拶させますが、とりあえず広間にいらしてください」
「それでは」と二人の娘たちは言い、英寿の後を逸る心を抑えながらついていった。
広間は一階の中心部にあった。舞踏会が開けるぐらい、広いその部屋には、大勢の客が詰め掛けていた。執事の一人が、客が到着するごとに、その名を大声で告げ知らせていた。
チルチル達が歩み寄っていくと、
「チルチル様、舞子様、おつきになりました」と若い執事は名前を呼びあげた。
チルチルは恥ずかしくなって、穴があったら入りたいと思ったが、舞子が堂々としているので、チルチルも頭をあげて、周りの様子をじっくりと眺めることにした。
オペラ座の怪人にでも出てきそうな巨大なシャンデリアで煌々と照らされた大理石の広間は、すべて乳白色に輝いており、宮殿の一間のような豪華な印象を与えていた。外には巨大な円形のこれも石造りの立派な噴水があり、夜でも絶え間なく水しぶきが上がっていたが、手に手にシャンパングラスを持った令嬢たちがその周囲で憩っていた。噴水の周りは薔薇園になっているが、夜で見えないために、電飾がかけられて、チカチカとライトアップされていた。
「クリスマスみたいね」
「一年中こうなのかしら」
二人はキョロキョロと周囲を見回しては、驚き呆れていた。すべてが貴族風で、しかも本格的だった。
そのとき、入口のほうからガヤガヤと人の騒ぐ気配が起こった。
ついに白銀家の家族が入ってきたのだ。
英寿はすでに客たちとにこやかに談笑を交わしていたが、そこに当主正則と美枝子夫人が腕を組んで入ってきて、後には金山商人と紺色の燕尾を着た若い牧男が従っていた。
白銀正則がマイクを手に取った。
「お集まりのみなさん、本日はわざわざ愚息の誕生祝いのためにご足労くださり、まことにありがとうございます。本日をもって、長男はめでたく30代を迎えることになりました。すべて皆さまのおかげでございます。今宵はそのお礼も兼ねまして、ささやかではございますが拙宅で宴をご用意いたしましたので、どうか心行くまでお楽しみください」
方々でブラボーという声が上がった。それが合図のようになって、広間の中央に一隊のジャズバンドが入ってきて生演奏が始まり、いよいよ宴もたけなわというころ合いになっった。
一方のチルチルと舞子は、各テーブルにうずたかく並べられているご馳走に目がくらんでいた。七面鳥の丸焼の皿と大きな果物の籠から食べきれないほど取り分けて、必死に食べていた。もちろん、飲み物もふんだんにあった。チルチルは未成年ながら、ワインとシャンパンでかなり出来上がっていた。
「だめじゃない、チルチル。これから人に会うのよ」
「そうれすか。もう私は駄目れす」
足取りもおぼつかないチルチルは、気づくと人の群れの中に一人で紛れ込んでいた。
くすくすと押し殺したような笑い声が響いているのに気付くと、チルチルは腹を立てた。
「なんらよ。何か文句あるんれすか」
舞子が危険を察して追いかけてくるのより一歩早く、白銀英寿がチルチルを助け出した。
「チルチルさん、危ないですよ。こちらにおいでなさい」
そうして、英寿がチルチルを連れていった先は、一つの奥まった部屋で、そこには白銀家のメンバーが勢ぞろいしていた。
「お母さん、この人がチルチルさんです」
英寿は丁寧にチルチルを母親に紹介した。
目は鋭いが、洗練された物腰の白銀美枝子は、ふふと意味深な笑いを漏らして、手を差し伸べた
「今日はよくいらっしゃいました。お噂はかねがね伺っていますよ。とても可愛らしい方ね。でも、あまりお酒は召し上がらないほうがいいわね。まだ未成年なのでしょう?」
「はい。そうれすが、あまりおいしいのでつい…」
「まあ、面白い方ね。英寿、介抱してさしあげなさい」
「分かっています、お母さん」
英寿は傍らに座っていた父親に黙礼すると、すぐにチルチルを部屋から連れだした。すると、後から牧男も付いてきた。
「兄さん、この人が僕と同い年のチルチルさん?ずいぶん酔ってるね。大丈夫?怒られるよ、ママに」
「この人にはママはいないんだ」
「そうなんだ。かわいそうだね。若いのに」
「そんなことない。チルチルさんは妹さんを支えながら、しっかりと自分の力で生きているんだ。こんなに若いのに、大した人なんだよ。両親におんぶにだっこの僕たちとは大違いだ」
「そうなんだ。でも、この人たち庶民でしょう。僕らとは違うよ」
「しっ、牧男。そういう言葉は言っちゃいけない。傷つけてしまうだろう」
「あっそうか。でも、仕方ないよな。本当の事だから」
「こら」
仲の良い兄弟は、こそこそといつまでも会話を続けていた。そのうち、さすがのチルチルも眼が覚めてきた。
「チルチルさん、大丈夫ですか。牧男が失礼なことを申しましたが、どうか気になさらないでください」
「全然気にしていないので、お構いなく」
「それなら、お楽しみいただけましたか?今日はわざわざどうもありがとうございました」
「いいえ、お礼なら金山さんにおっしゃってください。金山さんがすべてを段取りしてくださったようなので」
「金山はそれが仕事なのですから、大丈夫ですよ」英寿はにっこりと静かな笑みを浮かべた。
「金山さんはどちらにおいでですか?」
「彼は大事なお客様方にご挨拶をしているので、ちょっと手が離せませんね」
「そうですか。どうかお礼を申していたとお伝えください」
「水臭いことをおっしゃらないで下さいよ、チルチルさん。金山は金山ですよ」
「ええ、でも」
「僕が頼んだのです。それがすべてですよ、この家では。それよりチルチルさんは僕の家族をどうご覧になりました?」
「え、ちょうど酔いが回っていたので、失礼してしまいましたが、立派な方たちなので、気が引けてしまいました」
「そうですか。僕の母親はちょっと怖かったでしょう」
「ええ、まあ。とても気配りのきく方と思いましたけど」
「いやあ、僕のうちで一番強いのが母でして。でも、母は末っ子の牧男を眼の中に入れても痛くないくらい溺愛しておりまして、牧男の言うことなら何でも聞くんですよ。僕とは違って」
「そうなんですか。牧男さんとはあまりお話しできませんでしたけど、素直な坊ちゃんですね。思ったことをそのままおっしゃるような」
「すみません。みなが甘やかすもので、つい我が強くなってしまって」
「いいえ、正直で好感が持てますよ」
「そうですか。それは嬉しいですね。僕も牧男には目がないもので」
「美しい兄弟愛ですね」
「そうでもないですよ。まあ、普通の兄弟ですよ。それこそどこにでもいるような」
そう言って、英寿は照れた表情を見せながら、チルチルの手を取った。
「チルチルさん、踊りましょう」
「え」
英寿はチルチルの肩と腰に手をまわし、ワルツのステップを踏み出しだ。しかし、チルチルにそんなたしなみがあろうはずがない。たちまち英寿の足を踏んでしまった。
「大丈夫ですよ、安心して下さい」
「でも、私、まったく初めてなんですよ」
「こういうのは慣れと度胸ですよ。堂々としていればそれでいいんです」
「でも…」
二人はくるくると広間の中を回転していった。チルチルはついて行くのが必死で、周りを見る状況ではなかったが、みながひそひそとチルチルと英寿のほうをうかがっているのを、なんとなく感じていて、決まりが悪かった。一方の英寿は何と思っているのか、まるで周囲など眼中にない様子だった。時々足を踏まれても何とも言わず、懸命にチルチルをリードしようとしていた。
「もうだめです、ごめんなさい」チルチルが疲れ果てた時、それまで姿を見せなかった金山氏がつかつかと寄ってきて、
「さあ、今日はもうこれでおしまいです」と、チルチルを英寿からもぎ離した。いつの間にか舞子もそばに戻っていて、
「帰るわよ、チルチル。明日も仕事なんだから」とチルチルをいさめていた。
チルチルはまだ目が回っていたが、そのまま金山氏と舞子にすがるようにして外に出て、再びリムジンで我が家に送り届けられるまで、大人しくしていた。まだ酔いが残っているうちに家に着いたチルチルは、舞子と金山氏に別れを告げ、ミチルの眠る我が家で我に返って、急いでドレスを脱ぎ、ネックレスとイヤリングを外すと、化粧も落とさないうちに眠りにおちてしまった。まるで魔法の解けたシンデレラのように、一切が夢のように思われる、普段通りの我が家であることに、チルチルは何の疑問も持たず、気持ちよく眠りに落ちていたのだった。
6.
その後しばらく、英寿からは音沙汰がなかった。どうしたのだろうと思っていたら、ある日チルチル達の家の郵便箱に、1通の封筒が入っていた。
封筒の中身は、2枚の白い事務用便せんに書かれた短い手紙だった。送り主は白銀美枝子となっていた。
「拝啓 チルチル様
先だっての英寿の誕生パーティーにはわざわざお越しいただいて、どうもありがとうございました。英寿が大喜びをいたしましたもので、常にいいお友達になってくださっていることと併せて、この際に深く御礼を申し上げます。
さて、今回このお手紙を認めさせていただきますのは、実は英寿が今度さるご令嬢と婚約する次第になりまして、そのご報告とともに、今後は悠長に遊び歩くわけにもいかず、お店のほうには顔を出せなくなったという事情を理解していただきたいからでございます。せっかくご知り合いになれましたことを喜んでおりましたが、残念ながらそうしたわけで、これ以上ご懇意にしていただく機会もなくなったという次第でございます。あえて申せば、もともと属する世界が違うのですもの、いたしかたございませんでしょうね。そこのところだけ、どうかご理解くださって、心の中で英寿の幸福を願ってくださることを願っております。なお、英寿の結婚が成功した暁には、また金山を通じてご報告をさせていただきたく思いますので、吉報をお待ちください。
どうかチルチル様もお元気でいらして、英寿のごとく幸せになっていただきたいと愚考する次第でございます。
乱文乱筆ご容赦ください。
敬具 白銀美枝子 」
この非礼な手紙を読んだチルチルは、二重の意味で愚弄された気がした。まず、おまえは庶民だから関わってくれるなという差別。腹立たしい貴族主義である。なぜ同じ人間がそのような差別思想を抱くことができるのか、チルチルには分からない。しかし、このような考えの持ち主であるということは前々から分かっていた。まだ何とか容赦できる。しかし、何としてもチルチルに許し難かったのは、まるでチルチルが英寿を唆して、無理矢理に付き合わせていたとでもいうような言い方である。まず、チルチルは英寿に対して何も特別な感情は抱いていなかった。むしろ、英寿の側から勝手に惚れ込んできたことに戸惑いを感じ、困っていたのだ。それが一方的にこんな逆の言われようをして、まるで手切れ金を渡された愛人のようではないか。チルチルは激怒した。
早速、返事を認めた。
「前略 私には毛頭あなた方の差別的で貧困な思想が理解出来ませんが、これだけは言っておきます。私はあなた方の英寿さんに何かしようなどとは、1度たりとも思ったことがありません。むしろ英寿さんのほうがあまりに頻繁にお店に顔を出されるので、困っていたところです。これきりあなた方との関係は一切持ちません。どうかお幸せに、お金に頼ってお過ごしくださいませ。庶民などという言葉は死語ですからね。乱用はお慎みなさったほうが身のためですよ。草々 チルチル」
これは文字通りの絶縁状だった。結果的には相手の思うつぼな行動であることが癪に障るが、とにもかくにもつぶされたプライドを立て直す必要があった。
ただ、あの団子鼻の好青年の顔を思い浮かべると気の毒な気はしたが、背に腹は代えられなかった。
その翌日だった。なんと久しぶりに英寿本人が姿を見せたのであった。
「すみません、チルチルさん。ご無沙汰してしまって。この間来ていただいたお礼もしていなかったのに。でも、訳があるんですよ。今度僕の准教授への昇進がかかっている学会発表があって、その準備に忙殺されていたんです。それでお礼を直接申し上げる場を設けることができませんでした。その節はどうもありがとうございました」
そう言って頭を深々と下げる英寿には、まったく差別的な態度など見られなかったし、まして婚約したなどという浮わついた話は微塵も伺わせなかった
しかし、チルチルは言った。
「その点は、お母さまからお手紙をいただいたので、大丈夫です。こちらこそ珍しい機会をいただけて、非常にいい社会勉強になりました。ですが、ご婚約されたというのに、のんびりこんな辺鄙な場所でコーヒーを啜っているわけにもいかないでしょう」
「ああ、その話ですか?母が何を書いたかは知りませんが、多分またいつもの独善的な行動だったのでしょう。失礼をいたしましたならば、改めてお詫びを申し上げます。とにかく、その話はあることはあるのですが、母が勝手に進めているもので、僕の意志に沿った事柄ではありません。僕は結婚は自分の決めた相手でなければしないと決めているのです。ですから、その話はまとまりせん。お気になさらないでください。それより、僕がこの次准教授に昇進したら、是非お話したいことがあるので、一緒にお食事でもしながら、聞いていただけませんか?」
「まあ、こちらは構いませんが、お母さまが怒られるのでは?」
「何、家を継ぐのは僕です。僕が言い張れば負けはしません。大丈夫ですよ」
「はあ」
そのまま、その日の英寿は店の者全員に丁寧に挨拶をしながら引き取っていった。
それから1カ月のち、ついに金山商人が息せき切ってやってきた。
「英寿坊ちゃまが見事昇進されたので、お話があるそうでございます。坊ちゃまはああいう方だから何をおっしゃるかは分かりませんが、まともにお聞きになってはいけませんよ。そんなことになったら、白銀家末代までの恥ですからな」
「何ですか。皮肉屋の商人さん」
「あっ。その呼びかた、誰から教わったんです。私に対する蔭口で私が一番きらいな表現だ。あっ、まったく」
「いいでしょう、別に。あだ名なんて親しみを持った人間にしか言いませんよ」
「あなたに親しみを持たれる筋合いが理解出来ません」
「そうでしょうね。私もよ。でも、あなた、どこかで会った気がするのよね」
「左様でしょうか。他人の空似と言いますからね」
「うーん。でも、あなたはもちろん白銀家の手先よね。直接の主人はご当主様、それとも奥様、それとも英寿さんになるの」
「難しい質問だ。もちろん、最高責任者は正則様だが、実際を取り仕切っているのは美枝子様で、そして坊ちゃまはみんなに愛されている方なんです。私としては、もちろんご両親の言いつけに背くことはできませんが、可能な範囲で坊ちゃまのご希望をかなえてさしあげたいと思っているのです。ですから、この間の件も私が動いたのです。でも、あなた、心配だったけど、やっぱり大失敗でしたね。初めての対面で素面でなかったなどと、普通の女の子にしても恥ずかしい状況でしょうに」
「ああ、それはもう言わないで。それを言われたら、私にはもう何も残らないから」
「ですから、もう何もおっしゃらなければいいんです。そうしたら、就職のチャンスなどの便宜も図らせていただきますし、直接経済的な支えを当方で引き受けてもようございますよ。とにかく、坊ちゃまとは会わない。たとえ会っても、おっしゃることに耳を傾けないということをお約束してださい」
「それは…」
チルチルが一言いいかけるや否や、カランカランとドアが開いて、新しい客が入ってきた。それは1か月ぶりの白銀英寿だった。
今日の英寿は白いスーツ姿で、腕には深紅のバラの花束を抱えていた。
「金山、そこまでだ。チルチルさんと話すのはこの僕だけでいい。そしてチルチルさん、僕が言うことをよく聞いてほしいんですが。その前に場所を変えましょう」
「ええ、いいですよ」チルチルはいくらかぶっきらぼうに答えた。
「じゃあ、今日は僕が運転します」
「運転できるんですか?」
「馬鹿にしないでくださいよ。これでも30の男なんですから」英寿は苦笑を洩らした。
「ごめんなさい」
「別にかまいませんけどね」
英寿の運転する紺色のベンツに乗って、二人はレインボーブリッジを抜けて、素晴らしい夜景を眺められるビルにたどりつき、その最上階のレストランでフレンチを食べた。チルチルには全く味がしなかった。それだけ緊張していたのだろう。若い男性と夜二人きりになるという経験は初めてだった。
屋上で夜風にあおられながら、隣りに立っていた英寿は、そっとチルチルの肩に腕を回した。チルチルは何も言わなかった。
ふと、体の向きを変えて、顔と顔とが向かい合わせになるような体勢になったとき、英寿が耳元でこそっとつぶやいた。
「えっ、嘘でしょう?」チルチルは飛び上がるように驚いた。
「本当です。僕と結婚してください」
「何言ってるの、あなたは財閥の御曹司でまったく違う世界の人なのよ。私は所詮庶民ですからね。とても無理ですよ」
「いえ、勘違いなさらないでほしいんです。僕はあなたが庶民の出身だからこそ、因循姑息な我が家を変えてくれる、いい転機をもたらしてくれる、と期待しているんです」
「それでは英寿さんは、私が貧乏だから結婚しようって言うのね。冗談じゃないわ。そんな差別発言聞いたことないわ。そんな傲慢な貴族主義者なんかとは、死んでも結婚なんかしないから」
「そうなんですか?嘘でしょう?言い方が悪いかもしれませんが、こんなにいい条件の男は滅多にいないと思いますけれどね」
「それはあなたの高慢です。私にだってプライドがありますからね、そういう言い方をされるとますますあなたが嫌いになります。もう帰ってください」
英寿は熱風を浴びた壱輪ざしの花のように、しおたれた。
「こんなに遠くまで付き合ってくださってありがとうございました」
英寿はやっとのことで、儀礼を思い出して言った。
「いいえ、こちらこそご馳走していただいて。とてもおいしかったし、きれいな夜景が観られて良かったですよ」
「ええ、ありがとう」
帰りの車は会話も盛り上がらない、重苦しいだんまりの時間だった。ようやくチルチルのアパートまで帰りついて、英寿が黙礼するや否や、チルチルは走って自分の家の前まで駆け上がった。
そこにはミチルが待ち受けていた。
「お姉ちゃん、遅いよ」
ミチルはひどく怒っていた。
「一体、今までどこで何をしてたの?ブルーバードに連絡しても、早退したとしか教えてくれないんだもの、心配するじゃない」
「ごめんなさい。実はこの前話したお金持ちの御曹司と食事をしていたの」
「本当にそうなの?」
「ええ」
「お姉ちゃん、結構やるねえ。どんな話をしたの?」少し色を改めたミチルは、早速勢い込んで訊いた。
「うーん。それはちょっとね」
「何かあったんだ」
「まあね。でも、大したことじゃないのよ」
「それなら話してくれたっていいでしょう。最近のお姉ちゃんは秘密が多くて感じが悪いよ」
「そうか。なら話すわね。でも、驚かないでよ」
「大丈夫、私の場合、大抵のことは想像の範疇にあるから」
「そう。ならいいわね。実はプロポーズされたの」
「やっぱりね。そんな事だろうと思っていたわ。で、お相手はもちろん、その御曹司なんでしょう?」
「そうよ。そのまさかのお坊ちゃんよ」
「それで、お姉ちゃんは何と答えたの?」
「バカにしてると思って、即座に断ったわ」
「ええ、そうなの?そちらのほうがよっぽどびっくりするけどなあ。もったいないというか、もう少し考えてみてもよかったんじゃないの?」
「でも、人のことを貧乏だと思って見下してるのが見え見えなんですもの。それに、世界が違いすぎて、とても一生を共に暮らすなんて耐えられそうになかったから。わざわざむこうの両親の反対を押し切ってまですることではないと思ったのよ」
「やっぱりそうなんだ。相手方の親族は反対なのね」
「ええ、そのようよ」
「そうなのか。ふうん。私はお姉ちゃんが決めたことに何も口は差し挟まないけれど、後悔だけはしないでね。一生なんて短いものなんだから」
「分かってるわ。でも、今回のことで後悔することはないと思う。自信があるのよ、私」
その頃、一方の白銀英寿は、完全に意気消沈していた。気の良いお坊ちゃんである彼の善意の申し出が、あっけなく否定されようとはまったく予想外だったのだ。
彼はその煩悶を金山氏にぶつけてみた。
「下々の思うことなど、気になさる必要はないのですよ。これで何の気兼ねもなく、H家のお嬢様とお付き合いできるというものです。かえってようございました」
でも、と英寿はまた傷口がジュクジュクと膿んでいることを感じながら思っていた。プライドが傷つけられたというより、なぜこのようなことが起こりうるのかということ自体が理解できなくて戸惑っているというのが、事態を説明するにはよりふさわしかった。
僕はあの子に怒っていない。ただ、あの子に誤解されているのが辛いのだ。僕は全然威張っているわけではない。本当のことを言っているだけなのに、彼女は傷つき、そして怒ってしまった。どうやら僕は、彼女のプライドのゴールーラインを割ってしまったらしい。
僕はどうしたらいいのだろう。彼女のことを諦めるほうが彼女のためなのか。いや、僕はそんな聖人君子じゃない。僕はもっとあの子に近づきたい。でも、あの子は僕のことを異性として意識してくれない。それどころか友達とさえみてくれていない。
ならどうしようか。英寿は一人で袋小路にたどりつき、にっちもさっちもいかずに懊悩するしかなかった。
7.
思い余った英寿はひそかに家を出た。たった一人でただ1枚のクレジットカードを持って、彼は彼のすべてを保証してくれていた安全な砦を後にした。
英寿は思い切って、チルチル達の住むアパートの一室を借りた。チルチルと出会える機会を少しでも増やそうと思ったのだ。その結果がどうなろうとも、英寿は何もしないで手をこまねいていることはできなかった。チルチルの日常に少しでも近づいて、距離を埋められるようにと心から願っていた。
気の逸る英寿は早速表に出てチルチル達の部屋をのぞきに行った。そのときはミチルが夕飯を作っていた。ミチルは外に人影を感じて、窓から下を覗き込んだ。そして、そこに英寿の姿を見た。勘のよいミチルは、すぐにそれが白銀英寿であることを見てとった。
「お兄さん、どうしてこんなところにいるの?」ミチルは窓辺から身を乗り出すようにして質問した。
「いや、ちょっと散歩をしていてね。なんて言っても、信じないか」英寿は頭をかきながら答えた。「でも、怪しい者でないことだけは信じてほしいな」
「分かってるよ。お兄さん、お姉ちゃんのファンでしょう。すごいお金持ちなんだってね」
「僕のこと、君は知っているんだね。誰から聞いた?」
「もちろん、チルチル姉ちゃんから」
「そうなんだ。君がミチルちゃんなんだね。よろしく頼むけど、僕に関しての情報で、大切な訂正がある。僕は今日すべてを捨ててきたんだ。だから、もう金持ちでも何でもないよ。しいて言えば、ただの駆け出しの研究者にすぎない」
「それでもすごいじゃない。立派だわ」
「いや、そんなことないよ。一人では何もできないんだ」
「でも、それが嫌で出てきたんでしょう?」
「うーん。そうも言えるか。とにかく僕は、チルチルさんのできるだけ近くにいたかったんだ。もう夢中で家を飛び出してきたんだよ」
「そうなんだ。お姉ちゃんも見込まれたものね。お兄さんはお姉さんのどの辺が気に入ったの?」
「チルチルさんは強い人だ。あれだけの若さで君を養っている。そして、とっても前向きだ。そういう生き方があの耀くような美しさに現われ出ている。つまり、僕とは正反対の人だと思うんだよ。僕はハンサムでも何でもないし、一人では何もできなくて、いつも飛行機だけに夢中だった。その他のことには一切興味も持てなかった。弟の牧男を除いて、僕がこの世の中で興味を持った初めての人がチルチルさんだったんだ」
「それは逆にすごい話ね。あなたはとても変わっているのね。でもね、悪いけど、お姉ちゃんはまったく普通の人よ。全然特別じゃないよ。普通の女の子らしい女の子だと思う」
「じゃあ、僕がおかしいのかな。彼女はキラキラ輝いているし、特別な人だと思う」
「それが恋なんだろうな。私には全然分からないけれど。でも、気の毒だけど、お姉ちゃんはあなたのこと、何とも思っていないわよ」
「分かってるよ。この前、直接そう言われた」
「お姉ちゃんもはっきりした人だからね。でも、理由は簡単よ。あなたはあまり美男子じゃないし、大きなものを抱え込みすぎている。家のこともそうだし、お姉ちゃんに対する気持ちもそうだし」
「僕にはその辺がよく分からないんだ」
「要するに、あなたは重すぎるのよ、いろんな意味で。お姉ちゃんみたいな年頃の人には、もっと軽い恋愛がお手頃なのよ」
「でも、僕はチルチルさんと結婚したいんだ」
「お姉ちゃんは一人で家を背負っているとはいえ、まだたったの17歳よ。やりたいことだってあるだろうし、まだ一人の人に縛られて、家の中に閉じ込められてしまうのが耐えられる年齢じゃないの。もっと遊びたいし、楽しみたいのよ。普段は生活のことで手いっぱいなのだから、他の部分では余計に自由にしていたいんだと思うわ。つまり、もっと普通の恋愛を望んでいるのよ」
「僕が家を捨てる決心をつければいいのだろうか?」
「そんなことできるわけがないでしょう。家の人が黙っていないに違いないもの」
「いや、いざとなれば弟の牧男が家を継いでくれるかもしれない。そしたら、僕は大学教員として独り立ちすればいい。チルチルさんと普通の家庭を築けるはずだ。少し貧乏が辛いかもしれないけれど」
「とにかく、あまり望みはないんだから、ただでさえ疲れているお姉ちゃんに、あまりまとわりつかないで。近くに住むのは構わないけど、ちょっとは遠慮してよ」
「分かってるよ。一日に一度しか来ないよ」
「いやだ。毎日来るつもりなのか。困ったね」
「それがどうして悪いんだい。こんなに近くにいるんだもの、当然だろう」
「だめね。辛抱することも大事なのよ。誠意が通じるまでは、ぐっと我慢するの」
「大丈夫。僕の真心に嘘はないから、絶対いつか通じると信じている」
「宗教じゃないし、科学でもないから、難しいことなのよ、人の心の問題は」
「残念ながら僕は科学者だから、理屈にあってさえいればいいのだと思ってしまうね」
「お姉ちゃんの心をつかむには、まだまだ辛抱が必要そうね」
「分かった。でも、君は僕のことを応援してくれるね?」
「やだ、そんなこと保証できないわ。まだあなたがどんな人だかわからないし」
「すぐに分かるよ。こんなに近くにいるんだもの。僕はハンサムではないが、真面目な男だよ。そして、チルチルさんを何よりも大切に思っている」
「はいはい。分かりました。でもね、今は夕食の準備で忙しいから、また今度にしてください」
「冷たいなあ。味方してくれたら、いくらでもお礼するのに」
「結構です。そういうところは嫌味っぽいわね。そういうところがいけないんだと自覚して、一人で頑張ってみて。そうしたら、応援してあげてもいいかもしれない」
「そうなの?」
冷たいミチルの応対にがっかりして、英寿は自室のある4階に戻った。
英寿は深夜にならないと帰ってこないというチルチルを待ち伏せることはなく、まずは新しい独り暮らしとその環境に慣れようと、狭い家にこもってみることにした。最初はチルチルの帰りが待たれて気が気ではなかったが、次第にこの自分を取り巻く新しい環境が気になりだし、すぐに拒否反応が出始めた。
狭い、狭すぎる。息ができない。そして、汚い。建物も古いし、手入れが全然行き届いていない。もちろん、目を喜ばせてくれる物など何一つない。仕方ないので窓を開けたら、すぐ真下の道路の喧騒がうるさく、そして埃っぽい風が吹きこんできて、思わずむせてしまった。
「どうしてこんなことに」
英寿は独りで頭を抱えていた。もともと外出や旅行が苦手で、枕が変わると寝られないという神経質なところもある英寿だったから、こんなところで眠れるはずはなかった。
だが、コッソリと家を抜け出てきたのだ。今さら余所では眠れないから家に帰る、などと言えたものではない。それに、チルチルの気持ちを溶きほぐすのが最優先課題だ。そのためにわざわざ家出をしてきたのだから。今帰ったら、何にもならない。むしろ、こうした劣悪な環境の中でも一人でも生きていけるだけの適応力があることを証明してみせれば、チルチルの気持に変化が現れるかもしれない。
そんな希望を持って、英寿はチルチルが返ってくるのを待ちうけていた。
12時の鐘が鳴った。チルチルがスプリング・コートを羽織って、足早にアパートの入口に入ってくるところを英寿は捕まえた。
「チルチルさん、僕ですよ。白銀です。お疲れですか?」英寿が緊張に震える声で挨拶すると、チルチルはすっかり驚いて言った。
「どうしてこんな時間にここにいるの?」
「実は今日、ここに引っ越してきたので、ご近所のよしみで仲良くしてもらおうと、ご挨拶のためにお待ちしていたんですよ」
「え、このボロアパートにあなたが?無理よ、無理。冗談はよしてください」
「でも、僕はもう決めたんです。たまに遊びに来るから、よろしくお願いしますよ」
「私は忙しいから無理です。あなたが勝手に押しかけてきたのだから、自分で乗り切ってくださいな」
「僕はあなたの近くにいたくて来たんですよ。そんなに素っ気ないことを言わなくてもいいじゃないですか」
「私はあなたに危ないところを助けてもらったのは感謝しているけれど、住む世界が違う人間だと思っているから、信用できないんです。どうせすぐに逃げ出すに決まっています」
「そんなことありませんよ。僕は諦めませんから」
「どうぞご勝手に。倒れたりしても助けないから」
「つれないですね。僕のこと、そんなに嫌いですか?」
「好きとか嫌いじゃなくて、ただ立場が違うの。それだけよ」
「それじゃあ、僕がここでの生活に慣れたら、僕を見直してもらえますか?」
「まあ、そりゃあそうかもしれないけれど。でも、それと好きになれるかどうかは別の問題ですよ」
「それでもいいです。僕はあなたを見かえしたい。それだけです」
「まあ、前向きに頑張ってくださいな。未来の財閥の責任者さん」
「いや、それは弟に任せます」
「もったいない。せっかくなのに」
「いや、僕は僕自身の職業が好きだから、その道で食べていきます」
「すごいわね。自分に負けないように」
「あなたにも負けませんよ」
「はいはい」
英寿はちょっと悔しそうに、クルッと踵を返して、階段をトントンと駆け登っていった。彼の住居は403号室で、チルチルとミチルは201号室に住んでいたのだった。
8.
第一日目の夜は、とにかく4畳半の和室にごろ寝をした。ベッドはおろか、布団すら用意していなかった。とても眠れるはずはなかった。冷蔵庫はついていたが、テレビもなく、眠れない夜に気を紛らわすすべもなかった。
仕方なく、英寿は近くのコンビニで弁当と飲み物と雑誌を買い、雑誌を読みながら瞼が重たくなるまで、粘りに粘った。ようやく眠れたのは3時を過ぎてからだった。
翌朝、痛む体の節々をストレッチしながら伸ばすと、早速冷蔵庫に入れておいたコンビニの弁当を食べた。温める電子レンジもなかったので、冷や飯だったが、腹の空いた英寿にはそれでもまずまずに思えた。
「ぼくも堕ちたものだな」英寿は苦笑いしながら、おにぎりを頬張った。
10時になるまで待って、英寿は家具や家電製品を買うために街に出た。そこで、英寿は大手のチェーンの家電製品店で、電子レンジと炊飯器と掃除機と薄型テレビとランドリーとノートパソコンとAV機器を、家具屋で洋服ダンスと茶ダンスとベッドとテーブルと椅子2個を買った。後はホームセンターと綜合スーパーで細々としたもの、食器とかゴミ箱とか下着とか、考え付く限りのものを買いつけた。
こんなに大量に買い込んで、あの狭い部屋で何をするべきかわからなかったが、独り立ちを始めるための投資として自分には必要である、と考えたのだった。
こうして英寿の貧乏暮らしが本格的にスタートしたのだった。毎朝、目覚まし時計で目覚めると、時々冷水になってしまう調子の悪いシャワーを浴び、シリアルを食べながらゆっくり朝のニュースに耳を傾けてのんびり過ごしたが、昼から夜半にかけては、学校で授業と研究があるので、10時くらいにスーツに着替えて学校へ赴き、心血を注いで仕事に励んだ。昼休みにブルーバードを訪れるほかは、楽しみのない単調な生活だった。帰りは夜半に及ぶこともまれではなかったが、そんなときの食事はファミレスで済ませるか、コンビニ弁当でごまかすかのどちらかだった。今まででは考えられないほどのみじめな食生活だったが、こんな思いもいつかチルチルに届くと信じて耐えているのである。我慢して乗り切らなければ、これまでの苦労がすべて水の泡となると思い、覚悟を決めていた。
そんな辛抱続きの生活の中にも、わずかな希望の光はあった。たまに早く帰って201号室のベルを鳴らすと、ミチルかチルチルが顔を見せるのだった。そして、時にはミチルが手料理を分けてくれたり、チルチルが話し相手になったりしてくれる日もないではなかった。一緒にテレビを眺めながら、姉妹とともに一時を過すことさえあった。そうした時間は、みじめな日常に差し込む一条の光だった。これがあるからこそなんとか耐えていけるのだった。
こうして枕が変われば眠れないはずのお坊ちゃんが、苦労しながらも、庶民の生活スタイルになじみ始めたのである。
こうした全てのことに、英寿は真剣に取り組んでいた。チルチル達には金持ちのボンボンの気まぐれ、一時的なままごと遊びとしか受け止めてもらえないかもしれなかったが、英寿にとっては乾坤一擲の大勝負だった。もちろん、たとえ一時であるにせよ、こんな貧乏な暮らしに耐えなくてはならないということは、繊細な英寿にとっては大いなる試練だった。だが、負けるわけにはいかなかった。英寿はたとえこれが永遠に続くとしても、自分から投げ出すつもりはなかった。
ただ一方で、チルチル達がこういう暮らしを当然と思って過しているのだと思うと、英寿は何だか泣けてくる自分を押し留めることはできなかった。可哀想な身寄りのない姉妹だ。救いの手を差し伸べることが悪事なのだろうか?英寿にはそうは思えなかった。自分が耐えられるにせよ、耐えられないにせよ、チルチル達を助けたいと思う心に変わりはなかった。
しかし、彼女たちはきっと拒否するだろう。彼女たちはプライドが高い。人から施しを受けることをよしとしないだろう。でも、施しのつもりはない。ただ、必要のない苦労をかけさせたくないだけである。チルチルが僕を少しでも愛してくれたら…。そうすれば素直に僕の気持を受け取ってくれるだろうに。貧乏でも幸せ、という暮らしが成り立つとは、英寿にはこの暮らしの以前も以後も思えなかったのである。いや、実体験をしてみて、ますますその考えは強まったともいえる。
こうした貧乏アパート暮らしに入って1カ月が経過しようとした頃のある日だった。英寿が学校から帰ってくると、アパートの前に見慣れない外車が止まっているのが目に入った。何事だろうと階段を上っていくと、英寿の部屋の前に白いドレスを着た、一人の見目麗しい若い女性が立っていた。
「白銀英寿さんですね」その女性は鈴の鳴るような美しい声で尋ねてきた。
「そうですけど」
「私、広小路琴子と申します。お母さまのご紹介で、今度英寿さんとお付き合いさせていただくことになりましたの。お母さまがおっしゃるには、英寿さんは今社会勉強のために独りでお暮しになっているとのことでしたので、僭越ながら、こちらに寄らせていただきましたの。どうか私にも何かできることをさせてください」
英寿は驚いた。ついに母の魔手が伸びてきたのを実感した。
「いや、失礼ですが、僕は家を捨てた身、独りで好きにやっていますので、ほっておいてください。あなたとお付き合いするつもりはありません。他に好きな人がいますので。あなたも早く他の方を見つけてください」
「いいえ、私はあなたをお慕いしているのですわ。あなたのお写真を見せていただいて、この方ならと思いましたが、今はご本人と実際にお会いして、ますますその思いを強くいたしました。英寿さんは素敵な方ですわ。私は諦めませんよ」
「どこがですか。僕は太っていて美男子ではないし、飛行機以外に趣味も何もないのです。おまけに家とは絶縁状態だし」
「おうちの方は誰も絶縁などとは思ってらっしゃらないわ。早く飽きて戻っていらっしゃることを願っていられるだけですわ。あなたは白銀家の5代目にふさわしい方なのですよ。どうかご自覚なさって、こんな所から早く出て行きましょう」
「先ほども言いましたが、僕は真面目な気持ちでここで暮らしているんです。ですから、家に戻るつもりはありません。お引き取りください」
「仕方がありません。今日はお引き取りいたしますわ。でも、私はあなたのことを諦めませんから」
そう言って令嬢はおもむろに去っていった。高級外車がアパートの前から消えた時、英寿はやれやれと思い、部屋に引き上げた。
すると驚いたことに、部屋の中には金山商人が勝手に上がりこんでおり、椅子に腰かけて英寿の帰りを待っていたのだった。
「どうした金山。勝手に入って来るなんて失礼じゃないか」
「坊ちゃまがあまりにも強情でいらっしゃるので、さすがの私も業を煮やしたのでございます。いい加減に気まぐれはおやめになって、家に戻っていらしてください。牧男様がお待ちかねでございますよ」
「牧男は可愛そうかもしれないが、僕は単なる気まぐれや座興のつもりでここに粘っているわけではないんだ。僕にとっては大きな賭けなんだ。僕はチルチルさん以外の女性とつきあうつもりはない。あんな女性を連れてきたって、僕の心は一ミリだって動きはしない」
「琴子様は本当に素敵なお嬢様ですよ。お美しく、教養もおありで、ご家系は申し分のない名家であらせられます。何がご不満ですか」
「僕は温室育ちの花には興味はないんだ。チルチルさんのような野生の草花の魂にこそ、僕は美しさを見いだす。金山は僕の気持ちだけを考えてくれればいいんだ。だから、あの女性このことは適当に断っておいてくれ」
「誤解されますな。あの方はただの温室育ちのお嬢様ではありませんよ。お父様の会社があわや倒産という危機をしっかりお支えになった才媛でいらっしゃいます。ハーバードでMBAの資格もお取りになったんですよ。坊ちゃまよりも経営的才能はお持ちなくらいです」
「ますます嫌だね。僕の妻となる人は、普通の女性がいい。温かい家庭が理想なんだ」
「そうは言っても、坊ちゃま。このままでいらっしゃることはできませんよ。今頃あの貧乏な女性は、ますます大変な目に会っているはずですよ」
「それはどういうことだ」
「さあ。ブルーバードの命運ももう尽き果てているということでしょうな」
「おい、お前、一体何を仕組んだんだ」
「さあ、私は詳しい話は一切聞いておりませんが」
「何だと」
英寿は取るものも取りあえず、ブルーバードに飛んでいった。ブルーバードには客が一人もいなかった。
英寿は唯一人ぽつねんとカウンターに立っていた常澄君に尋ねた。
「一体どうしたんですか?」
「どうもこうも、すぐ目の前に白銀商会肝いりの格安極上の喫茶店ができた上に、客を買収しようとする商売人たちが店の前にたむろしているんで、お客さんが入ってこられないんです。その上、仕入元のコーヒー農園が取引を停止すると言ってきたんです」
「どうして?」
「すべてあなたのお母さんの差し金のようですよ。さすがのマスターも有効な対策を打てずにいます」
「そんな…。チルチルさん、チルチルさんはどうしているんですか?」
「従業員を休ませるほかはなくなったので、僕を除いてみんな自宅で待機してますよ」
「そうなんですか」
英寿はすぐに白銀邸に戻った。一か月ぶりの我が家だったが、今の英寿にはそれどころではなかった。金山氏の乗りつけたリムジンを駆って、30分後にはもう屋敷の正門に乗りつけていた。
「お母さん、お母さん、どこですか?」英寿は必死で母を探した。
母美枝子は弟牧男と居間でコーヒーを飲みながら、談笑していた。
「一体、お母さんは何を考えているんですか。ほとんど犯罪ですよ」英寿は母親の顔を見るなり、吐き捨てた。
「別に何もしていませんよ。ただあなたの目を覚まさせるために必要な手段を取っているだけです」
「お母さんは僕の選んだ相手を否定するのですか?」
「英寿、あなたは世間を知らなすぎるから、目がくらんでいるのですよ。あんなのは大した器量の女ではありません。どこにでもいるような女です。それよりも琴子さんはどうです。素晴らしい女性でしょう」
「僕には分かりませんが、心を許せるような人ではないようです。僕はまったく興味を覚えませんでした」
「ですが、あなたは母の願いを無にするのですか?」
「それとこれでは話が違います。あくまでも結婚は自分の意思でするつもりです。それがだめなら、僕は一生結婚しません」
「ならば、あの子は破滅しますよ」
「お母さん、どうしてチルチルにそんなに厳しいのです」
「ああいう女は同情を引いて男を陥れようとするのです。世の害悪です」
「それはひどい。チルチルさんを苦しめるようなことはやめてください」
「ならば、あなたはすぐに家に戻ってきなさい。そして、琴子さんとお付き合いなさい」
「その女性とのことはどうあっても認めません。ですが、家には帰るので、ブルーバードを無理矢理に破綻させるのだけはやめてください」
「いいでしょう。では、英寿、あなたはこのまま家にとどまるのです。家を出るときは金山をつれていきなさい。そして、しばらくは仕事以外の外出は認めません」
「仕方がない。そうします」
「分かったならいいのです」
そのまま、英寿は3日間、白銀家を一歩も出ることを許されなかった。チルチルに知らせを出すこともかなわなかった。英寿は、四面楚歌の状況にあった。金山氏がしっかり見張っていたからである。
9.
三日を過ぎると、英寿に対する監視の目はやや緩められた。もちろん、ブルーバードに行けるはずはなかったし、チルチルに会えるはずもなかったが、英寿はひそかにチルチルへのメッセージを託す余裕があった。
実は牧男が手配してくれたのだった。ガードの薄い牧男が直接チルチルをブルーバードまで訪ねてくれ、英寿が謝っていることと、今の危機的状況を回避するために、どんな手段も辞さない覚悟があることを伝えたのだった。
チルチルはもちろん、英寿および白銀家の人々全体に非常に腹を立てていた。そして、自分のために恩人であるマスターやブルーバードの仲間、常連たちに多大なる迷惑をかけていることを思うと、いても立ってもいられなかった。こうなったら英寿に直談判しようと思っていたところに、牧男から事情を聞かされたのだった。
結局、英寿がチルチルのために我を折って、家に帰る決心をつけたので、美枝子からの嫌がらせはすぐになくなるということも聞いたチルチルは、むしろ英寿に対する感謝の念すら覚えたのだった。あれだけ我慢に我慢を重ねて耐えてきた貧乏暮らしが、こんなんことであっけなく終わってしまうのは、英寿の本意には全く背いているに違いない。だが、チルチルは思った。やっぱりこれでよかったのだと。私とあの人とは運命の糸が繋がっていなかったのだ。そう思えば、むしろ自然な幕の引き方だったのではないかとすら思った。
そのほうが皆丸く収まるだろう。ただ、そういう理屈っぽい思考の中にもわずかに寂しい気持ちが紛れ込んでいることを、若いチルチルは迂闊にも気づいていなかった。
こうして、ブルーバードは破綻を免れ、英寿とチルチルの関係も一切終わったかに見えた。
ところが、英寿はまだ諦めていなかった。表向きは従順だった。約束を守ってくれた母の求めに応じて、牧男とともに白銀商会を支えていくことを誓いさえした。だが、面従腹背で、英寿は子飼いの若い従僕や牧男を使って、しっかりチルチルの様子を探らせておいたのであった。だから、チルチルとミチルのことで知らないことは、ほとんどなかった。
一方表向きの英寿がひどく大人しかったせいで、母美枝子も次第に安心するようになり、英寿にやがて大学の仕事だけは行ってもよいという許可が下りた。ただし、金山氏を常に身辺に置いておくという留保つきだったが。煩わしかったが、少し自由が出きたので、英寿はほっと一息をついていた。
そんな平穏なある日のことだった。牧男が息せききって、英寿の部屋に飛んできた。
「ミチルちゃんが怪しい男たちにさらわれた。行先はまだ分かっていない。ただ、身代金を1億円用意するようにという脅迫文がブルーバードに送りつけられてきた。慌ててチルチルさんが家に帰ったが、ミチルちゃんはやはりまだ帰っていないそうだ。兄さん、どうする?」
「僕はもう謹慎を解かれている。大丈夫だ。それより、犯人たちは何を狙っているんだ?」
「復讐がどうのこうのとか書いてあったよ。脅迫文にはさあ」
「それでほぼ分かったぞ、その誘拐犯の正体が。僕とチルチルさんへの意趣返しだ。この前奴が無理矢理にチルチルさんを襲おうとした時、僕が少し痛い思いをさせてやったんだが、あのときのチンピラの仕業に相違ないと僕は思う」
「そうだね。僕もそう思う」
「ここは僕が1億を用意して、助けにいくつもりだ」
「兄さん、僕も行くよ。兄さんだけでは危険だもの」
「お前はかえって足手まといだ」
「僕はいつだって兄さんのために頑張りたいんだ」
「それなら、ミチルちゃんを頼む。僕は相手が何人いるか知らないが、ミチルちゃんまで目が届かないかもしれないから」
「うん、分かった。ありがとう兄さん」
それから二人は1億円をキャッシュで用意した後、ブルーバードに向かった。
マスターの井出沢がすぐに入口の前にでてきて言った。
「今、犯人グループから、今日の夜の10時までに1億円を入れたバッグを持って、チルチルと英寿君が晴海埠頭の倉庫まで来るようにという通告を受けたよ。警察には絶対連絡するなと言っていたが、あんたは大丈夫なのかい」
「大丈夫かどうかは別にして、今回のこの騒動はもともと僕への復讐のためなのだし、大事なミチルちゃんに何かがあっては大変だ。僕は命をかけて彼女を救ってみせる」
「すごい度胸だな」
「僕の偽らざる本心だ。たとえ僕がチルチルさんと結ばれないとしても、僕の心の中にはいつだってあの姉妹の姿が焼き付いている。これは僕自身のための行動なんだ。だから、誰にも止められない」
「よし分かった。だが、気はつけろよ。敵が何人で、どんな武器を持っているのか分からないのだからな」
「まさか殺しはしないと思うから、そこは安心している。でも、いずれにせよ、多勢に無勢であることは間違いない。ご忠告通り、気をつけるよ」
「ああ」
「じゃ、いくぞ、牧男。チルチルさんを迎えに行く」
「うん」
二人は金山氏の運転するリムジンに乗り込んで、待機しているチルチルの家に向かった。
「坊ちゃまは本当に無茶なことばかりなさる。本当はいけないんですぞ。あれだけ母上に誓われたのだから」
「だが、こんな事件まで見過せと言うのか?それならお前たちはもはや人間じゃあない。鉛の心臓しか持っていない悪魔だよ」
「はいはい。だから、こうして金山と牧男様が協力さしあげているではありませんか」
「うん。それでいいんだ。黙ってついてきて、僕たちの帰りを外で待っているんだ」
「かしこまりました」
チルチルの家に着いた。チルチルは気が動転し、パニック状態になっていた。
「大丈夫ですよ、チルチルさん。僕の命に代えても、ミチルさんを取り戻してみせますから。よく見ていてください。僕の闘う姿を」
そして4人の乗るリムジンは、午後9時ごろ目的の倉庫の前に着いた。英寿がすぐに倉庫の入り口をガラガラと開け、怒鳴った。
「1億円は用意したぞ。白銀英寿もチルチルさんもいる。もういいだろう、金はやるから、ミチルさんを解放しろ!」
英寿が言い終わるや否や、ばらばらと倉庫の奥から覆面をかぶってバットを持った10人くらいの若い男達が現れて、英寿の周りを取り囲んだ。
「まだ金は渡さんぞ。ミチルさんの解放が先だ」
ドスの利いた声で話す英寿は案外に迫力があった。覆面の男達はじりじりと囲みの輪を緩めていく。
「駄目だ、お前たち。これは俺の復讐のためだと言ったろう。カネも大事だが、もっと大事なのはおれの名誉回復だ。そして、この女を手に入れる。せいぜい可愛がってやるつもりだ」
男達の円陣の奥から、腕を縛り上げられたミチルを引っ張る中村健二の姿が現れた。
「どうだ、白銀英寿。今度はそう簡単にはいかないぞ。こいつらも格闘技ぐらいは身につけている連中だ。お前のぼろぼろになる姿を見てみたいものだ。だが、チルチル、おまえが自ら俺に助けを請えば、妹もその男も助けてやっていい。その後どうなるかはもちろんご想像の通りだろうがな、おませなお嬢さんよう」そして、ガハハと豪快に笑った。
しかし、その一瞬の隙を英寿は見逃さなかった。英寿は電光石火の速さで中村に飛びつき、ミチルを逃がしてしまった。
「牧男、チルチル・ミチルと金を頼む。僕がここで防いでいるから、早く車に戻れ」
そう言って英寿は、うおおおおっと叫びながら、男達の体を次々に吹っ飛ばしていった。そして、向かってくる男達の足に向かって蹴りを、顔面にパンチを入れて、バットをよけながら獅子奮迅の働きぶりを示した。幾度かよけきれずにバットで殴られた胸のあたりはろっ骨にひびが入ったようだったが、英寿は苦痛を我慢した。
最後に残ったのが中村だった。英寿は次第にじりじりと詰め寄って、中村を追い詰めた。
「助けてくれ」と泣き喚く中村の顔を英寿は容赦なく1発全力で殴り、続いて鳩尾に強烈なひざ蹴りを入れた。中村はゲホゲホと異物を吐瀉しながらごろごろといつまでも痛がっていた。そして聞こえてきたのは、パトカーのサイレンの音だった。
「騙したな」
「当然の報いだ。しばらくは出てこられないだろうよ」
「くそうっ」
こうしてこの一件は、警察の手による現行犯逮捕ということで幕が下りたのだった。
英寿は痛む胸のあたりを左手で抑えながら、牧男たちの待つ車に戻った。
「よかった、ミチルちゃん、無事で。チルチルさんも安心したでしょう。じゃ、金山、車を出してくれ。まずはチルチルさんたちを家まで送り届けるんだ」
しかし、チルチルが言った。
「まずは病院よ。英寿さんは怪我をしているわ」
「大丈夫ですよ。ろっ骨の一本や二本くらい」
「そんなこと言わないで。さあ、ここに横になって」
チルチルは膝を差し出した。
「とんでもないですよ」
「いいから、いいから」
そう言ってチルチルは英寿の頭を自分の膝の上に置いた。
「さあ、もうゆっくり休んでくださいな」
「まるで天国にいるみたいだなあ」
「何言ってるんですか。痛いでしょうに」
もう誰も口を利こうとしなかった。金山氏の運転する車は滑るように走っていった。
10.
それから1カ月ののち、チルチルは正式にブルーバードを退職して、英寿の待つ白銀家にミチルとともに移り住んだ。
チルチルは英寿の命がけの行為のおかげで、助けられただけでなく、美枝子の心も動かすことができたのだった。
「そこまで英寿が入れ込むのなら、チャンスはあげるわ」という訳だった。そして、チルチルはミチルとともに、花嫁修業を受けるために白銀家に置いてもらうことになったのだった。
それより前に、だが、チルチルは英寿のプロポーズを断ったのではなかったか?という疑問が湧くかもしれない。実は、病院に入院している英寿を毎日見舞ったチルチルの心には、英寿への確かな信頼の気持ちと愛情が芽生えてきたのだった。そして、ほぼ回復し終えた英寿は、ある日病院の屋上で再びチルチルにプロポーズした。今度はチルチルに拒否する理由はなかった。顔を赤らめたチルチルは、コクンと素直に頷いたのであった。
ただし、まだチルチルが若すぎるのと、ミチルの親代わりであることを鑑みて、結婚自体は先の話に設定された。だが、英寿はこれ以上姉妹に苦しい暮らしをさせたくなかったので、姉妹を自宅に引き取ることにしたのだった。これからは家族として暮らそうというのが英寿の思い描いた、結婚に至るまでの理想的な道筋だった。それに対して、姉妹が不服を唱える理由ももうことさらになかった。
こうして、チルチルとミチルは、ひょんな巡りあわせから、裕福な環境に住まう恵まれた身分の人となった。結局、『青い鳥』とはまったく違う道をたどり、『青い鳥』の結末とは異なる、あまりにもできすぎのエンディングを迎えたわけだが、それでも、本当の幸福を(持続的に?それとも絶対的に?)手に入れるのには、今後の努力と運勢がカギとなってくるということになるのだろうか。たとえ、青い鳥が飛び去ってしまった後でも、幸福は実現するかもしれないし、しないかもしれない。それは本物の『青い鳥』の指し示すところとさして変わらないのではないか。だから、「名前だけ」の「青い鳥」でも、やはり一応は「青い鳥」なのだと思っていただければ幸いである。
ただ、一つ言えるのは、物語というものはすべて、このような性質のものであるということだ。ハッピーなエンディングは味気ない現実に接続される一歩手前までで終わるのだ。死んでいた王女をキスで目覚めさせた王子がその後どういう結婚生活を送ったかなどと野暮なことを追求する物語などないだろう。幸せの到達点の一歩手前で終わるのが、物語の常套であり、鉄則であり、美学なのだ。
これぞ予定調和ということなのかもしれない。
予定調和と言えば、私たちのこの物語にもさらにそれらしき後日譚が続いている。実は英寿とチルチルがよろしく語り合っているうちに、あの男嫌いのミチルと女嫌いの牧男がお互いに意識し合っているということが発覚したのである。
一体、どこが良かったんだろうか?
「私は音楽って知らないから、何かお化け屋敷を訪れるような気持ちで、いつも新鮮にあの子のことを考えられるのがいい。不器用で一途なところは似た者同士かな」
「僕は言葉で気持ちを表現するのが苦手だから、彼女の表現力の鋭さと豊かさには本当に驚かされるんだ。一緒に音楽談義でもできるようになったら、どんなに楽しいだろう」
まあ、まだどうなるかはわからないが、これでこの物語もより予定調和的に、完璧なというより幸福な物語の範疇に足を踏み入れ始めたということではないだろうか。
最後に青い鳥はどこへ行ってしまったの?というご質問にお答えしよう。実はチルチルがブルーバードにあの番いのインコを、例の鳥かごに入れて置いていったのである。だから、半分青く、半分白い、その青白い鳥は、今もブルーバードの窓際で、チルチルとミチルの伝説を皆さんに広く触れ回っているのである。そして、その二羽の仲睦まじい様子は、まるでチルチルとミチルのように、あるいはチルチルと英寿のように、見えなくもなかった。半分しか青くないけれど、やっぱり青い鳥だよ、チルチル。そして、特に君にとってはすべての出発点になったのだからね。それが名前と言うことだよ、チルチル。
さあ、チルチルとミチルが共に幸せになれるように、一読者として皆の幸福な気持ちともに、心から願おうじゃありませんか。そして、それぞれの人にとっての青い鳥を皆さん、頑張って探そうじゃありませんか。青い鳥、それは本当に存在するのだと、私は考えます。
ほら、今私の未来の滑走路の上空を、バサバサっと大きな青い鳥が羽ばたいていきます。皆さんには見えませんか?
完
軽い気持ちで書き始めましたが、だんだん苦しくなりました。どうやったらあの名作をうまくモチーフとして使うことができるのかに苦心しました。その成果はどうかご覧になってください。むしろ漫画「花より男子」にも似た、軽いコメディータッチの作品を楽しんでくださることを心から願っています。ご感想をお待ちしております。