水母
夕暮れ時、彼女は突然やってきた。ぼんやりと海を眺めていた僕の不意をつく形で。北国の雪に覆われた大地を想起させるような白い肌。眼前に広がる海のような淡い藍を宿した瞳。風がなびかせた短い黒髪は、陽の光に照らされて輝きを増している。高校生くらいだろうか。さほど歳が変わらないと思われる彼女に見惚れてしまって、目が離せない。彼女は、その端正な顔立ちを他の輩に見せまいと奮闘する髪の毛を片手で諌める。もう片方の手にはスケッチブックがしっかりと握られている。ひらひらと愛嬌を振り撒く黒のロングスカートは彼女の上品さを引き出している。距離はあるが、しっかり見える自分の視力の良さに心の底から感謝した。
目を逸らさない間、どれくらいの時が経っただろう。彼女の仕草をつい追ってしまう。こちらへ歩いてきた彼女と目が合った。その瞬間、僕は我に帰る。ついさっきまでひと時も目を逸らすまいと見つめていたはずなのに、今は赤らめた頬を隠すように、気付かぬ渇望から逃げるように顔を背けた。彼女は何も言わなかった。少しの沈黙の後、僕の右肩に突かれるような感触があった。視線を向けると、彼女がスケッチブックの真新しいページを縦向きにして、こちらに向けていた。左上に小さく何かが書かれている。
『何か御用ですか?』
そう書かれている。まったく目的が不明の筆談だ。さて、どう答えたものか。特に用があったわけではない、ただ見惚れていただけだ。だけど、そんなことを馬鹿正直に口にするわけにもいかない。
「えっと……こんな場所に誰か来ることが珍しかったので、つい」
とてつもなく胡散臭いが、まあ嘘は言っていない。事実、僕がここにいるときに誰かが来たところを見たことがない。この街で生まれ育った人間にとっては海という存在はあまりにも身近で、わざわざ足を運ぶようなものでないからだろう。彼女は納得したような顔を浮かべると、またペンを動かした。デフォルメされた、熱帯魚と思われる魚たちが描かれたボールペンだ。
「海、好きなんですか?」
黙ってばかりいるのも居心地が悪くて、勇気を出して尋ねた。彼女は慌てた様子でページをどんどん前にめくって、すでに書かれてある文字を指差した。
『はい』
『私は中島海月といいます』
おそらく名前だと思われる文字列の上には、なかじまみづき、とふり仮名が振ってあった。僕はしっかりとその名を頭に刻んだ。彼女は一枚、スケッチブックのページをめくった。
『何となく落ち着くんです。私の名前に海という漢字が入っているからかもしれません。パワースポットみたいで、不思議ですよね』
緊張と恥ずかしさを隠すように、彼女はスケッチブックで顔を半分ほど隠してしまった。まるで小動物を見ている気分だ。何と言うか、途轍もない庇護欲に駆られる。少し丸い字が彼女の温和な雰囲気をよく表していた。
「実は僕の名前にも海が入るんですよ。匠に海と書いてたくみ。だからですかね、僕も海は好きなんです。波の音だけが聴こえてくる、落ち着いた空間っていう感じで」
少し親近感だ。誰かとまともな会話をしたのは久しぶりかもしれない。できるならば普通に声を出して話したかったが。しかし筆談をするからには耳が悪いのかもしれない。それにこの静寂は嫌いじゃない。
『私もです。広い世界を独り占めしているみたいで、少し贅沢な気分になります^^』
最後、躊躇った様子で書き足したのは顔文字だったらしい。放課後の疲れた心が癒やされる。少し相槌を打つと、沈黙が訪れた。不思議と居心地の悪さはなかった。確かに彼女の一挙手一投足に心を動かされる。だけど話しかけて迷惑をかけるつもりはない。お互いこの静寂の海が好きなのだから、再会するためにも嫌われるような態度をとる理由がない。
波の音に誘われて目を瞑る。脳裏には学校での出来事が映る。馴染むことができないクラスの環境、休み時間の雑音、喧騒。半日だけある土曜日の授業。新学期は始まったばかりだというのに、こんなにも憂鬱な出来事で溢れている。それでも海は、すべてをどこか遠いところへ連れ去ってくれる。心が凪いでいくのをありありと感じた。ゆっくりと目を開く。刺激の強い光に思わず顔をしかめる。足元にはそこにあった泡沫の存在を示す黒い砂。少し見上げると茜色に染まった青空。高い場所には厚い雲がかかっている。沈んでいく太陽に照らされた水平線は、眩い光を発している。
ふと、左腕に右手を伸ばす。肩から撫でるように触れると、肘を境に空白が生まれる。次に意識を向けるのは右脚だ。左腕とは違い、つま先まできちんと触れることができるが、膝から先は熱を持っていない。巧妙に似せてはあるが、その肌色は金属の塊にすぎない。生まれつきではあるが、触れるたびに他者との違いをヒシヒシと感じた。自分は普通でないのだ、と。誰かが周りにいるときは、なんてことないように振舞っているが、一人になるとそういう訳にもいかない。落胆し、失望し、怒り、恨み、憎しむ。そうやって自分を少しずつ追い込む。そして耐えきれなくなったとき、こうして海に訪れる。最初は消えてしまう為だった。でも波の音を聴いているうちに、だんだんその気は無くなった。どんな名言よりも、どんな励ましの言葉よりも支えて、寄り添ってくれるような気がした。海はいつでもここにある、ただ何も言わずに。それが僕にとって、最大の優しさに思えた。
踵を返す。海月さんの姿を見る。彼女もまた、海に心を囚われた人間なのだろう。他のことなんてまるで眼中に無いようで、食い入るように遥か彼方の海原を見つめている。話しかけるのは無粋だろう。ゆくっりとこの幸福感を噛み締めるようにこの場所を離れた。また、彼女に会えることを願って。
砂浜には足跡が残る。片方は偽物が作ったものだが、なかなか様になっている。そう思えるくらいには僕の心は軽くなっていた。
家に向かって歩いていると、コンビニの前にクラスメイトの姿が見えた。いつも嫌味ばかり言ってくる男だった。見てみぬふりをして、横を通った。背中から冷や汗が垂れるのを感じたが、人通りもあるし見つからないだろうと、たかを括っていた。
「広田!」
彼は意外と目ざとかったようで、僕の苗字を呼んだ。余りの大きさの声に思わず足を止めてしまった。無視して進むことも考えたが、彼の目には足を止めた僕が映っているだろう。無視する方が面倒臭い事態になることが容易に想像できた。気乗りはしないが、彼の正確な位置を確かめてそこに向かって歩く。近くには知らない女の人がいた。日によく焼けた褐色肌に、短く折ったスカート、派手な化粧や小物類。ギャル、という言葉が一番しっくりきた。スマートフォンを片手に持って、そちらばかりを見ていた目を睨みつけるように僕に向ける。ギャルが不満げに呟く。
「誰こいつ」
「同じクラスのやつ。こいつ面白いんだよ」
そう言って僕の左腕を引っ張った。急な衝撃にバランスを崩すが、浮いた右の義足を前に出すことで何とか耐える。それで何かを思い出したのか、彼は不適な笑みを浮かべていた。左腕から手を離すと、右脚に手を伸ばして僕が履いていた長ズボンの裾をめくった。
「そういえばこっちもだったなぁ」
「うわ、やば。手と足ないの?ウケるんだけど」
二人は馬鹿にしたよう顔で僕を見た。その空間がどうにも気持ちが悪い。いや、この表現は適切ではない。気持ちが悪いのは彼らだけではなく、僕もだ。こんな欠陥だらけの僕を、僕自身がどうしようもなく嫌いなんだ。
「もういいか。急ぐから」
そんなくだらない嘘を吐き捨てて、その場を離れた。駆けた脚の衝撃は左右で異なり、その事実にやはり嫌気が差した。それでも現実を置いて行くように、無我夢中で走り続けた。辿り着いたその先できっと何かが変わると、愚昧にもそう信じて。何を変えたいのかはわからない。けれど、変わらないといけないと思う自分もまた存在する。高架下を抜ける。上には高速道路が通っている。あちらこちらに見られる落書きが鬱陶しい。平日なのに交通量がいつもよりも多く感じる。防音措置を取られてはいるが、それでもやはり五月蝿い。学校の前を抜ける。部活動を終えて校門を出てきた生徒たちが、話しながら歩いている。カップルと思われる人たちは手を繋いでいる。充実した青春を送っていそうな彼らの声もまた、五月蝿い。商店街を抜ける。晩御飯の食材や惣菜を買いにきた主婦がたくさんいる。偶然の再会を喜ぶ人たちもいるようだ。八百屋や魚屋の客引きがあちらこちらで聞こえる。商店街も五月蝿い。住宅街を抜ける。外に出ている人は少ないみたいだ。少し安堵して、走る足を緩める。遠くで幼い子どもの声がした。恐らく、少し離れたところにある公園で遊んでいたのだろう。まだ家に帰りたくないと、駄々をこねる声が聞こえてくる。ここもダメだ。五月蝿い。
結局、つい数時間前に眺めていた海に戻ってきていた。人間そう変われないのだと言われているような気がして、腹が立った。だけどその怒りも、波の音が連れ去ってくれた。さっきまで、耳に入る音すべてが騒音で五月蝿くて仕方がなかったはずなのに今は心地の良い波の音に身を委ねている。大きく息を吸って、叫ぶ。
「お前らなんか大っ嫌いだ」
誰に向かって言ったのだろう。嫌味ったらしいアイツ。その隣で笑ってきたギャル。それとも、僕自身だろうか。自分でもわからない。ただ、心のうちを表すにはこの言葉が最も適切なように思えた。
息が荒い。さっきまで走っていたのだから、それも当然だろう。どこかに座りたいところだが、生憎と砂浜に椅子なんてあるわけがない。どうしようか悩んでいる間に、立っているのが辛くなってきた。これ以上悩んではいられないと、ズボンが砂だらけになることを覚悟して腰を下ろした。僕の中にあった激情はすっかり消えていた。だけど僕自身を好きになれたわけではない。他ならぬ僕自身が、僕のことを認めないとこの感情はずっと燻ったまま、燃え盛るタイミングを待ち続けている。
『大丈夫ですか?』
見覚えのある丸い字だった。視線を上にすると海月さんがいた。僕の右側しゃがみ込んでいる。もしかして、さっきの叫び声が聞こえてしまったのだろうか。少し恥ずかしい。
「大丈夫ですよ。少し、疲れていただけですから」
きっとこれは隠さざる本心だ。疲れていたから、普段よりも少し嫌なことを考えていた。疲れていたから、普段よりも少し心無い言葉がに苛立った。疲れていたから、普段よりも少し不安定だった。そうに違いない。だけど、この疲れ……ストレスは日常生活の中で蓄積されたものだ。この気持ちが悪いものを根本から解決するためには、それを減らさなければならない。そうしなければこの憎悪は一生消えずに付き纏ってくる。
「僕、生まれつき片方ずつ手と脚が無いんです。おかしいですよね。普通あるはずじゃないですか。両親に病気や障害があったわけでも無いのに、僕だけこんな不揃いの欠陥品なんですよ」
止めようと思った時には、もう遅かった。こんなことを打ち明けるつもりはなかった。迷惑だってわかっているから。でも、彼女なら大丈夫なのではないかと、受け止めてくれるのではないかという不思議な確信があった。
『私は声が出せません』
「え?」
めくられたページに書かれていたのは、そんな独白だった。思わず言葉に詰まる。海月さんが筆談をする理由は僕の予想とは違っていた。声が出せない、その言葉を聞いて僕の方まで声が出なくなってしまう。海月さんは僕を置いて淡々とペンを動かす。さっきよりも思い詰めたような顔に見えた。
『昔はお喋りも、歌うのも好きで小さな劇団に所属していたりもしました。でも、同じ劇団の子たちが私の声が気持ち悪いと、不快だと言っているのを聞いてしまって声を出すのが怖くなったんです。最初はこんなに重い症状じゃなかったんですけど、だんだん悪化してしまって……。本当に声が出せなくなってしまったんです。病院には通っているんですけど、心の問題みたいで治療の方もとても順調とは言えなくて』
綴られた文字には壮絶な過去が語られていた。前に書かれたいくつかの文字よりも、歪んでいるように見えた。声が出せないというのは、どれほどの苦労が伴うのだろう。誰かとコミュニケーションを取ることも儘ならないはずだ。手話を扱える人間なんて僅かしかいないし、習得にも時間がかかる。こうして筆談をするにも、相手は普段の数十倍もの時間を過ごさなければいけなくなる。そうした苦労の末に孤立することだってあるはずだ。好きなことを封印され、無類の辛さと苦しさを味わったことだろう。羽をもがれたように、空気を奪われたように何もできなくなって、目の前が真っ暗になる。その苦しさを僕は知らない。だって僕は何かを始めるためのスタートラインにすら立てないから。希望を見てから絶望するよりも、最初からできないと絶望する方が簡単だ。その暗い淵にある絶望を僕は知らない。その事実は僕に安堵と幸福感をもたらした。自分が世界で一番不幸な人間じゃないとわかったからだ。我ながら最低な人間だと思った。けれど思考を止められるわけではない。世界の色が少し鮮やかになった気がした。幻覚だろうとも今の僕には良い薬だった。僕よりも優れた容姿できっと僕よりも聡明だろう。そんな人間が僕の知らない苦しみの中で一人悶えて、戦っている。僕は不幸じゃない、少なくとも目の前の彼女よりは。
『ごめんなさい。変なことを言って困らせましたね。とにかく、大丈夫なら良かったです』
海月さんは、はにかんだ笑顔でページを見せて去っていった。海月さんは綺麗だった。先の見えない暗闇の中で懸命に足掻いて、自分にできる最大限の努力をしている。それでもなお、幸が薄い。努力を惜しまず、暗闇の中で光を放つ生きものはいつだって美しく、輝いて見える。海月さんの生き方はまさにそうだった。初対面から気付かぬうちに惹かれたのは、その片鱗を感知したからかもだろう。真っ暗な場所を漂うだけの僕とは違うんだ。
「また、逢えるかな」
気づくと口に出していた。海はいつだって僕の本心を引き出させる。それに手繰られた言葉は運命的な出会いと希望を僕のもとに残して海原に消えていく。少し嫌なこともあったが、今日は良い一日だった。とても気分が良い。久しぶりによく眠れそうだ。少しの潮風を浴びて、すぐにその場を去った。
夢を見た。真っ暗な闇の中だった。夜空に浮かぶ星のように遠くの方で小さな光が輝いて、消える。水の中のような浮遊感と窒息感が僕の体を襲う。動けば動くほどその感覚は強くなっていく。息を吐いて、吸う。入ってくるのは空気ではなかった。圧の強い何かだ。空気にしては硬いし、水にしては重すぎる。何度も口の中にあるものを吐き出して正常な空気を吸おうと踠き、溺れ、沈んでいく。
隣でまた新しい光が生まれる。今度の光はすぐには消えずに、ふよふよと漂っている。無意識に惹きつけられる蠱惑的な光。蛍ほどの小さな明かりだったものは、やがて世界を飲み尽くすほどの大きな光になった。いつ何時も人々を照らす太陽のような煌めきは唐突に、跡形もなく消失した。脳が理解を拒んだ。そんなことあるわけがないと無根拠にも信じて止まなかった。視界がひび割れ砕けていく。
目が覚める。時計の針は七時二〇分を指している。いつもならば既に準備を終えている。ホームルームには間に合わないが、一限にはギリギリ間に合うかという時間帯。急いで布団から飛び出すべき場面だが、僕はまだ夢の余韻に浸っていた。正確に内容を覚えているわけではない。しかし、あの焦がすような輝きが忘れられない。朝ごはんの味も、角にぶつけた小指の痛みも忘れて惚ける、魔性の魅了があった。非現実の妄想に囚われて現実が疎かになっていた頃、時間に囚われず悠々と歩く通学路はとても自由だった。信号が変わる。止まっていた世界が動き始める。実はこの瞬間が結構好きだったりする。
学校は二限から参加した。いつも通り厄介に絡んで来る人たちもいたが、曖昧に相槌を打っていると相手の方が気味悪く思ったようだ。それ以上何か言ってくることは無かった。何とも悦な一日だろう。良くも悪くも関わりが無いというのは気楽でいい。悩む必要がないから。自分よりも幸福な人間を見て嫉妬して悲観的になることが無いまま、ただ時間だけが過ぎていく。それを意味のない行動だと思う人もいるだろう。しかし僕にとっては、とても幸せな時間だった。思い出した気がしたのだ。僕にとっては片腕と片脚が失われていることが日常で、それが普通だった。僕が不幸になったのは周りを見てしまったから。僕よりも幸せな人間が、恵まれた人間がこんなにも多いなんて知ってしまったからだ。つまり僕以外の人間が悪いのだ。そうに違いない。そんな考えに至る時間が出来ただけで、僕は嬉しいはずだった。何故かはわからない。他人に自分が不幸な理由を押し付ける度に、僕の心は締め付けられた。自分の惨めさが際立って、いつも以上に自分の嫌いな所が見えたからかもしれない。やはり現実なんて碌なものじゃない。
学校は三限が始まる前に早退した。居続ける意味が無いと思えたから。井戸端会議をしている主婦たちに、学校に行かないのかと質問されたが、すべて無視して通り過ぎた。後ろの方で何か騒いでいるような気がしたが、僕の耳には何も届いてはいなかった。目的もなく、街を周遊する。高架下を抜ける。中途半端な時間に車の通りなんてあるはずもなく、あの時の騒音は夢だったのかと思うほど静かだった。柱に描かれた落書きもなんだか愛くるしく感じた。学校の前は避けて通った。誰かに見つかると面倒だと思ったから。すぐに先生を呼ばれて、教室という狭く退屈な閉鎖空間に拘束されることだろう。商店街を抜ける。人は全くと言っていいほど居なかった。声を張って集客していた八百屋や魚屋の店主も、理科室にあるような椅子に腰掛けている。性根たくましい彼らに何度か声をかけられたが、やはり無視して通り過ぎた。住宅街を抜ける。とても閑散としている。子どもたちは学校があるだろうし、その親は働きに外に出ている。窓が開いている家庭から掃除機の音が漏れ出ていた。
辿り着いたのは海だった。波が砂浜を擦る。色が濃くなった浜辺を横目にゆっくりと歩く。革靴では歩きづらい道だが、そんなことは気にもしなかった。夢の中の輝きが僕の頭の中すべてを満たしている。波の音さえも情報として入って来なかった。この優越感に永遠に浸っているのだと思っていた。漠然と認識していた現実にとびきり強烈な情報が殴りかかってきた。海月さんが立っていた。初対面の時とは真逆の展開だ。彼女は制服を着ていた。海月さんは幻のようだった。手を伸ばせば、瞬きをすれば、簡単に消えてしまいそうだ。
「こんにちは」
海月さんは驚いて肩を揺らし、血の気の引いた顔をこちらに向けた。唇は真っ青になって、常に震えている。何か声に出そうとしているようだったが、ただ少し唇が動くだけで何も聞こえなかった。自分が声を出せないことを忘れているのだろうか。彼女の手元にはスケッチブックが無かった。彼女は素早くお辞儀をして、足元のスクールバッグを持って、心配になる足取りで駆けていった。彼女がいた場所に何かが落ちていた。クラゲのキーホルダーだ。海月さんの鞄についていたのだろうか。返してあげたいが、住所も連絡先も知りやしない。だからといって放置して帰るわけにもいかない。この場所に来たらきっと再び逢えるだろうと安易に考えてキーホルダーを拾い上げた。そっとポケットにしまうと、僕もまたその場を後にした。
海月さんとはあの時以来、二年が経過した今も逢えていない。僕は高校三年生になり、進路や受験といった様々な受難に立ち向かっていた。すぐにまた逢えるとひどく単純にも考えていたが、現実はそんなに上手くいってくれない。物欲センサーというものは本当にあるのだろう。僕と海月さんを引き合わせないように第三者の力が働いているように思えて仕方がなかった。海月さんに逢いたい。憧憬はやがて愛情になり、恋情になった。頭を支配していた夢で見た光は、いつの間にか海月さんに変わっていた。たった二回話しただけの彼女にどうしようもなく惹かれ、焦がれ、救われた。海月さんの薄幸な人生は僕を幸せにした。そして今日もまた彼の地に向かう。きっと今日は来てくれる。毎日そう思って海に向かう。絶望を洗い流す場所は、絶望を生み出す場所に変貌を遂げた。それでも構わない。世界で一番不幸なのは僕じゃないとわかったから。
砂浜と同時に人影が見える。女性のようだ。久方ぶりに希望を抱いた。長い黒髪とスカートが靡いている。目を凝らすと真っ白な肌が見えた。記憶に残る色よりも少し橙色に近づいただろうか。髪の隙間から覗く空色の瞳が輝いている。姿は少し変わっているが、彼女は紛れもなく海月さんだ。焦がれ続けたその姿を見間違えるはずもなかった。手に持った袋には二年前に拾ったクラゲのキーホルダーがしっかりと入っている。
「海月さん」
彼女はゆっくりと振り返った。とても困った顔をしていた。なんとか思い出そうとしているのか、目線が左上の方に泳いでいる。どんどん眉間に皺が寄っていくのが少し面白かった。
「広田匠海です。二年前、あなたに人生を救われた男です」
依然として彼女は困惑していた。僕はすぐにキーホルダーを取り出して、当時の状況を説明する。彼女は思い当たる節があるようだった。本人の持ち物であることを確認してもらって、ひとまず手渡すことに成功した。彼女はもちろんスケッチブックに丁寧な返事を書く、と思っていた。
「ありがとうございます」
耳を疑った。彼女は、海月さんは声が出せないはずではないか。おかしい。こんなの嘘に決まっている。そうだ、目の前にいるのはきっと海月さんの双子の姉なのだろう。そうだ、それに違いない。そうでないと辻褄が合わないではないか。彼女は世界で一番不幸でないといけないんだ。そして僕は比較的幸せな人間なはずだった。
「あの時は学校にいられなくて逃げてきたんです。きっと、貴方もですよね。……それにしても、もう見つからないと思って諦めていたんですけど、こうして私のもとに戻ってきてくれて嬉しいです。とても気に入っていたので」
鈴の音のように澄んでいて、少し高めの美しい声だった。流暢に話す目の前の彼女を僕は未だ正常に捉えることができない。海月さんが口を開いて息を吸った瞬間から逆撫でされるような気持ちの悪さを感じた。海月さんが第一声を放った瞬間に視界がぐにゃりと歪んで車酔いのときような頭痛を感じた。胃液が込み上げてくるのをなんとか思い切り唾を飲み込むことで、何とか抑える。
「声、出せるんですか」
ぶっきらぼうで、たどたどしい問いかけだったことだろう。いつもクラスで騒いでいる人が、怖い顧問の前で萎縮しているときに近い。僕は今、絶望の淵に一歩踏み出した。そんな問いかけはしない方が幸せでいられたのかもしれない。それでも、尋ねないわけにはいかないかった。
「まだ少しですけど……はい。とて良い出会いがあったおかげです。また声が出せるようになって、とても嬉しいんです」
もう僕は海月さんの顔をまともに見ることができなかった。きっと好きな人がいるのだろう。もしかしたらもう付き合っているのかもしれない。僕の行き過ぎた一方通行の恋情は、事実を受け止めるためには歪み過ぎていた。恋は盲目という言葉があるが僕ほどその言葉が当てはまる人物はいないだろう。あまりに惨めな片思いは、太陽に反射した砂たちに嘲笑われたような気がした。
ふと、最低で最悪な考えが頭をよぎる。海月さんは過去のトラウマが原因で声が出せなくなったのではなかったか。それならば新たなトラウマを植え付けることができれば、また彼女は世界で一番不幸な人間になるはずだ、と。気分が悪くなるほどの憎悪のせいで異常な思考回路が正当化されてしまうことが、とても嫌だ。彼女は不幸でいるべきで、運命に抗う彼女が魅力的で愚かしいという考えが変わったわけではない。もっと踠いて、苦しんで絶望のその先に沈んでいて欲しい。あわよくば、一番近い場所でそんな彼女を見ていたい。やはりもう一度、色彩豊かな絶望の世界に落ちるべきなのだ。
海月さんの首に両の手を向かわせようとした時に思い出した。僕がどうしようもない欠陥品であるということを。いくら男女の力の差があるとはいえ、片手で首を絞めるのは現実的でない。結果、僕は最低最悪な考えを行動に移す前に踏みとどまった。他の方法を考えたが、有用な案は浮かばなかった。
「それは良かった、です」
本心を隠すように、継ぎ接ぎの言葉を並べた。相も変わらず、僕は彼女に一瞥もくれなかった。海にいるはずなのに波の音は聴こえなかった。海月さんは誰かに呼ばれたようで、僕の言葉を聞くとありがとうごさいます、とお礼だけ述べて消えていった。
僕の世界には希望が消えて、絶望が帰ってきた。波の音が五月蝿い。義足のせいで砂浜を歩くのさえ大変だったことを思い出した。水面に反射した太陽光が酷く眩しい。誰もいない海が好きだったはずなのに、いつの間にか海月さんのいる海を求めていた。また彼女に逢ったときには世間話でもしながら交流を深めようと思っていた。もちろん、スケッチブックを経由して。そんな幻想を抱いているうちに孤独をどこか他人のように感じていた。僕はいつだって孤独だったというのに。愚かな僕は海月さんに向けていた、気持ち悪い恋情をようやく客観的に自覚した。さっき引っ込めた胃液が上がってくる。焼けるような痛みを伴う、不味い流動食のようなものを抑える力はとっくに失われていた。本能では抑えようとしているのか、右腕を口元に向けていた。努力も虚しく、胃の内容物たちは地面に吐き捨てられた。気持ち悪い感情ごと吐き出すように思い切り息を吐く。上手く息を吸えなくて、呼吸が荒くなる。生まれてこの方止めたことがない動作のはずなのに、どうすればいいのかわからなかった。落ちつけかたがわからないのに、この息の仕方はたくさんの体力をもっていく。体を支える力も尽きたとき、砂浜に倒れ込む。呼吸の仕方はまだ思い出せない。空気を吸おうとしているのに、砂まで一緒に吸ってしまう。不用物を吐き出すために咳き込むが、あまり効力を見せなかった。そうして、また砂を吸って咳をする。意識が薄れていく中で、海に沈んでいく太陽があの夢で見た光に重なって見えた。
僕はまた、世界で一番不幸な人間になった。




