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ある時、僕は記憶喪失になった。ちょうど持っていた記憶の半分くらいを失った気がする。まさに記憶喪失になった瞬間は、今、この瞬間、僕がなぜこの場所にいるのかは分からなくて、そしてここがどこなのかも分からなかった。自分の家の場所も、好物も、そういうプライベートなものは全て忘れてしまって、逆に今成長中の企業の名前や仕事で使うような技術(電子回路の設計方法など)、さらには自分が開発部門に入社して3年目であることは誦じられる程に覚えていた。
医者に諭されて休職したが、ますます空疎な生活をしているように感じる。僕の中にはまだ「個としての僕」が残っているのだろうか。本来、僕はそんなものを持っていたのか。
僕の部屋だと言って案内されたボロアパートの一室は綺麗に整理されていた。特段プライベートなものは見当たらず、簡素なシステムデスクとベッドがある、どこにでもありそうな部屋だった。デスクの上には鈍く黒い光沢を持った金属製のボールペンと仕事用のPCがあった。
所謂ミニマリストだったのかも知れないし何か理由があってプライベートなものを全て消したかったのかもしれない。少なくともそこには自分だけでなく他人の気配もなかった。部屋で何をしていたのかを思い出せないと言うことは、それなりに私的な空間であったはずである。
だが、僕はこれ以上、過去の自分と関わる必要性を感じなかったので、普通の日常を過ごすことにした。
そんな日常を過ごしていた僕だけれど、世間は僕が普通の日常を送っているとは判断しなかった。だから、僕はカウンセリングに通っていた。
初めて会った時、まだ若いカウンセラーはとても明確な指摘をした。
「貴方はできる事、しなければいけない事という2つの考え方が強いようですね。したい事と言うのが伝わってこない。感情の認識の仕方が分からない、といった所でしょうか」
僕は、なるほどカウンセラーとはこんな仕事なのだと感じた。本当に、感情を認識する必要など有るのだろうか。仕事をして、食事をして、睡眠を取っていればそれで良いではないか。それ以上、生きることに何が必要だというのだろう。道行く人々がそれ程幸せなようには見えないのだけれど。
「感情を感じると人生がもっと豊かになりますよ」と彼は言うけれども、豊かな人生、貧しい人生と他人を決めつけているのは貴方ではないのか、などと思うのは僕のように少しおかしな背景を持つ者ぐらいなのだろう。
やはり私的なもののない人間というのは社会に馴染めないのだと実感していた。
唯一馴染めていると感じられる場は図書館だった。勉強していれば成長できるし、何より次の仕事に活かせる。それが無料で出来るというのだからこれ以上の場所はない。図書館に通って資格を目指している、と言うと社会的な体裁も悪くはない。周りにいる人も同様で、特に話しかけられることもない。
そこで記憶を失ってから、初めて楽しいと感じた。それが本当の感情かどうかは不明であったけれど。
だが、日常はいつも突然崩れ去るものだ。その日は4月にも関わらず、冬のようだった。夕方、大きな地震が起きた。煙もあちこちで上がっていて、道路は慌てふためく人たちでいっぱいだった。僕も避難所に逃げた方がいいと思って外に出た。
通りすがりに白い蝶が飛んでいた。桜の花も満開だった。風に吹かれて散っていく花びらがパラパラと落ちていた。そして空には丸い月が登ろうとしていた。
ニュースではここにも津波がやってくるのだと告げていた。その時、きっと僕は死とすれ違っていた。とても穏やかな気持ちで。周りの喧騒がどこか遠くで起きている出来事のようで、全てがどうでも良くなった。僕はその桜の木の下に座り込み、風の音に耳を澄ました。
社会が崩壊すれば仕事はなくなる。
盤石で、何よりも重要で、一日も無駄にしてはならなかったはずのそれらは、突然消えてしまった。僕は確かに休職中の身ではあったが、それでも自分の勤めていた会社に戻って生きていくことを目指していたし、一日一日はそのために有った。
だが消えた。僕の家の近くからだと会社がよく見えるのだ。毎日朝から晩まで懸命に働いていたその場所が、波に押し流されて砕けてしまう様子がよく見えた。目を瞑り、祈った。自分の名前を忘れても誦じられた仲間の無事を。そして直感していた。その瞬間に僕は完全に消えてしまったのだと。戻る場所もなく、あるのは残滓。逃げ惑う人々が皆、舞台役者のようだった。
波の音がすぐ近くに聞こえた。周りには誰もいないと思っていたのだが、一人の老人が歩いているのが見えた。
助けなければならないのだろうか。まだ生きろという事なのだろうか。神を信じている訳ではなかったが、目の前の人間を見限って死ぬ程、自分の死に価値を感じてはいなかった。
「あの、もしよければ背中に乗りますか?」
「申し出は有り難いが先に逃げなさい。あんたまで巻き込んだんじゃ、申し訳ないわ」
面倒なご老人のように見えた。僕はいつかシミュレーションしていたことを実行することにした。
「おじいさん。家族はいますか?」
「もう何年も会っちゃいないが、娘が1人」
こういう人は、助けると決めていた。
「乗ってください。今ならまだ間に合うと思います。荷物は置いていきましょう」
「......そうか」
僕は必死に足を動かした。避難経路など完璧に覚えていた。ただただ無心で進むだけだった。山の中腹まで来て後ろを見返すと、波はこれ以上登ってはこれないように見えた。
「休もう。もう大丈夫だろうよ」
ご老人を土の上へ下ろすと、僕の口から、ふぅっとため息が漏れた。
「疲れたろう」
「えぇ」
「お陰様で助かりました。ありがとう」
恐らく、心からの感謝をしていただいているのかもしれないが、やはり僕はうまくそれを感じられなかった。
「いえ。娘さんにまた会えたら良いですね」
終わってしまった。また、日常に戻ってきてしまった。またこうして仮面を被る。こんな時でも、染み付いた感覚が消えてくれなかった。
「会う必要はないよ。何処かで生きているなら、それで満足でね。だから、儂はもう死のうかと思っているのよ」
「え......」
「沢山、悪いことをした。儂の暴力のせいで、母親をなくさせた。金も十分に無かったから、いじめられた。それでも酒と煙草を買ってきて飲んでは吸って。娘が出ていってくれて安心した。死ぬべき人間だろう」
「いえ、僕からすれば十分に生きるべき人間ですよ。悪をなしたというのなら、その分の善をなしてから死んでください」
「手厳しいな。貴方はどうなんだ?あんな桜の木の下で微睡んで」
「私は、ただの無ですから。こんなものは所詮、仮面のうわ言だと思ってください。機械音声だと思ってください。人と言うにはあまりに大切なものを欠いてしまっているようですから」
「そうかね。事実はそうではないみたいだけれど。仮面で本心を隠していようが、本心がなかろうがね、事実、善なんだよ。あなたの行為が善であったという事実だけは覆せないんだ。もし、それでも自分が無であると言うのなら、理屈で善を行うだけで良い。それが貴方の生きる意味になり、生きた価値となる。それでいい。善を行わない無であるのでなく、善を行う無であれば良い」
「笑ってしまいますね。こんな非常時に、訳のわからない話をして。悪を行う無であれば、行った悪の分だけ善を積む必要があるから生きる意味がある。善を行う無であれば、それは事実、善を他者に与えるから生きる意味がある。どちらをとっても生きる意味があるという結論にしか至らない。理屈というのは苦しいですね。所詮、理屈をつけて苦しみから逃れたかっただけなのに、そのための理屈が苦しみから逃れることを否定する」
「馬鹿なんだよ。儂らは。馬鹿なんだ。」
空が、いつもより透き通っていた。遠くまで見えて綺麗だった。僕らは、そういう空を見ながら、山を登った。