日常は雨に濡れて
あれからまた月日が経った。冬は過ぎ、桜の木には蕾から花弁が見えるくらいに暖かくなってきた。ここのところ、雨が降ったり止んだりと不安定な天気が続いていて、ジメジメとして過ごしにくい日々が続いていた。昼下がり、二人は薄暗い路地裏の壁に寄りかかっていた。
まだ誰にもバレてない、誰も気づいてない。このままいけば大丈夫。……でももしバレたら、その時はどうする? 向かってくる奴を全員殺す……。でも機動隊とかには勝てそうもない。その時は自殺? でも自殺する勇気は、まだ私には……。
それにしても、あのサツを殺してからこんなに逃げてるのにまだ捕まらないなんてな。やっぱり俺たちがやったと知ったとしても、マスゴミは顔写真の報道ができないからかな。……まだ金もあるし、もう少し逃げ続けられるはず……。きっと……。
「ねぇ、武和」「ねぇ、悠華ちゃ」
「「あ……」」
「ご、ごめん……」
「い、いや、大丈夫……」
二人の間にまた沈黙が訪れた。
「ごめんなさい、私が話すの苦手なばっかりに。気まずくさせちゃって」
「いや、俺もそうだから大丈夫だよ。うん……」
「私たちってダメダメだね。話す話題がないと話せないなんて……」
「……そんなことは…………」
そんな話をしていると、空が暗くなりはじめ、雨粒が落ちてきた。
「……雨だ。行こう、風邪ひくよ? ……悠華ちゃん?」
「先、行ってて。少しだけ一人になりたい」
「うん、分かった。気を付けて」
武和は立ち上がって歩き始めた。暗い路地裏を抜け、大通りを通り、再び路地裏へ。ジメジメとして気持ちの悪い場所を少し歩けば、今の隠れ家である廃アパートに着く。彼は補修跡のあるガラス戸を開け、ひび割れた階段を上がり、鍵の掛かっていない部屋に入った。鞄から缶ジュースを取り出してベランダに出た。悠華の姿がわずかに見える。
『大丈夫かな……。でも、邪魔しない方がいいな』
武和はベランダに寄りかかって、缶ジュースを一口飲み、低く暗い空を見上げた。
そのころ悠華は武和が去った後も、その場に座り続けた。雨が強くなり、服や髪が濡れても、彼女は座ったまま動かなかった。彼女は武和の希望に満ちた表情や話し方について考えていた。
『武和。こんな状況でなんで笑っていられるんだろう……。でも、いくら考えたところで、私には分からない……』
悠華は静かに息を吐き、膝を抱えた。
『武和も私と同じことをしたのに、それに対する考えが全然違う気がする。どうしてだろう?』
「……私は、弱いのかな?」
彼女の静かなつぶやきは雨音にかき消された。
すると突然、悠華の隣に傘が置かれた。驚いて顔を上げると、グレーの服を着て、ビニール傘を差した男性が立っていた。
「雨に濡れるのは嫌ですよね? これ、よかったらどうぞ」
彼は穏やかな笑顔でそう言った。でも、悠華は何も答えなかった。
「風邪ひかないようにどうか気をつけて。それでは」
男性はそう言うと、その場を去っていった。雨がまた強くなり、視界から消えていった。
そして悠華は傘を手に取った。あの男性の言葉や態度には何の悪意も感じなかったが、それでも不審に思った。怪しく思い、悠華は周りを見回したが、人影は見えなかった。
『もしかして、私を探している人なのかな?』
悠華はそんなことを考えたが、すぐに否定した。自分を探している人なら、傘を渡すだけで去らないはずだと思った。それに、自分を探している人がいるとしたら、警察やマスコミくらいしか思いつかなかった。でも、彼はどちらにも見えなかった。悠華は渡された傘を見て、そして何気なく空を見上げた。
一方武和はベランダを離れ、傷んだ畳の上に寝そべって、悠華のことを心配していた。すると、足音と男の声が聞こえた。武和は起き上がってベランダに出た。グレーの服を着てビニール傘をさしている男性が電話越しに誰かと話しているようだ。だが、雨音にかき消されて、よく聞こえない。
「――――さんと――――した。場所は――――――す。後ほど位置――――送りしますね。……いえ、こ――――あり――――――ます。――に関し――――ほど請求させて――――――ね。はい。…………はぁ、――ですか。まあ、私も詳しくは詮索しません。はい。ええ、ありがとうござ――――。今後とも――――事務所をよ――――――いします」
男は電話を切った後、すぐに姿を消した。
武和はベランダを出て、畳に座り、あの男のことを考えた。
『あの男、何でこんな場所に? それに事務所って……。もしかして、悠華を探してたりするんじゃ? ……いやでも、すでに事件から一年以上経ってる。今更見つかるなんてことは……』
武和は頭を抱えた。ここにきて自分たちの逃亡生活が終わるかもしれないと思ったからだ。二人は今まで誰にも気づかれずに逃げてこれた。学校を破壊しても、警察を殺しても、追われることは無かった。
「もうすぐ終わるのか? でも、まだ、俺……」
その時、玄関の扉が開く音が響いた。武和は驚き、慌てた。どうしよう、このまま終わるのか、そんな考えが頭をよぎった。武和は動けなかった。
だが入ってきたのは髪と服が濡れた悠華だった。
「ごめんなさい。少し長く居すぎた」
武和は急いで鞄からタオルを取り出した。悠華は隣の部屋でタオルで全身を拭き、服を着替えた。悠華は下着の上からシャツを羽織ってゆっくり出てきた。
「ごめんなさい、心配をかけて」
「……いや、いいんだ。君が無事なら……」
「そういえば、これ、知らない人からもらったの」
悠華は武和に渡された傘を見せた。
「傘……。それに知らない人。どんな人だった?」
「グレーの服を着て、透明の傘をさしてた」
「……透明の傘、グレーの服? それって……」
武和は思い出した。ベランダから見た男もグレーの服を着ていて透明の傘をさしていた。そして何より電話で事務所という言葉を使っていたことが気になった。
『もしかして、あの男が悠華に傘を渡したのか? だとしたら、あの電話は何?』
武和は不安になった。悠華に何か仕掛けるつもりだったのではないか、もしくはただの偶然だったのか気になった。
「武和? どうしたの?」
「あ、いや……別に。心配することじゃ……」
武和はごまかそうとしたが、上手くできなかった。彼は悠華に心配をかけたくなかったが、隠し切れなかった。
「……実は、俺もその男を見たと思う。ベランダから。電話で事務所って言ってた」
「え? 本当? じゃあ、あの人は……」
「分からないけど……何か関係があるんじゃないかとは思う。もしかしたら、悠華ちゃんを探してる人かもしれない」
「そうなの? でも、だとしても、どうして傘を渡したの?」
「それは分からない。でも、気をつけた方がいいと思う。もしかしたら、このアパートに居るのも危険かもしれない」
「じゃあ、また逃げるの?」
「……そうだね。今日中に出発しよう。食料はまだある?」
武和が尋ねた。悠華は首を横に振った。
「じゃあ先に買い物に行こう。俺はちょっと遠くまで予備のプリペイドSIMを買いに行ってくる。悠華は近くのスーパーで食料をお願い」
悠華はしばらく俯いたあと、首を横に振った。
「……怖いから、武和と一緒に行きたい。……駄目かな?」
「……いや、全然いいけど」
悠華の顔が明るくなった。二人は着替え、最低限の武器と荷物を持って、廃アパートの玄関を出た。
「意外と住み心地よかったんだけどな」
「うん、少し寂しい」
二人は廃アパートに別れを告げ、路地裏を後にした。