タイトロープのその先に
オーディションに合格したローラは、そのまま劇団が所有する寮で寝泊りする。
3階建ての建物は、1階が食堂や入浴施設などの共有部分になっており、2階が女性用、3階が男性用だった。
その寮にローラは一人部屋をあてがわれる。待遇で言えば、人気役者と同じだ。オーディションに合格したばかりで、まだ舞台に立っていない新人とは思えない厚遇である。
そしてそんな事をすれば、周囲から妬まれるのも当然だった。
ある朝、ローラの部屋のドアが激しく叩かれる。
「何?」
ドアを開けたローラの眼前には、女性たちが険しい顔で囲んでいた。
「あら、イヤだ。まるでホテルの匂いね。盛りのついたケダモノのほうが、よっぽど節操があるわね」
鼻をつまみながら女性の一人がいう。朝一の挨拶として、なかなかのものである。
ちなみにこの場合のホテルとは、売春宿を指している。つまり、彼女たちはローラを売春婦だと蔑んでいた。
「そう? よくある、家庭の香りよ」
それに対し、貴女たちも恋人の前で股を開くなら同じだと、ローラは答える。実際、金を貰って股を開く行為を、ローラは決してしなかった。
「本当に生意気な小娘だわ。毎晩のように男を連れ込んで……汚らわしい。なんで、あんたみたいなのが主役なのかしら? ああ、その卑猥な身体で役を買ったのね」
女性が妄言を吐く。
だが、これは致し方ない部分がある。
そもそも、後ろ盾のない人間がいきなりオーディションに合格するなんて、常識では考えられなかった。
しかも、主役である。
なまじ、事実より妄言のほうが、余程信じられるものだ。
「主役がしたいなら、簡単よ。オーディションに合格するだけだもの」
ローラは答えるが、もはや煽っているとしか思えない。
もちろん、ローラにそんなつもりはないのだが。
「いい加減にしなさいよ!」
ローラの態度で、ついに女性たちがキレた。
集中砲火のように次から次へと、ローラに罵詈雑言を浴びせ始めた。
その金切り声の大合唱は、寮内に響きわたる。
朝食を食べに行こうとする男たちも、廊下で女性たちが集まり、そして喚いていれば気になるものだ。
「随分と賑やかだが、何かあったのかい?」
男性の1人が女性たちがいる場所へ近づきながら、優しく声を掛ける。
他にも男性たちが集まり始めた。
女性たちは、「男には関係ない」とか「あっち行って」などと追い払おうとするも、集まってきたのはイケメンたちである。
役者として、人気も実力も兼ね備え、大勢の女性ファンすらいる男たち。
そんな彼らに、見て見ぬフリなどという俗な事は出来なかった。
そして、彼らは女性たちの中に割って入っていく。
それを見たローラは、女性たちに告げる。
「あら。丁度良かったわ。ほら、貴女たち、元凶が来たわよ」
「はぁ?」
この女は一体何を言ってるんだ。
ローラを囲む女性たちのリアクションは苛立ちだった。
「毎晩、私のおかげで寂しい思いをしたのでしょ? その元凶は彼らだもの。ほら、昨夜はそこの彼ね。で、2日前は、そっちの彼。3日前なら、あそこの彼よ」
わざわざ男を指差しながら答える。
完全なる責任転嫁だ。
それでいて、実は男の立場になると満更でもない。
ローラの言うそれは、男として女を満足させ喜ばせたと言われているようなものであり、ステータスとして誇れるものだ。
これこそが、ローラの凄いところでもある。
男に媚びるか貶すかの二択ではなく、ローラは自然と男を喜ばせる。
「どうやら、俺たちが悪いみたいだな……」
「確かに、その件でローラを責めるのは間違いだね」
「文句なら、僕が聞くよ」
ローラに指差されたイケメンたちが、ローラを庇うように女性たちの前に立ちはだかる。
女性たちの中でも、リーダー的な女性は考える。
自分たちは、魔王ローラを討伐する勇者パーティーだった。だが、この状況はマズイ。村娘1人を襲っている山賊となんら変わらない。
自分たちが集団である事が、完全に裏目にでていた。
女が女の悪口を言っても成立するのは、女同士か男と二人っきりの時だけである。
ゆえにリーダーは、即時戦略的撤退を選択した。
「勘違いしないでください! 私たちは、寮内で集団生活をする上で、必要最低限の注意を彼女にしていただけですわ! 今後はキチンとルールを守るように、良いですわね? ローラさん」
精一杯の体裁を取り繕うと、女性たちはゾロゾロと1階へと向かう。
その姿は、誇り高き敗残兵に見える。
実際問題として、彼女たちは何も間違ってなどいない。
入寮時、丁寧にローラへ寮則を伝えていた。それを、悉く無視してるローラが悪い。
もちろん、ローラは何一つ寮則など覚えていないし、覚える気もない。
彼女たちにしてみれば、そんな生意気な新人の目に余る行動を、3日も我慢していたぐらいだ。
「余計なお世話だったかな?」
イケメン俳優の1人が、微笑みながらローラへいう。
ローラはその俳優の頬に優しく手を触れると、くいっと顔を背けさせる。
そうしてその俳優の視線を、イライラしながら立ち去っていく女性たちへ向けさせた。
「その優しさは、傷ついてる女の子にしなさい」
それだけ言うと部屋へ入り、パタンとドアを閉めた。
舞台とは戦場である。
ミスなど許されないし、あってはならないものだ。
その為の舞台稽古もまた、苛烈を極める。台本を事前に頭に入れているのは、最低レベル。監督の要求に応えられて、普通レベル。そして、無茶ブリをこなせてこそ、一流レベルであった。
どれだけプライベートでローラを嫌っていても、それを少しも感じさせない演技が出来る彼女たちは、紛れもなく一流の女優たちだ。
そして、男優もまた一流である。
そんな彼らですら、ローラがいる舞台稽古は緊張感に溢れていた。
「おい、こら! 今の台詞じゃ、この後の物語が滅茶苦茶になるじゃねぇーか!」
監督が女優を怒鳴りつける。
「すみません」
女優は頭を下げで謝っていた。
「あぁ? 誰が謝れなんて言った。出来るならやれ! 出来ないなら去れ!」
「はい!出来ます!」
女優は答える。
普通なら泣いてもおかしくない状況だ。
それでも、その女優は泣かない。
涙を見せるべきシーン以外で泣けば、それこそ、その場でクビだ。
監督が吐く暴言に対しても同じだ。
舞台の上で観客からの暴言があった為に演技が出来ないなど、プロ役者としてはゴミだ。
そして、ど素人のゴミに上がらせるほど、一流の舞台は甘い場所では無かった。
そんな一流レベルの女優ですら苦難しているのも、全てローラが元凶だった。
舞台稽古初日。
ローラは監督の要求を全て応えみせた。
その演技は、非の打ち所がないほど素晴らしいものだった。
と言うか、ローラそのものだった。
それだけならば、まだましだった。
翌日、ローラは台詞と演技を変えてきた。
それについて、監督に対して「同じなんてつまらないわ」と言うローラ。
普通なら通用しないが、ローラは特別だった。なにせ、舞台に立つのはローラそのものなのだ。
どれだけ台詞を変えても、どれだけ演技を変えても、どれも素晴らしいものだった。素晴らしさが変わる訳もない。
結果、ローラが出るシーンは、ほぼ全てアドリブになる。
これに、先ほどの女優は躓いた。
もっとも、前日はクリアしているので、もちろん才能はあるのだ。
誰も稽古に手抜きをする役者などいない。それでも緊張感が溢れているのは、それが理由だった。
そんな中で、ローラは1人楽しんでいた。
自分の出るシーンはもちろん、出ないシーンも楽しく眺めていた。
だが、同じ事の繰り返しに飽きて、すぐに興味を失う。
こうなると、気になるのは他の役者たちだった。
ローラという観客の興味を惹く為、ムキになるのは一流のプライドなのだろう。
結果、全てのシーンにアドリブが入るという、もはや常軌を逸した舞台だ。
一流の劇作家は、その都度台本を書いてみせた。
一流の監督は、その都度最高の演出をした。
そして、一流の役者たちはその期待に応えてみせたのだ。
万全の状態で、彼らは舞台初日へと突き進んでいた。
ローラたちが演じるのは、聖都の劇場でも最高クラスの劇場。
収容人数は約2000人。
収容人数だけなら、同レベルの劇場は複数ある。それでも、最高クラスなのは、その劇の質と劇場の質。
オーナーは劇場を複数所有し、聖都にて大衆劇場を広めることで成功した人物だった。
開演を待ち望んでいる溢れんばかりの大衆を見下ろしながら、オーナーは嗤う。
「流石だ。この劇場が、これ程の人で埋め尽くされたのは、君のお陰だ」
「ありがとうございます」
粛々と礼を述べたのは、プロデューサーだった。
「一体どんな仕掛けをしたんだね」
「まあ、色々と……」
プロデューサーは誤魔化すが、本当に色々としていた。
オーディションでローラに合格と言ったのが、このプロデューサーだった。
それから、わざとローラが劇団内で嫌われるように、高待遇で迎えた。
それによって、団員が一致団結するのは想定内。
イレギュラーなのは、人気の若手俳優との熱愛だ。
だが、プロデューサーはすぐに策を修正した。意図的にその情報を流し、スキャンダルにする。
当然、ローラが悪者になるように。
これを知った、イケメン俳優のファンが、ローラ憎しに染まって押し寄せて来た訳だ。
しかも、彼女たちの悪口は、そのまま劇の宣伝になる。
女性の集団悪口を利用した宣伝方法。
これを悪辣とみるか、敏腕とみるか、難しいところだ。
しかも、そのスキャンダルは日々増える。
次から次へと、別のイケメン俳優を毒牙にかける悪女ローラ。
噂の炎に油を注ぎ、辺り一面を火の海にかえた。
ここまでくると、男性ですらローラに興味が湧くというも当然といえる。
一目でいいから、噂の悪女ローラを見てみたい、と劇場へ押しかけてきた結果でもあった。
「まぁ、よい。あとは、あの娘が結果を出せるかどうかじゃ。出せなかった時は……分かっておるな?」
高齢のオーナーは、その皺だらけの顔に相応しくないほど鋭い眼光でプロデューサーを睨む。
「ええ。その場合の手筈は整っております」
そのプロデューサーの返事に、オーナーは満足そうに頷く。
その劇は異様だった。
幕が上がり、主役のローラが登場する。
たったそれだけで、会場からはブーイングの嵐が吹き荒れた。その殆どがイケメン俳優のファンによるものだ。
本来なら静かな森の中から始まるシーン。
その世界観をぶち壊す罵声。
舞台の上で、たった一人でそれに晒されるローラ。
観客の誰もがこの劇が終わったと思い始める時、それを待っていたかのようにローラは話し始める。
「今日の森は騒がしいわ。魔物たちがこんなに吠えているのだもの。きっと、良くない事の前触れね」
満員の観客を、まるで森の木々くらいに眺めながら言う。
その声は酒で焼けており、少ししゃがれていた。それでも、客席の一番奥まで響く、独特な声色だった。
そしてそれは、声だけで悪そうだと感じるものでもあった。
罵声とはいえ、よりにも寄って観客の声を魔物の叫びに喩えるローラ。
その煽りに更に罵声をかける観客。
ここまでくると、本当に魔物としか思えない。
「そこのあなたも、そう思うでしょ?」
そのローラの声で、イケメン俳優が草むらから登場した。
すると今度は、黄色い悲鳴にかわる。
「そうかな? 僕には小鳥たちの囀りに聞こえるよ」
観客の声すら演出にするその舞台は、観客たちに衝撃を与える。
どこまでが台詞なのか、どこまでが演出なのか、その境界が曖昧になった時、文字通り劇場全てが舞台へと変わる。
その劇において、ありとあらゆる全てのシーンが緊張感に溢れていた。気が付けば、観客の誰もが舞台にのめり込んでいる。
ドキドキしながら、固唾を飲みながら、ハラハラしながら、一瞬たりとも舞台から目が離せなかった。
特に盛り上がったのは、主役の悪女が民衆から断罪されるシーンだ。
舞台の民衆役だけではなく、会場からも罵詈雑言が主役のローラへ投げつけられた。
そうして、ローラが処刑される時、観客たちのボルテージは最高潮になる。
そんな中で、ついにローラは自然な笑みを浮かべながら処刑された。
その時起こったのは、大歓声だ。
割れんばかり、大歓声だ。
これがラストシーンかも分からないのに、拍手が鳴り止まない。
客席の誰も彼もが立ち上がり、大絶賛する。
そして、まるでそれを予期していたかのように、幕が下りた。
劇場から出てくる観客は、誰もがローラの話題をしていた。
女性たちはローラの悪口で盛り上がり、男性たちはローラの魅力で盛り上がる。
「あんな下品な女に惹かれるなんて、男って本当に見る目がないのね」
そう女が男をバカにすると、男も反論する。
「彼女の演技力が見抜けないとは、女には本物の価値すら理解出来ないんだな」
そうやって女をバカに仕返す。
そうして、いたる所で口論どころか、ただの口喧嘩が繰り広げられた。
その観客たちに紛れて、笑いを堪えるプロデューサーの姿がある。
彼の中に、また別のプランが出来た瞬間だった。
そして翌日、前日に見れなかった人も含め、さらなる大観衆に包まれた劇場。
彼らは、驚愕する事になる。
驚くべき事に、舞台の上で役者たちはローラをローラと呼んだのだ。
役者とは別人を演じるからこそ、役者である。
その常識すら覆したローラは、名実共にトップスターへと駆け上がった瞬間であった。
そして、悪女といえばローラであり、ローラといえば悪女となった。