5月の透明
透明な人がいた。透けているとかいうオカルトちっくな話ではなく、彼の心が透明だった。
彼とは街で偶然に出会った。街といっても、そこまで都会ではなくて隙間に公園があるような、そんなところだ。あの日の私は、理由はともかく荒れていた。なぜかむしゃくしゃしていて、公園のベンチに座りながら地面に転がっている石を睨みつけていた。
苛立ちがピークに達しているのは気付いていたけど、自分でもどうすることもできなくて、でもそこで暴れるのは思い止まるくらいの羞恥心や理性は残っていて、やっぱり石を睨みつけていた。真っ黒な感情が思考回路を支配していて、お腹の底からこみ上げてくるような衝動を必死に抑えつけて、私は多分、耐えていた。
彼が現れたのは、そんな時だった。そんな時に人が声をかけてきても、きっと大半の人は八つ当たりしてしまうだろうし、声をかける側も躊躇すると思うのだ。でも彼は明らかにイライラしている初対面の私に声をかけてきた。
「何してるの」
もう一度言おう、私はむしゃくしゃしていた。でもはじめは八つ当たりしそうな気持ちを抑えるために……といえば聞こえがいいけれど、単純に応える気分になれなくて無視した。
「暇なら一緒にきて」
彼は私の様子に頓着することなく、私を立たせて手首を掴んで強引にどこかへ連れて行こうとした。さすがにイライラしてても、初対面の人にそんなことをされて驚かないわけがないし、警戒しないわけがない。焦って力を込めて腕を振り払おうとするけど、思いの外しっかりつかまれてて解けない。
すわ誘拐か、と思ったけど目の前の彼は止まった私を見てキョトンとしている。暇なはずなのになんで動こうとしないんだろう、みたいな。純粋にそう思っているのがなんとなくわかって、なんだか脱力してしまった。道路を挟んだすぐそこに交番だってあるのだ。誘拐犯がこんなに間抜けなら日本は多分もっと平和だ。
「どこ行くの」
暇なのは確かにそうだったから、ついていくことにした。魔が差したともいう。さっきまで感じていたとげとげとした感情は、幾分ましになっていた。
「屋根のあるとこ」
どこだよ、と思った。言い方からすると個人の家ではないようだし、でも店というわけでもなさそうだし。
ま、いっか、と考えることは諦めた。帰り道さえわかれば多分大丈夫。いざとなったら……うん、それはそれでいいや、と思ってしまった。
しばらく腕の引かれるままに歩いていくと、あったのは本当に屋根しかない東屋というのだろうか?そんな場所だった。壁はなくて、屋根の下に座るための場所がある程度の小さな休憩所みたいな。
ぐいっと引っ張られたかと思ったら、その木の板でできた椅子のようなものに座らせられた。そして彼も隣に座って。
あろうことか、寝始めた。暇で話か何かの相手をして欲しかったから連れてきたのではなかったのか。
「ねえ、なんで連れてきたの?」
「暇そうだったから」
「でもあなたが寝ちゃうと私が暇」
「そっか」
名前は?という普通の会話もなかった。きっと普通の初対面の人同士だったら、自己紹介を簡単にして、趣味を聞いて、話せそうなところからつつくみたいにコミュニケーションをとっていくはずだ。でもさすがに私は誘拐もどきの相手に名前とか個人情報をこぼすほど警戒心は解けなくて、それが理由で名乗らなかったら、相手も名乗らなかった。そういうこともあるのだな、となんか妙に感心してしまった。
「あそこにさ」
いきなり彼が言った。
彼が指さす方向を見ると、木があった。小さな木。
「あの、小さな木の枝の中に鳥がいるの、わかる?」
小さな木といっても随分と生い茂っていて、中を見ることはできない。素直に首を横に振ると、彼はそっか、と言って続けた。
「多分きみは、自分にイライラしてたんだと思うよ」
繋がりが見えなかった。不思議な人だなぁ、と思ってぼんやりと彼を眺める。
彼のこの言葉がいつも親に言われて、更に苛立っていた言葉と同じ内容だったことに気付いたのは、もっともっと後の話だ。この時はそんなものか、と毒気が抜かれてしまっていた。
やっぱり話のつながりはわからなかったけれど。
「なんでそう思うの?」
「きみ、何歳?」
「……14だけど」
「我慢しようとしてたから」
やりとりのテンポのずれた会話は、やっぱりわかりにくい。なんで今年齢の話になったんだろう。思わず答えちゃったな、とちょっとだけ眉をしかめた。
「あなたは何歳?」
「19」
思っていたよりも若かった。いや、老けて見えるとかじゃなくて、この人の雰囲気が穏やか過ぎてわからなかったんだ。
「我慢してると自分にイライラしてるの?」
「さあ」
話題に興味を持った私に、彼は初めてほんのり笑った。
思えば、この時から彼の言動は謎に包まれていたし、つかみどころはないし、更にテンポは意味不明だしで変な人だった。
だけど彼の視線だけはわかりやすかった。どこを見ているか、どこに興味が向いているのかはわかりやすくて。
私が彼のことをはじめに透明だと言ったのは、水を想像したからだ。他に水分を与えて、少しだけ隙間を作って少しずつ凝っていたものを流してくれるような、そんな川の水。
あの日、私はしばらくしてから帰った。結局名前も知らないまま、いつも通りの日が長いこと過ぎていった。
もうあれから十年以上たつ。いまだにあの日をはっきり覚えてるんだと笑えば、目の前で僕もだよと変わらない笑顔を見せた。