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明日、月の見える場所で

作者: pico

明日、月の見える場所で

序章


水族館で、くらげを見ていた。

虚ろで長い触手に、肉厚でみずみずしい体。

時々、思う。なんでこんな生き物がいるんだろうって。

脳みそもないのにそこにいて、心臓もないのにちゃんと存在の証としての泳ぎを見せている。

私とは何かが違う。

でも、何が違うんだろう、くらげと私と。

ぼんやりとたゆたう様子は、私と似ている気がするのに。

なぜかくらげの方が私を見下ろしている気がして、

淡い光を浴びて泳ぐくらげを、

今日もうらめしそうに見上げた。




その日の午後、親友のツバキと駅前でパスタを食べながら、そんな話をしてみた。

ツバキは、パスタを器用にくるくる巻きながら、

「そんなこと考えてる時点で負けてんのよ、アンタは。比べる対象がくらげってどういうことよ。」

と一蹴した。

「だって、好きなんだもん、くらげ。」

私は手元のコップに注がれた水を見る。浮かんでいる氷がちょっとくらげみたい。

くらげは好きだ。水の中で花ひらくように広がる繊毛。短いレースを付け添えたようなのもいるし、長い長い触手を、ウェディングドレスみたいに重たげに引きずりながら泳ぐのもいる。


「好きなら余計に、なんでそれ見て落ち込むかな??もっとなんか元気出るものとかあるでしょ?イルカショーとか、アザラシとか、そういうの見て元気出しなよね。」

うん、そうだけど…とうつむき、春キャベツとなんちゃらのパスタをくるくる巻く。お皿の上でフォークが音を鳴らしながら空回りするだけで、ツバキみたいに上手に巻けなかった。

ツバキはちょっとため息をついて言う。

「まぁ、さゆりはそんな感じがさゆりらしいと思うけどさ。アンタもそろそろ本気で考えなきゃでしょ?就職。今日の合同説明会はどうだったの?」

ツバキはときどきおせっかいで、でも力強くて、いいなって思う。そんな風に力強く誰かを引っ張れるって、すごい才能だと思う。

「うん、いろいろ見てみたんだけど、いまいちピンとこなくて。」

「まぁさぁ、私もいろいろ見て回ってるけど、なかなか自分のしたいことにがっちり合ってる会社ってないもんだよ?やっぱりさ、いくら待遇が良くても、自分のやりたいことと合致してなければつまんないじゃん?それはさ、なんていうか、辛抱じゃない?いいとこ出会えるまではさ。アタシは、妥協したくないなぁ。」

「そうだね」

でも私、そもそもその「自分のしたいこと」の部分がいまいちピンと来てないんだけど、というのは、今言ったら怒られそうだから、お水と一緒に流し込んだ。


就活の話が上がった時、何がしたいのかと聞かれてなんとなく答えた「本に関係する仕事」ということに、ツバキは随分執着し、図書館司書は資格を取るのが大変だけど学内でも人気の仕事だとか、出版業なら都内に出るべきだとか、いっそのこと個人で店を開いてそこを書店やブックカフェにしたらいいんじゃないかとか、いろいろ勧めまくっている。私はどれもいまいちピンと来なくて、ほとんどツバキの押しに負けて、会社の説明会に行ったり、ぱらぱらとパンフレットを眺めたりしながら、就職活動のようなことをしてみている。


なんだか遠い世界のことのように思えるのだ。

自分が社会人になる、ってことに。

自分が何か、したいことを見つけるってことに。

何か目的を持って生きる、ってことに。

なんとなく、実感が持てずにいる。

……本当に私、ニートになっちゃうのかな。


「まぁ頑張ろう就活生!」と景気良く水を飲み干して立ち上がるツバキに置いてかれないように、いそいそと帰り支度をしてその後を追う。

たぶん今の私が一応生活できていけてるのは、ツバキのおかげだ。






第一章


電車に揺られていると、ふと実家の窓を思い出す。私の部屋は二階だったので、窓の外を見ると、人が行き来しているのが見えた。窓ガラス越しに見る景色は、なんとなく世界の向こう側を見ているようで、小さい頃は窓のところまで踏み台を持っていって、外を眺めるのが好きだった。せわしなく動いている人や町の風景が、画面の向こう側のどこか別の世界の出来事のように思えた。


自分の目の前にいつもガラス窓があって、向こう側で物事が動いていくのをただぼんやりと眺めている。窓を開けて手を伸ばすことは、私にとってはちょっとこわいことだった。

そんな私が、就職なんて。


手に持った会社説明会の案内を、くしゃくしゃに丸めてしまいたい気持ちをおさえこんで、(あるいは紙ヒコーキにしてしまってもいいかもしれない。きっと気持ちよく飛ぶだろう。)次の駅で降りればいいことを確認する。

「一応でもなんでも、アンタも就活生なんだから、ピシッとしなきゃ、ピシッと。」

ツバキの言葉を思い出して、ちょっとだけ背中をのばす。降りる駅のアナウンスが流れて、あわてて立ち上がる。何人かにぶつかりそうになったけど、なんとか降りられた。


地図を見ながら会場にたどり着くと、そこにはすでに何人かの就活生が来ていた。みんな同じようにピシッとスーツを着込んで、なんだか軍隊みたい。なんて、声に出したら絶対に怒られそうなことを考えながら、受付に足を運んだ。

「えっと、本日説明会に来ました、近藤さゆりです。」

「あ、はい、きんどうさん、ですね。お待ちしてました。こちらへどうぞ。」

先に席についている就活生たちのピシッとした姿に少し緊張をしながら、案内された席についた。こういう場所は、来るだけで1日分、いや1週間分くらいの、エネルギーが持ってかれる気がした。


その会社の社長だという人が出てきて、企業の説明が始まった。一応あとで見るかもしれないと思ってメモをとる。周りを見ると、みんな一生懸命にメモを取っていて、熱心だなぁと思う。そんなにいっぱいメモすることはないので、自分が感じたことなんかも書いてみる。そうしていれば少しは熱心に見えるのかなぁと思いつつ。

働くことって、何が目的なんだろう。

そういうもんだ、と言われてしまえばそれまでだけど、

もし働かなくても生きていけるとしたら、

この『仕事』っていう仕組みは、一体何なんだろう。

仕事なんかしなくても、生きていける世界があったら、

それはツバキの言う「つまらない」世界なのか。

だとしたら私は、

私の今いる世界は……。


会の中盤では、実際に働く何人かの社員さんが紹介された。その会社の社長はすごく活き活きしていて、「私はコミュニティや人のつながりを大事にしている、そういう人に入ってきてほしい」なんて話すから、どんなフレンドリーで熱血な人が出てくるのかと思ったけれど、普通に物腰の柔らかそうな男の人や少し控えめな女の人で、少しほっとする。別に熱血じゃなくてもいいのか、と思い、そのまま『熱血でなくてもおーけー』とメモを取る。

その時、後ろからクスリと声が聞こえた。振り返ると、スーツ姿の爽やかな感じの若い男性が、口元をおさえて笑いをこらえていた。どうやらここの社員さんらしい。

あわててメモを隠しながら、小声ですみません、と謝る。男性はなおも可笑しそうに笑いをこらえていたが、ふーっと息を吐くと、ゆったりと、「大丈夫ですよ、熱血でなくても。」と付け添えた。

笑顔が素敵な、少し撫で肩の、落ち着いた感じの人だった。短く切り揃えられた髪がやわらかそうに揺れている。メモを覗かれて笑われてしまったのが恥ずかしくて、私は思わずうつむいた。

それから後の説明は、全然耳に入って来なかった。


会が終わると、二次選考の案内が配られて、そこで解散となった。みっともないところを晒してしまったな、と思いながらさっきの人を探すと、受付のところで他の就活生の質問に乗っている。立ち居振る舞いが、スラッとして「デキる社会人」といった感じだ。

やっぱり会社の人だったんだなぁ。そう思いながらそそくさと帰ろうとすると、その人に呼び止められた。

「あぁ、あの、今日はありがとうございました。もし良ければ、質問にお応えしましょうか?」

いきなり話しかけられてびっくりしたのと、引き留められる形になって緊張したのとで、いえ、私は…と言って断ろうとしたが、質問をしていた就活生がお礼を言って去ってしまったので、なんとなく残らなければいけない空気になってしまった。

「えーっと……」

私は完全にかたまってしまう。

まじまじと私を見つめるその人と目が合った。目の下に小さなほくろがあった。

すっかり萎縮してしまった私の様子を見兼ねたのか、「座りますか?」と窓辺のテーブルを指差される。

もちろん私が断れるわけがなかった。


ガラス張りの窓際にあるテーブル席にその人が座ると、後ろに窓の外の景色が見えた。昼下がり、夕暮れが近づいている時間帯の、少し気だるくて平穏な空気が私の緊張をゆっくりほぐす。

何を聞いたらいいんだろうとぼんやり考えながら私もぎこちなく座ると、その人は申し訳なさそうに笑いながら言った。

「見ちゃいけないなと思いながら、どんなことを書いてるのかなと思って覗いてしまいました。なんていうか、感受性が豊かなんですね。」

改めてメモを見てみると、


・この人たちは何時に起きているの?

・朝ごはんは食べるのか

・コミュニティ?コミニュティ?よくまちがう

・社会人になるとお昼ごはんを作るようになるのか

(ランチ代が高そう!)

・原稿は人とやりとりしながら進める

 →原稿って四百字のやつ?(作文用紙みたいな)

・うまく話せない人が来たらどうするのか?

(もしくはものすごく変な格好の人。話に集中できなかったらどうしよう。録音とかしておけるのか。)

・作業がおそいとどうなるのか。大変そう。

・熱血でなくてもおーけー ……


思った以上に恥ずかしいことや情けないことが書かれていて、半ば無意識にこれを書いてしまった自分を責めたくなった。

「いろんなことに引っかかりながら聞いてるんだなぁって思いました。」

男性はまじまじと私の顔を見て、にこっと笑った。

「大丈夫ですよ、熱血でなくても。それと、朝ごはんも普通に食べます。お昼は、僕は作っていくことが多いですけど、ランチ代はそんなに高くないですよ。うまく話せない人がいたら、かぁ……。あはは、変な格好の人が来たら、僕も笑っちゃいそうです。そしたら必死に笑い堪えないとですね。他にも何か分からないことありますか?」

「えぇと……」

急に話を振られて戸惑いながらも、ゆっくり待ってくれているその人の姿勢に押されて、気づいたらこんなことを聞いていた。

「働くって、楽しいですか?」

その人は少し驚いた顔をしていたが、(私もこんなことを聞いてしまった自分にびっくりした。)その人は真摯に考えこんで、

「うーん…楽しいというよりは、働くことが原動力になってるって感じですかね…。」

と言ってさらにしばらく考え込んだ後、困ったような顔でこう付け添えた。

「実は、僕も転職しようと思ってるんです。」

先程の笑顔とは打って変わった、少し苦しそうな、弱々しい笑顔だった。


その日の帰り、もらった名刺を手に電車に揺られながら、考え込んだ。

霧島(きりしま) (すぐる)

渡された名刺にはそう書かれていた。転職したら繋がらないんで、期間限定で。と言いながら、何かあったら個人の携帯の番号にかけてくれと、半ば追い返される形になった。

なんとなく、転職という言葉がしっくりこなくて、爽やかに笑っていたあの偽りも何もないような笑顔が、なんだかやっぱりしっくりこなくて、ちぐはぐな感じがした。

味の分からないあめ玉を口の中で転がしているような、

不思議な感じ。

社会人になると、いろいろあるのかもしれない。笑いたくても笑わなければならない、そんなときが。でもあの人の笑顔は、なんだかとても自然で、そしてそれがなんだかとても、不自然に思えた。

霧島さん。

もう一度名刺に目を落とす。なんだか気になる、気にかかる人だった。

夕陽がビルの間に見え隠れして、窓ガラスの向こう側の街並みを照らし始めている。電車の窓から落ちた斜陽が、すっと名刺を茜色に染めた。


第二章


朝起きると、気だるさで全身が重かった。だるいな…、と心の中でうめきながら、ベッドから降り、風呂場に向かう。ひどく気だるかったが、シャワーで何とかそれを洗い流して、スーツを着込んで、会社に向かう。それがほぼ毎日の、日課のようになっていた。

満員電車の中で、仕事のスケジュールを思い浮かべる。午前中に来週の定例会のための書類づくり、昼前にミーティング、午後は会社説明会の補助、夕方に原稿のゲラのチェックを入れて明日までに出稿。来週までに今抱えている記事を仕上げたら、完成記事を持って挨拶回り。

入社して4年。仕事にもやっと慣れてきた。一度習慣化してしまえば、だるくても体をそこに合わせていけばいい。そうやって何とか日々を回している。

仕事をしても、次から次へと次の仕事が降ってくる。どこまで続くのか、果てしない。アメリカ映画でしか見たことのないような、先の見えない広大な砂漠の中の一本道を、一人だけで歩いている感覚。

人生もそうだ。鎖に縛られているわけでもないのに足は重く、到着したい場所があるわけでもないのに歩かなければならない。陽射しが容赦無く肌を焼き尽くし、それでも歩みを止めるのは罪であるかのような、漠然とした義務感が纏わりつく。

生きても、生きても、まだ生きなければならない。

それはなんという徒労だろう。


会社に着くと、女上司の三宅さんが声をかけてきた。

「霧島くん、お疲れ。今日は時間に余裕がありそうだからこないだのレジュメ見れるけど、資料できてる?」

新しい企画を持ってきて、それが良ければ採用する。そんなお達しが来ていた。自分なんかがやりたい企画など思いつきもしないが、無難で受けが良さそうなものならいくらだって作れたので、もうとっくに完成はしている。

できてますよ、と笑いながら言うと、三宅さんはさすが!と褒めて、レジュメに目を通した。

「おっ、頑張ってるね〜。なかなかいいんじゃない?さすが霧島くん。後でじっくり見とくね。」

そんなにじっくり見ても、深みも何もないですよ、と思いながら、笑顔でありがとうございます、と返す。自分の意志などなくても、人が気に入りそうなことを言ったり、気に入られそうな振る舞いをすることは、昔から難なくできた。父親がいなく、母に気を遣って生きてきたからだろうか。そうしていた方が、周りに内心を悟られなくて、楽なのだ。

案の定、三宅さんは資料を見ながらうんうんと満足そうに頷いていた。


その日の午後は会社説明会の補助をすることになっていた。会場の設営をし、説明を聞いている就活生を観察する。会が始まり、社長の説明が始まると、就活生は皆一様にメモを取り始めた。

どんな気持ちで自分がそこにいたのか、4年前の自分を思い出そうとする。なんの意志も持っていなかったような気がする。人受けのいいことを言っていたら、あれよあれよと言う間にいつの間にか就職していた。当たり障りのないことを言っていれば切り抜けられる。それがいつの間にかしっかりと身に染み付いている。

ふと、就活生の中で一人、気になるのを見つけた。少しぼさっとした髪をやる気なく後ろに束ね、なんとなく覇気がなく、ぼうっとしたり、きょろきょろ辺りを見渡したりしている。観察していると、説明に全く興味が無さそうなのに、メモをやたら丁寧に取っているのが気になって、後ろから回りこんで気付かれない程度に覗き込んでみる。


・この人たちは何時に起きているの?

・朝ごはんは食べるのか

・コミュニティ?コミニュティ?よくまちがう


メモの視点が独特すぎて、思わずまじまじと覗き込んでしまった。どうやら会話の端々の何気ない言葉から、いろんな連想をして書いているようだ。見ていると、どことなく、仕事や自分に自信がないような様子も見られた。

ウチの社員が登場したときに『熱血でなくてもおーけー』と書いたのを見て、思わず笑いが漏れてしまった。しまった、と思ってその子を見ると、小柄な彼女は、怯えた小動物のように、びくっとしてこちらを見る。笑いを堪えながら、大丈夫ですよ、熱血でなくても。と伝える。他の就活生よりも、よっぽど個性的で印象的だった。


会の終了後、なんだかもう少しだけ話してみたくて、彼女を呼び止めた。窓際のテーブル席に申し訳なさそうに座った彼女は、やはり自信が無さげで、でもそれを隠さずにきちんと全て知っている、というような、落ち着いた明瞭さが見受けられて、「悟り世代」というのはこういう感じなのか、と考えていたら、いきなりこんな質問が飛んできた。


「働くって、楽しいですか?」


その瞬間、ドクン、と心臓が大きく鼓動する。

働くのは楽しいか。

鋭く尖った槍を眼前に突きつけられたようだった。

突然に核心をつかれたようで、いやな汗が出てくる。

それでもなんとか考え込むフリをして、当たり障りのないことを言おうと取り繕った。

「楽しいというよりは、働くことが原動力になってるって感じですかね…。」

言っているうちに、ばらばらと足元がぐらつくような感覚がした。口にした言葉が、あまりにも本心と違いすぎたからだ。自分の声を遠くに聞いていた。

原動力。そんなものは、僕にはない。

何でも分かっているような、悟った目で見つめてくる彼女に、なんだか全てを見透かされているようで、時間が長く感じられた。そして嘘をつくのはあまりにも不誠実な気がして、少し考えたあと、申し訳程度にこう付け添えた。「実は、僕も転職しようと思ってるんです。」

それも、本心ではなかった。転職したとて、また次の場所で仕事が始まる。仕事をしないでいるとしても、生きているということからは逃れられない。

働くのは、楽しいか。

答えは明白だった。




第三章


会社説明会でこんな人がいたと、ツバキに話したら、

「転職するっていうのはよく分かんないけど、連絡していいって言われたんでしょ?チャンスじゃん!せっかくだからいろいろ聞きなよ!二次選考のための情報も聞けるかもだし!」とまくし立てられた。

二次選考は、受けるつもりがないんだけど…。と言おうとしたが、多分怒られるから、言わないでおく。後で、やっぱり受けなかったと伝えよう。でもそれももっと怒られそうな気もするから、受けたけど落ちたことにしようかな。

二次選考のことは置いておくとしても、あの人の笑顔はやっぱりどこか気になる気がして、ちょっとだけでも、連絡してみようかなとも思う。

「でも自分から連絡する勇気はないよ」とツバキに伝えると、「じゃあ私が連絡してあげるね」と名刺を奪われ、「えー、やめてよ、だったら私が連絡するよ。」と答えたら、「じゃあ、はい!」と名刺を返される。ツバキは有無を言わさぬ笑顔で、にこにこと笑っていた。

むーっとしてツバキをにらむ。ツバキは私の扱い方を、よく心得ている。


その日の夕方、一度電話をかけてみた。繋がらなくて、内心ほっとした。でもちょっと残念な気もした。二回目かける勇気はさすがに無かった。

その日の夜、折り返しの電話があった。でも心の準備が出来ていなくて、とっさに居留守を使ってしまった。なんだか申し訳ない気持ちになった。

次の日の夜、大学でその話をしたらツバキに怒られたので、もう一度かけてみた。今度は繋がった。繋がった瞬間、そういえば何を話せばいいのだろうと疑問が湧いてきて、「やっぱりいいです」と断っていた。

その次の日の夜、向こうから電話がかかってきた。内容を聞いてびっくりした。その日はなかなか寝つけなかった。


そしてその次の日の昼、

私たちは駅前の喫茶店でお茶をすることになった。


大学の講義を聞きながら、(その日の講義は比較文学で、アメリカ文学とフランス文学の違いについて講じていた。)昨日の電話のことを考えていた。ツバキには、その日会うことは言わなかった。なんとなく、言わないでおきたかったからだ。(言ったらぜったいめんどくさいことになる、というのも大きかった。)

「こんばんは、霧島です。夜分遅くにすみません。今少しお話がしたいんですけど、いいですか。」

昨日もらった電話で、霧島さんが言ったことを思い出す。「僕たち、会ってお話をしませんか。」

「えっ?」

「完全な僕の我がままです。もう一度だけお話がしたくて。先日お話したことは全部嘘です。今度は会社の人間と就活生というのでなく、ただの人間同士と思って会ってくれませんか。」


講義が終わると大学を出て、駅前の喫茶店へ向かった。約束の時間の10分前にそこに着くと、「霧島さん」らしき人がすでに店に入って座っていた。あのときと同じで窓際の席で、あのときと違って、(当たり前だけど)スーツを着ていなかった。スーツを着ていないその人は、すぐにその人だと見分けられなかった。

「こんにちは」

私はおずおずと話しかけ、ぱっと顔を上げたその人と目が合う。一瞬、目の奥にほんの少しのかげりがあったように見えたが、すぐにあの爽やかな笑顔になって、

「あ、こんにちは。どうぞ。」と座るのを促した。

スーツを着ていない彼は、ゆったりとした七分袖のシャツにデニムのジーンズという初夏にふさわしい格好で、窓の外の木漏れ日を浴びていた。私は少しよれてくたくたになったワンピースの裾を手で直して、緊張しながら席に座った。

何か飲みますかと勧められ、アイスティーを注文する。

「ごめんなさい、いきなり呼び出したりして。」

「いえ、」

と言いながら何を言ったらいいか分からず黙りこむ。アイスティーが来るまでの間、時間がスロー再生になったみたいに遅かった。その間、「霧島さん」は何か考え事をしているようだった。

霧島さんは、しばらく考え込んだ後に、こう切り出した。

「先日、説明会でお話したこと、覚えてますか?」

「え、はい…」

メモを見られて、感受性が豊かだと言われた。働くことは楽しいですか、と聞いて、転職したいと思ってるんです、と言われた。どれのことだか、分からなかった。

少し悩みながら、彼は話し出した。

「あのときお話しした、働くことが楽しいとか、原動力だとかいうのは、実は全部嘘です。会社が悪いんでなく、僕自身の問題、ですけど……。」

そこで彼は言葉を切って、少し黙ったあとでこう続けた。

「だからといって、転職したい、というのも、嘘です。今の仕事に、不満はないけれど、転職したいということもありません。」

そこまで言って彼は、また不自然に自然な笑顔で笑った。

「君は、おそらく純粋に、疑問に思って訊いているのだと思ったし、いろんなことに引っかかりながら、いろんなことを考えながら、君は何かをつかもうとしているんじゃないかって、僕にはそう見えました。……そんな君対して、本当じゃないことを言うのは、なんだかひどく不誠実な気がして、そして何故だかそれを、君にどうしても、話さなくてはいけない、ような気がして……。」

たしかに、何故だろう。私にも分からなかった。どうしてこの人は私なんかに、こんなことを言うんだろう。初めて会ったばかりなのに、わざわざ呼び出してこんなことを言う義務は、まったくないように思えた。

それから、二度目に会ってみてやっぱり思った。どうしてこの人は、そんな気持ちを抱えながら、あんなに爽やかに笑ってしまえるんだろう、って。

「なんだか変なことを言ってますね。」霧島さんは困ったように、可笑しそうに爽やかに笑う。初めて会ったときに感じた違和感もこれだ。笑顔と内心がちぐはぐな、この感じ。でも、今日会ってみて少し分かった。この人は自分の身を一生懸命守ってるんだ……。

そこまで気づいたとき、何かがすとん、と腑に落ちたようで、くすりと笑ってしまった。霧島さんは少しおどろいた顔をして、

「やっぱり、変でしたか?」

「いえ、あの……納得したんです。」

そういって、私はアイスティーの氷をカランカラン、と回した。

「なんだか変だなって、思っていたので。」

アイスティーに浮かぶ氷が、木漏れ日を浴びてきらきらと光った。霧島さんは、私のそんな様子をしばらく眺めていたが、思い出したようにこう口を切った。

「あの、僕からも、聞いてもいいですか。」

「え、っと、はい」

なんだろう、と私は身を固くする。

「近藤さんは、どうして、ウチの会社が楽しいかとか、仕事が楽しいかではなく、『働くことが楽しいか』って聞いたんですか?」

どうして。どうしてだろう。すぐには答えられなくて、黙っていたら、霧島さんはこう続けた。

「あの後、自分の言ったことを繰り返し考えながら、君の言葉についても考えました。なんだか、働くこと自体に、疑問を持っているような気がして。……近藤さんは、どんな風に、生きていたい、ですか?」

言葉を選び選び、迷いながら発言しているようだった。この人も、生きることに迷いがあるんだ、と思った。

この人も?ということは、私も生きることに迷っているのかな。……そんなこと、考えたこともなかった。

どんな風に生きていたいか。

いきなりそんなことを聞かれて、びっくりしたけれど、

何かを待つように真剣に見つめる彼に押されて、私も考えてみる。そもそも私は、生きていたいのかな。

「うーん……。どんな風にかは、分かりません。けど、生きていたいかいたくないかで言ったら、生きていたいんだと、思います。……たぶん、くらげなんだと思う。」

「えっ?」霧島さんがすっとんきょうな声を出す。

私はうつむいて、続けて言った。

「多分、くらげなんだと、思います。水の流れに逆らえないっていうか……どこへ行きたいとか、何がしたいとか、自分からはそういうことは、思わずに生きていて、何かをするときにも、いろいろなことに実感を持てない、というか。」

自分でも、言いながら、あぁ、そうなんだ、と思った。言葉にしてみて初めて、自分の気持ちの形を確かめるような感じだった。こんな風に言葉にすることで、自分の気持ちを知るのが新鮮だった。こんな風に自分の本心を、誰かに話すのも、多分、初めてだった。不思議と、この人の前ではすっと、素直な言葉が出てきて、そんな自分にも少し驚いていた。

霧島さんはしばらくまじまじと私を見ていたが、ふっと笑い出して、

「本当に、おもしろいね、君は。」と言ってコーヒーを静かにすすった。二人でしばらく窓の外の木々を眺める。なんだか不思議な時間だった。初めて会ったのに、初めてな気がしない。不思議と落ち着く沈黙だ。

しばらくして、霧島さんはぽつりと、こう言った。

「近藤さん。今度、一緒に水族館に行ってみませんか?」

人生で初めて、男の人からデートに誘われた。



第四章


デートだと意識するとなんだか落ち着かなくて、ワンピースもいつものしわしわのでなく、ちゃんとしたのを選ぶ。(と言っても、普段から服装に気を遣っているわけではないので、それなりに見えるものを選ぶのが精一杯だった。)

ツバキに相談しようか迷ったが、やっぱりいろいろ言われそうで、黙っていた。いつもなら何気なくふらりと立ち寄る水族館だったが、男の人と、となると妙に緊張した。待ち合わせ場所に行くと、霧島さんはまたもや既に到着していた。(私がぼんやりし過ぎているのかもしれない。)

水族館の前で霧島さんは、半袖のTシャツにジャケットと黒いパンツという格好で立ちながら、爽やかな笑顔で手を上げた。「お待たせしました」と私がうつむくと、「行きますか」と言って私の数歩先をゆっくり歩き始めた。

水槽の魚たちを一つ一つ見て回りながら、時々彼は「この魚はなんて言うの?」とか、「これはどんな生き物?」とか聞いては、私の話に耳をかたむけた。私がよくここの水族館に来ていることを、事前のメッセージのやりとりで彼も知っていた。

私は、「この魚は、さかさまになって泳ぐみたい。理由は分からないんですけど……。」とか、「この子は、いつ見ても巣穴から出てきません。引きこもりみたい。」とか、言って回った。


サンゴ礁の水槽のコーナーを曲がると、私の好きな、くらげのいるコーナーだった。一歩その部屋に入ると、私は隣に霧島さんなんていなかったかのように、大水槽のくらげに見とれた。霧島さんもしばらく見とれていたようで、ゆったりと泳ぐくらげを見上げていたが、

「本当に、近藤さんみたいですね。」

とぽつりと呟いた。

どういう意味でだろう、と思ったが、私もほんとにそう思うので、黙って頷いておく。

でも、くらげの水槽の前に来るといつも思う。似ているけど、なにかちがう。私とはどこかがちがっているような気がする。

なんだか、心がざわざわする。

「くらげって、まじまじと見ることなかったですけど、こうして見てみると、なんだか落ち着きますね。」

「え?」

……落ち着く?私は、心がざわざわ、するのに。

「んー…、なんていうか、沈む、というか。」

そう言って霧島さんは、少し苦しそうにくらげを見る。同じくらげでも、見る人によってこんなに違うのか、と、そのことに私はおどろいた。

「近藤さんは、どうしてよくここに来るんですか。」

私たちの目の前を、淡い色のレースをたなびかせながらくらげが横切った。

「どうして……。」

そのくらげを私も見つめながら、考えた。頭がいっぱいになるとき。ぐるぐるするとき。ぼんやりと、何かを考えたくなるとき。私は何度も何度も、くらげを見ては、自分とくらげを重ね合わせる。

「くらげがうらやましい、からですかね……。」

「うらやましい?」

霧島さんは視線をこちらへ移し、訊いてきた。

「はい。私はくらげが、うらやましいです。」

私はくらげの脈動を見ながら、答える。

「うらやましいかぁ……。」霧島さんはしばらくくらげの泳ぐ姿を眺めていたが、「そうですね。僕もくらげになってしまいたいです。」とぽつりと呟いた。

それは諦めにも近いぼやきのようで、霧島さんの心を垣間見たような気がする。霧島さんはいつもの爽やかな笑顔ではなく、真剣な、そして少し苦しげな面持ちでくらげを見つめていた。

霧島さんの横顔が、淡い光に照らされている。

私は生まれて初めて男の人の横顔を、きれいだと思った。


その日から、私と霧島さんは、ぽつりぽつりと、メッセージをやり取りするようになった。今日は何を食べただとか、帰りの電車がすごく混んでいたとかいう、他愛のない話から、普段何を考えて生活しているのかとか、小さい頃はどんな子どもだったかとか、お互いのことが分かるような話もいろいろした。

見慣れたはずの街並みに、霧島さんの影が宿った。道行く人の後ろ姿に、街路樹の木漏れ日に、大学の中庭のベンチに、夕暮れの校舎に。自分の見た景色を、霧島さんにも知ってほしい。霧島さんは今何をしているだろう、どんなことを考えているだろうと、見慣れた街並みに彼の姿を重ねるようになった。


ツバキとごはんに行った時、相変わらずくるくると上手にパスタを巻きながらツバキが言った。

「さゆり、アンタ最近、何かいいことでもあった?」

内心びくっとしながらお水を飲む。やっぱり、ツバキには敵わない。(それとも私が分かりやす過ぎるのか。)私は正直に成り行きを話すと、ツバキはフォークを動かす手を止めて、唖然とした顔で見つめた後、

「それってすごい!さゆり!アンタ彼氏が出来たの!?」と叫んだ。

興奮したツバキの声と、「彼氏」という言葉に、びっくりしてしまって、突然私はうろたえた。霧島さんが、彼氏だとか、そんなこと考えたこともなかった。思いもよらなかったことを言われ、私は混乱した。

混乱する私をよそ目に、ツバキは嬉しそうに私と「彼氏」との今後について話を進めていた。ツバキの活き活きとした声が反響する。

ガラスの、向こう側で。




第五章


水族館でくらげを見たとき、とても、きれいだと思った。

憂鬱な面持ちで水に流される姿に、自分をやや重ねながら、それでも自分と違うところがあるとすればそれは、その淡い明るさだと思った。

いい意味で力を抜いて、水の流れに乗るのをゆったりと愉しむように、素直に身を任せる。

それは確かに、近藤さんに似ていると思った。

そしてそれを、僕は、うらやましいと思った。

頭の中に絶えず渦巻くこの雑音を取り捨てて、くらげのように何も考えずにたゆたってみたい、そう思った。


抱えている記事の取材先との打ち合わせを終え、時計を見ると定時を回っていた。ここ最近、この時間になると頭の中が霞んでくる。頭の中の雑音は、絶えず生きることの虚しさを訴えかけてくる。心に耳栓をして、笑顔でさらりと受け流す。そうしていれば、なんとか平然と生きていられた。

その日も、仕事を終えると、メッセージが入っていた。『おつかれさまです。今日は、夕方に半月が見えました。くらげみたいです。』夕暮れ時に撮った写真も一緒に送られてきている。そのメッセージを見て、少しだけ心が和む。最近は、近藤さんと、やり取りをするようになっていた。

『ホントに。くらげみたいですね。』帰りの電車の中で、返信をする。のんびり屋の彼女にふさわしく、しばらくして忘れていたかのように既読がつく。そんな一日に数回のやり取りが、日々のささやかな楽しみになりつつあった。


彼女は自分にはない感性を持っていて、それでいて、自分とどこか似て行く当てもなく海を彷徨っている。そんな気がした。そんな彼女に、惹かれないわけがなかった。

それと同時に、考え込んでしまう。自分なんかが、この先将来もある、彼女のような人と、関わってしまっていいのだろうかと。


「霧島くーん!2時からの校了チェックの記事出来てるー?」

三宅さんの声が飛んできた。

「はい、出来てます。」慌てて記事を打ち出し、原稿を差し出す。

「さっすがー!助かるー。」

原稿を受け取りながら、三宅さんはうんうんと頷く。僕はにこにこと笑顔で受け応える。急に、気持ちがずんと沈むのを感じた。三宅さんが見ているのは霧島(きりしま) (すぐる)の上辺だけだ。その原稿には何の魂も載っちゃいない。いつもは当たり前だったことなのに、何故だろう、最近は深く沈んでしまう。彼女とやりとりするようになってからだ。


昨日彼女としたやりとりを思い返す。

『霧島さんは、お仕事、つらいんですか?前に、楽しくないと、言ってましたが…。』

ぴたりと携帯を持つ手が止まる。上手いことを言って切り抜けようか、とも思ったが、彼女の前では、嘘はつけない気がした。初めて出会ったときからそうだ。彼女は賢い。ぼんやりしているようで、いろんなことを感じ取って、本当のことを悟ってしまう。だからこそ働くことの意味も見出せていないのだ。彼女のような純粋な心には、嘘も無意味な気がした。

『正直言うと、仕事がつらい、というよりは、』

そこで指を止めたが、思い切って続けてみる。

『生きていくことが、ですかね…。なんだか果てしない旅をしているような気がします。近藤さんは、どうですか?』

忘れかけた頃に、ポロンと返信がくる。

『私は、水槽の中に、ずっといる気がします。水槽の中で、周りの世界を見ているような気がします。』

彼女にぴったりな、表現だと思った。同時に水族館のくらげを思い出す。水槽の中でも、あんなに気持ちよく泳ぐのであれば、それでいいのではないか、と思った。それでもきっと、彼女はいつか、そこを出て行かなくてはならない。出て行かなくてはならないことも、きっと彼女は分かっているはずだ。そうなったら彼女は、この世界でやって行けるだろうか。荒波の中では、あの繊細な触手も、千切れてしまうような気がした。

彼女もまた、迷っている。どうすればいいのか分からず、ただただ水槽の中にいて、外の世界を眺めている。そんな彼女を、僕は助け出したいとすら思った。

『僕と一緒に、水槽の中から出ませんか』と、打ちかけてすぐに文字を消す。そんな度胸も、覚悟も、そもそもこのまま生きていく覚悟だって、持ち合わせていなかった。


生きることに意味なんてない。理由もない。ただただ、上辺だけを取り繕って、息をして飯を食い、その無意味な生を維持するために仕事をして金を得る。何の目的もない。成し遂げたいことも何もない。

いつだって死ねると思っている。

ではなぜ今、死なないのだろう。


その晩、夢を見た。

三宅さんが「さっすがー!」と言いながら、湯飲みを見ている。「いい代物だね。これ、霧島くんが作ったの??」でもそれはただの紙粘土だ。即興で作った、中身のない、カスカスの紙粘土。ずん、と心が重くなる。もう戻って来られないくらいの重みを持って、重心に従い、ぐんぐん沈む。暗い暗い闇に、ぐんぐん落ちていく。

沈んだ先に、彼女がいた。

くらげのように、たゆたう彼女が。

目を閉じ、静かに、たゆたっている。よく見ると、彼女の周りはアクリル板で覆われていて、四角い箱のようになっている。

蓋が開きかかっているのを見つけて、僕はそっと手を伸ばす。とたんに、蓋が一気に開き、彼女がふわりと浮かび上がっていく。僕はそれを掴もうとするが、掴もうとするとするするとすり抜けてしまい、もがいてももがいても届かず、彼女はどんどん上に昇っていってしまう。

急に足に重りが付き、僕は海溝の底へと猛スピードで落ちていった。

目覚めた瞬間飛び起きて、信じられないくらい大きく息を吸う。ばくばくする心臓を手でおさえつけながら、誰もいない部屋を見つめていた。いやな汗で背中が汗ばんで、Tシャツがべったりと張りついていた。


その日を機に僕は、彼女に何の連絡もできなくなった。



第六章


ある日を境に、霧島さんからの返事が来なくなった。最初は何か忙しいのだろうと思って特に気にもしなかったが、2日、3日と経っていくと、だんだんと不安な気持ちが湧いてきて、何度かメッセージを追加で送ったが、どれも返信が来なかった。


同時に、意識がふっと自分自身に向いた。今まで、何も考えずに生きてきたような気がする。小さい頃から、いつも何かが外側からやってくるのを待っているような、そんな子供だった。「苦しい」とか、「嬉しい」とか、そういう大きな感情をなかなか実感できない。霧島さんがいなくなるのは寂しかったが、ぽつん、と取り残されても泣かない子どものように、ただただ心にぽっかりと穴が開くだけで、「悲しい」とか、「辛い」とか、そういう大きな感情 は湧かなかった。つかみどころのない子だね、さゆりは。父と母によくそう言われた。


連絡が途絶えてから1週間。霧島さんからの連絡は今日も来ない。かと言ってこちらから電話をかける勇気もなかった。ツバキに「彼氏」と言われてから、私も少しこわくなってしまって、このまま霧島さんとやりとりを続けていいのかという迷いもあった。

霧島さんのいた時間は、私の人生のなかでずいぶん短かったはずなのに、霧島さんのいない風景は、なんだかもやがかかって、まるで色が何色か、欠けたみたいだった。それでもしばらくすると、そんな色のない世界にも、目が馴染んでくる。

そうしているうちに、あることに気づき始めた。

霧島さんがいなくなって色が消えたんじゃない、霧島さんが現れたから、私の世界に色が増えたのだと。思えば私の世界はもともとこんなだった。彼が私の世界に色を加えたのだ。その事実に、私は少しうろたえた。


いつも通りツバキとごはんに言って、ツバキの話を聞いて、就活の話をして、やっぱり私はいろんなことに実感が持てなくて。生きていくことに、自分の足で歩くことに、自分の意志が全くない。自分の人生なのに、自分自身が一番、自覚を持てないでいる。

私はこの先、どうやって生きていくんだろう。

生きていたいと、本当に思っているのだろうか。


なんだか夜風に当たりたくて、海岸線沿いの国道に出る。墨汁のような海が月の光を浴びてぼんやりと浮かび上がってくる。波は穏やかで、静かな波音が聞こえてくる。暗い暗い海を眺めていると、なんだか心が落ち着いた。

ふうっと息をついた瞬間、少し向こうに小さな人影を見た。夜の海に向かって、頼りなげな足取りで歩いていく。なんだか引っかかる感じがして、私も後をつけてみる。

それは男の人の人影で、やや上を向き、ぼんやりと、一定のペースで歩みを進めていく。なにか、見えていない何かに向けて、あるいは見えちゃいけない何かに向けて、歩んでいくように見えて、そんなことを考えた時、そしてある予感を覚えた時、突然、背すじがぞっとした。

少し足を早める。心臓がだんだん上の方へのぼってくる。男の人は堤防にのぼり、堤防の先まで歩いていく。ずいぶん近くまで来た時、予感は的中した。

「き、霧島さん…!」

振り向いた姿を見て、愕然とした。やっぱり霧島さんだった…!でも、髪はボサボサで、覇気が無かった。何もかもに疲れたような顔をして、頭がうまく回っていないみたいに、私の顔を悲しそうにぼんやりと見た。でも、霧島さんは私ではなく、私の向こう側の景色を眺めているようだった。私は一瞬、自分が透明人間になってしまったのかと錯覚した。

「霧島、さん……?」いつもの笑顔はどうしたの、いつもの、不自然に自然で、でも何かから懸命に身を守るような、あの笑顔はどうしたの?同時に、頭の中でわんわんと警報が響いた。“彼は死のうとしてるんだ” 生きると死ぬとの瀬戸際の、ぎりぎりのところを歩いているような気がした。

私もひどく動揺して、なんて声をかけていいのか分からないまま立ちすくんでいた。やっと理性が戻ってきたのか、霧島さんは少しおどろいた顔をして、

「なぜ君が、ここに……?」

と私の顔をまじまじと見た。初めて焦点が合ったことに、私はひどく安心して、二、三歩歩み寄った。

「偶然、そこを通りかかって、それで…」

それで、ふらふらと歩く姿が見えて、何かに向かって着実に歩いているように見えて、まるで、まるで…

「死んじゃうかと思った……。」

言葉に出してしまったことで、かえって色濃く形どってしまったようで、動揺した。

霧島さんは、「死んじゃう……?」とぽつりと呟いて、しばらくぼうっと私を見つめた。それは、今にも消え入りそうな、夜の闇に呑まれていってしまいそうな、弱々しい姿だった。近くにいるのに、久しぶりに会えたのに、霧島さんはどこかずっとずっと遠くにいる。

早くもどってきて。そんなところにいちゃだめだよ。私は不安な気持ちになりながら、なにか声をかけたくて、でも上手く言葉が出てこなくて、そんな自分が情けなくて泣きそうになった。目の端がじわじわと熱くなる。霧島さんはしばらく苦しそうに私を見つめていたが、やがて「ごめん」と言ったかと思うと、その場を立ち去ろうとした。

「ま、待って」

今どこかへ行ってしまったら、そのままもう戻って来ない気がして、私はかろうじてそれだけ言って引き留める。

少しの沈黙のあと、霧島さんは言葉を絞り出しながら喋り出した。

「……僕には、このままこの先も生きていく覚悟がない。そんな覚悟がないまま、君と関わってしまってはいけないんだ。そう思って、連絡ができなくなった。……僕自身、自分が死ぬつもりなのか、生きていくつもりなのか、まだ決心がつかない。自分がどうしたいのかも、どうするべきなのかも……。……いや、本当は、分かっているのに目を背け続けているだけなのかもしれない……。」

そして私の目を見た。苦しそうに眉間に皺を寄せて見つめたあと、少しだけいつもの笑顔にもどって、

「君には、こんな情けない姿を見せたくなかった……。でも、見られてしまってはどうしようもないね。」

そう言ってから、さっきよりかは幾分しっかりとした足取りで、ゆっくり歩き始めた。少し離れたところまで歩いて、彼はこう言った。

「君は、この先も生きてみたいと思う?」

この先も……。この先も生きていたとしても、自分の意思で泳げるかどうかは分からない。でも死んでしまうよりもマシな気がした。でもそれって、本当に死んでしまうよりもマシなのだろうか。霧島さんは、生きていてもずっとずっと辛いままなんだろうか。

霧島さんと一緒なら、少しだけ、その答えを探していける気がした。

「……分からないけど、探してみたいと、思っています。霧島さんも、探してほしいと、思っています。だから、どこかに、行ってしまわないで……。」

彼はちょっとの間、真剣な顔で悩んでいたが、その後でふーっと長い息をついて言った。

「……もう一日だけ、時間をください。もし明日、僕が生きていく決心がついたら、またこうして月の見える場所で、お会いしましょう。」

そう言って彼は、夜の闇の渦巻く濁流に消えていった。



終章


ジグソーパズルをするとき、私はすぐにあきらめてしまうタイプの子どもだった。完成した絵にたどり着く手前で手を止めてしまう。いつも最後の数ピースまで来ると、上手くいかなくなって、バラバラに絵をばらしてしまった。


昨日は家まで歩いて帰って、服のままベッドで寝ていたので、ワンピースがぐしゃぐしゃになっていた。

昨日の霧島さんの言葉をまた思い出す。

生きていく決心がついたら。

私も、生きていく決心を、迫られているようだった。


覚悟が決まらないままに夜を迎えた私は、ふらふらと家を出た。頭上には夜空をそこだけ白く切り抜いたような、小さな月が浮かんでいる。こんな月がいつも頭上に浮かんでいたら、霧島さんも死を選ばず生きていけるのではないかと思った。でも、どんなに月がやさしく照らしていても、今の霧島さんには届かない。霧島さんが生きていくためには、霧島さん自身が生きることを選ばなくてはならないのだ。彼は今、その真っ只中で、濁流に呑まれながら必死に何かを選び取ろうとしている。もしかしたら選び取るのは、死の方かもしれない。生きることと死ぬことと、どちらを選ぶのも大きな決心である気がした。

海岸線沿いの国道に足を踏み入れた瞬間、足がすくんだ。遠くに昨日の堤防が見える。途端に、心にブレーキがかかる。目の前に開けた海に、足がすくんだ。


気づいたら私は、いつもの水族館に来ていた。

くらげの水槽の前に立って、ガラスの向こう側でゆらゆらと揺れている虚ろな姿を眺める。淡い色のレースのような触手が、水に流されている。水流に負けそうになりながらも、くらげは脈を打つ。

目の前を通り過ぎるくらげは、水流に負けじと懸命に鼓動していた。水流が強いと押し戻されてしまうけれど、押し戻されても、押し戻されても、それでも懸命に脈を打ち、一鼓動ごとに、前へ、前へ、進もうとしている。

そうか、これだ。

その瞬間、ふっと何かが腑に落ちた。

私は、これが、うらやましいんだ。

流されているように見えて、それでも確かに自分の意思を持ち、脈を打つ。もがき苦しむ。そんな姿に、憧れるんだ。弱くても、周りに負けそうになっても、それでも懸命に脈を打つ。それは、生きていくことと同じな気がした。

濁流の中で、もがき苦しむ霧島さんだって、うらやましいとすら思った。どんなに見苦しくても、自分の意思でどこかへ向かおうとする姿は、きれいだ。私にはない、強さだ。押し戻されても、押し戻されても、脈を打つ意思がある。

私は、どうなんだろう。

そんな風に、脈を打つ意思が、私に持てるのか。

脈を打たないくらげは、生きてなどいない。それはただのビニール袋だ。いつまで私は、ビニール袋のままでいるつもりなのか。


「……近藤さん。」

そのとき、なつかしい声が聞こえて、ハッと目の前のガラスを見る。少し離れたところに立つ、霧島さんの姿が映っていた。あの濁流の中で、もがき苦しみながら、それでもなんとか生きようと、懸命に足掻いてここまで辿り着いた、霧島さんの姿が。

私の頬を、すーっと涙が伝う。それがくらげの長い触手と重なった。振り返れば、霧島さんがいる。どこか遠くへ行ってしまわずに、ここへ辿り着いた霧島さんが。

涙を拭いて、振り返る。霧島さんも、まっすぐに私を見る。どうして、こんなところまで来てくれたんだろう。私はこわくて逃げ出してしまいそうなのに。

「やっぱり、ここでしたね。」

「……どうして、分かったんですか?」

「分かりますよ。だって、出てるじゃないですか、月。」

彼の視線の先を追う。そこには水槽の中に浮かぶ月が、白いライトを浴びて気持ち良さそうにたゆたっていた。

「近藤さん。」

昨日の夜、堤防で見たのとは違う、確かな意思を宿して、彼は私をまっすぐに見て言う。

「僕と一緒に、生きましょう。」

何度でも、言う。

「迷いながらでも、苦しくても、何のために生きるのか分からなくても、それでも、生きましょう。生きて、生きて、どこかへと、一緒に行きましょう。」

これから先、たくさんの荒波に揉まれる瞬間があるだろう。でもその一瞬一瞬を、もがきながら、生きたいと思った。生まれて初めて、自分から生きたいと思った。自分から泳ぎたいと、思った。

水槽の中のくらげが、脈を打つ。

他の人にとっては小さな一歩かもしれない。

でも私にとっては、大きな一歩だ。

あたりを照らす海の月を背中に、

霧島さんの確かな意思に導かれながら、

私は一歩、踏み出した。



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