第三話
サヴォイ公爵家当主で兄のアルファートが、領地ノーランドの館をあとにしてから4日が経った。もう、王都に到着している頃だろう。
自分を処刑するかもしれない王太子に会わないため、リリーは公爵家領地・ノーランドに一生引きこもろうと考えていた。が、事はそう簡単ではないようだ…。
リリーは読んでいた本を閉じ机に置くと、窓のそばに行き庭を眺めた。
公爵家ということで、おそらく金銭面の心配はなく、問題なく一生引きこもれると考えていた。しかし、貴族の家に生まれたからこその問題があった。
「リリー様、少しお休みになられては? 焼き菓子をお持ちしましたわ」
水差しや焼き菓子が乗ったワゴンを押しながらマーサは部屋に入ってきた。
マーサはテーブルに置かれていた本を端に寄せようと手に取ったが、タイトルを見て戸惑う。
『許されざる恋情』
マーサはその本は読んだことがなかったが、タイトルからして恋愛小説だろう。
なぜ、リリー様がこのような本を……?
事故後のリリーの様子にマーサは戸惑うばかりであった。
事故前のリリーといえば、文字は何とか読める程度、絵本を自分で読むことはなく、読んでほしいとマーサに言っていた。
なのに今は、「絵本は嫌だ」から始まり、辞書を引きながらいろんな本を読んでいる。
事故前と事故後の様子があまりにも違いすぎるのだ。
心配になり、アルファート付きの年上の侍女にそれとなく相談してみたが、
「アルファート様は2歳で本を読み始められたから、遅いぐらいよ。本がお好きになられたのであれば、側付として喜ばしいことではないの」
と、取るに足らない、逆にもっと喜ぶようにと促される始末であった。
リリーの兄で公爵家当主となったアルファートから呼び出されて、執務室で会った時のことも思い出した。
リリーの様子を尋ねられたとき、マーサは自らが感じている違和感を直接訴える機会を得られたと喜んだが…。
「絵本を読まなくなった?」
マーサからリリーの様子を聞いたアルファートは視線をずらした。
そして暫しの沈黙のあと、「それが、何か問題なの?」
「事故に遭われる前と、あまりにもご様子が違います」
「本を読むようになったから、具合が悪いのではないかと?」
アルファートは小さく笑った。
「むしろ本を読むようになったのは良いことだと思うが」
マーサは分かってもらえず失望した。
そうよ、アルファート様ご自身が『よくお出来になられる方』だから、6歳の子どもが歴史書や経済論を読んでも違和感がないのだわ。
マーサは一週間ほど前の出来事を思い出し、ため息をついた。
手にしている本のタイトルをもう一度心の中で反芻する。
『許されざる恋情』
6歳で恋愛小説を読む?
答えの出ない疑問を自身の中で問いかけ続ける。
「マーサ、その本、図書室に返してきて」
リリーの声にマーサは我に返る。
「…かしこまりました」
「やっぱり、自分で行くわ」
リリーはマーサの手から本を受け取り、長椅子に座った。
マーサはリリーの前に水の入ったグラスと焼き菓子を載せた皿を置き、部屋の隅で控えるため一礼して後退ろうとしたとき、
「マーサはなぜ、ここで働いているの?」
「なぜと申されましても…」
質問の意図がわからず困惑する。
「別の仕事は考えなかったの?」
「こちらでの仕事は、わたくしの両親が決めたことですので…」
「やはり、そうなのね。親や親族の意見が通るのね…」
リリーは水を飲み、ため息をついた。
何か考え込んでいる風のリリーの姿にマーサは不安になる。
「あの…、リリー様…、わたくし、何かお気の触るようなことをいたしましたでしょうか?」
リリーはマーサの震える声に驚いて顔を上げた。
「違うわ! そうではないの! ただ、ちょっと知りたかっただけ」
マーサが暇を出されると誤解していると感じたリリーは慌てた。
「知りたいと申されますと…?」
「どんな職業があるのかなって」
マーサにはリリーの言葉が理解できない。
なぜ、公爵令嬢として生まれてきたリリーがそのようなことを知りたがるのだろう、と。
リリーは自分を見つめる不可解そうなマーサの視線に気づいた。
リリーは水を口に運ぶ。
明らかにおかしかったわよね。公爵令嬢で職業に興味があるなんて。
でも、仕方ないじゃない! だって、わたし、働かなくてはいけないもの!
次回更新予定 8月9日(日)