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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
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世界に彼女がいるのなら

作者: ピッチョン

【登場人物】

有住ありずみ深空みそら:二十六歳。事務をしているOL。同性愛者であることを隠して生活している。

五十嵐レミ:二十歳。大学生らしい。同性愛者。奔放で明るい性格。




 苦痛だ。

「――うちの部署で付き合うとしたら誰がいい?」

「え~、誰だろ~」

「私は志水係長かなぁ」

「結婚してんじゃん。もしかして不倫願望?」

「そんなんじゃないよ、あくまでああいう人がいいってだけ。落ち着いててしっかりしてるし」

「私は合田君~」

「お、若い子いっちゃう? 結構軽そうだよー?」

「でもほら~、若い方が強く求めてくれそうだし~」

「なになに? 欲求不満?」

「そういう意味じゃないよ~」

 頼むからこっちにだけは話を振らないで。

 私は愛想笑いを顔に張り付かせたままドリンクグラスを持ってちびちびとストローを吸いながら祈っていた。

 昼の時間帯のファミレスは私達のようにランチを食べにきたビジネスマンやOLで賑わっている。店内の喧噪をBGMに同僚の女性三人が楽しそうに会話をしていた。それ自体はいつものことではあるが、内容が良くない。

有住(ありずみ)さんは?」

 うぇっ。話を振られて不快感に内心毒づきながら控えめに笑う。

「私は特には」

「そういえば有住さんのそういう話ってあんまり聞かないよね」

 いちいち深くまで突っ込んでこなくていいから。だが勿論そんなことを言えるわけもなく。

「有住さんのタイプってどんな人~?」

「えーと……明確にこれって言うのはないけど、ちゃんと気遣い出来る人がいいかな」

「あー、自分勝手なのはイヤだよねぇ」

「顔は? 芸能人で言ったら誰?」

 頭に浮かんできた数人をすぐに消す。今求められているのはその人達の名前ではない。何故なら同僚たちは私とは違うから。

 私が適当な男性俳優の名前を言うと、彼女たちは「あ~」と納得したように頷いた。

 ――何も分かってないくせに。

 今度は芸能人談義を始めた同僚たちを横目にドリンクを飲んで心を落ち着かせる。胸の奥がちりちりと痛い。息が詰まる。今すぐ店を出て会社に戻りたい。でも出来ない。彼女たちは何も悪くない。悪いのは私。

 なんで、こんな世界に生まれてしまったのだろう。

 愛想笑いと相槌を返しながら、私はひとり溜息を飲み込んだ。



 自分が同性愛者だと自覚したのは高校生になってからだった。友達が話す色恋事に何一つ共感が出来ず、テレビで男性アイドルを見ても何とも思わず、よく分からない疎外感を感じていた。一番仲が良かった女の子が男子と付き合い始めたとき、押し潰されそうな胸の痛みとともにようやく『私は女の子が好き』なのだと理解した。

 自覚したからと言って何が変わるわけでもない。私は自分の性的指向を家族にも友達にも打ち明けなかった。打ち明けて何になる? 苦しさを分かって欲しい? 認めて欲しい? それは私の都合だ。いきなり聞かされた方からすればどうだ。昔よりも認知されやすくなったとはいえ、一から十を理解してくれることは難しい。打ち明けたことが原因で疎遠になる可能性がある以上、私にはどうしても踏み出せなかった。

 その結果が今の私だ。社会人になっても恋人を作ろうともせず、したくもない恋バナに愛想笑いを振り撒き自分の心を抑え込む。恋愛の話をしなければここまで思い悩むこともないのだが、人はとかく色恋沙汰に興味がある生き物だ。テレビのニュースから芸能人の恋愛騒動がなくならないように、同僚たちの会話からも恋愛に関することはなくならない。だから、つらい。

 仕事が終わっても憂鬱な気分は晴れなかった。恋愛話にたくさん付き合った日はいつもこうだ。こういう日は早く家に帰って軽くお酒でも飲んでさっさと寝るに限る。

 会社を出てから寄り道もせずに駅へと向かった。駅周りには飲み屋や飲食店が多く、仕事帰りの会社員で賑わっていた。帰りはどこで晩ごはんを買おうか、なんて考えながら駅に入ろうとしたとき、ドン、と正面から結構な勢いで何かがぶつかってきた。

「うわっ!」

「――ちょっとどいてよ!」

 その女の子は謝りもせずに声を荒げた。ウェーブのかかった明るい髪に派手目のメイク。年齢は二十前後だろうか。

 女の子は急いで後方を確認すると舌打ちをしてからいきなり私の腕を引っ張った。

「え――」

 そのまま入り口から身を隠すように壁に引き込み、私を盾にして体を小さくした。

「何を……?」

「しっ! 変なのに追われてるから匿って!」

「変なの?」

「ほら、いいから抱き締めて隠して!」

 剣幕に押されて言われるがままに女の子を抱き締める。私よりも体格が小さいおかげで腕の中に収まった。

 一つ問題があるとすれば身体の柔らかさが否応なしに私に伝わってくることだ。学生時代友達に軽く抱き着かれたことはあってもこうやって自分から抱き締めたことは一度もなかった。それが――こんなにも素晴らしいものだったなんて。

 私はひとり感動を噛みしめていた。女の子の柔らかな感触が、呼吸をするたびに膨らむ背中が、頬に当たる髪の毛が、鼻孔をくすぐる香水の匂いが、私の鼓動を高鳴らせる。

 ふと何人かが走ってくる気配がした。けれど反応をしては怪しまれてしまう。私は女の子の顔を隠すようにぎゅっと抱き締めた。決してやましい気持ちからではない、と自分に言い訳をして。

 しばらくして気配が遠ざかった後、女の子が小声で聞いてきた。

「……行った?」

「多分……」

 女の子はそろりと首を伸ばして周囲を窺い、どっと息を吐いた。

「はぁ~、ありがと、おねーさん。助かったよ」

「あ、うん」

 状況はよく分からないが、危ないことから逃げられたなら良かった。

「もう離していいよ」

「え? あ、ご、ごめんなさい」

 抱き締めたままだった腕をほどくと、何故か女の子は私の顔をじっと見てきた。

「な、なに?」

「んー? いやべつにぃ? ところでさ、おねーさんはこれから帰るとこ?」

「そうだけど」

「よし、じゃあ帰ろ」

 女の子が私の手を握ってきた。それも恋人繋ぎで。

「……え?」

「ほら、行こ」

「いやあの――」

「匿ってくれるって言ったじゃん。私今ちょーっと家に帰れないんだよね~」

「でも」

「行こ行こ~」

 女の子は強引に私の手を引っ張って駅の改札へと歩きだした。振り払うことも拒否することもしなかったのは、本当に情けない話なのだが、せっかく女の子と繋いだ手を離してしまうことを惜しいと思ってしまったからだ。恋人繋ぎをして女の子とデートをするのにずっと憧れていた。これはデートではないが、こうやって手を繋げただけでも嬉しい。

(これは困っている女の子を助けてあげてるだけ。未成年じゃないなら大丈夫。未成年じゃないなら大丈夫……)

 心の中で呪文のように唱えながら、手を引いて前を歩く女の子に追いつくために強く地面を蹴った。


 

「自己紹介まだだったよね。あたし、レミ。二十歳(はたち)の大学生だよ。おねーさんは?」

 電車を降りて弁当や替えの下着類を買った後、私のマンションへと向かう道すがらレミが話しかけてきた。手に提げたビニール袋を無駄にぶらぶらさせている。

「私は、有住(ありずみ)深空(みそら)……二十六歳。それでえっと、レミちゃんは――」

「レミでいいよ、年下なんだし。そーいや深空ちゃんはなんのお仕事してるの?」

 当たり前のように下の名前で呼ばれてどきりとする。

「事務を……」

「お仕事大変?」

「まぁ、そこそこには」

「休みの日は何してるの?」

「家にいるか、買い物に行くか……」

 私の気を知ってか知らずか、レミは無邪気な笑顔を浮かべて楽しそうに話していた。

 マンションに着いて部屋の鍵を開けると、レミが「お邪魔しまーす」と中に入っていった。

「あ、待って、ちょっと片付けるから」

「へーきへーき。うん全然綺麗じゃん。コンセント借りるね~」

 部屋の電気をつけて勝手にスマホの充電を始めるレミ。そのまま自然な動作でテレビのスイッチを入れる。来るの本当に初めて? と思ってしまうくらい慣れている。厚かましい、と言うのかもしれないが。

 買ってきたものを台所に広げながら尋ねる。

「食べる前にシャワー浴びる? お風呂がいいなら沸かすよ」

「じゃあお風呂~」

 私の本棚を物色しだしたレミに苦笑する。すでに匿うというより友達の家に遊びに来たみたいだ。いや、もう自分の家感すらある。

 お風呂の自動お湯張りをセットしてからお弁当を温めて持っていく。

「ご飯食べよっか」

「は~い」

 小さなテーブルの上にお弁当やコップを広げ食べ始めた。駅内のスーパーで買ったお弁当だが、レミは『けっこー美味いじゃーん』と喜んで食べていた。

 私は黙々と箸を進める。落ち着いたところでそろそろきちんと聞いた方がいいだろうか。

「……変なのに追われてるって言われてたけど、大丈夫なの? もし危ないなら警察に連絡しようか?」

「あーだいじょぶだいじょぶ。あたしが悪いんじゃないし」

「何かあったの?」

「この前ビアンバーに行ったときに恋人とケンカしたーって愚痴ってる娘がいたから、慰めついでにしちゃったんだよね。そしたら今日そのバー行ったら恋人がお(とも)従えて待ち構えてやんの。あたしが無理矢理襲ったんだろって。ふざけんじゃないわ。ちゃんと合意だったっつーの」

「…………」

 言葉を失った。その内容にも、それを何食わぬ顔で話すレミに対しても。

 食べる手が止まった私を見てレミがあっけらかんと告げる。

「あぁ、あたしレズビアンだから」

 まるで当たり前かのようにカミングアウトしておかずを口へと運ぶ。

 私はお箸を強く握り、レミを見つめた。視線に気付いたレミが箸を舐めて笑う。

「心配しなくても深空ちゃんを襲ったりしないって。こう見えて義理堅いんだよ?」

 そうじゃない。私が驚いたのはあまりにも自然体な彼女の態度にあった。

「なんで……なんでそんなに普通なの?」

「ふぇ?」

「自分が同性愛者だって打ち明けて、軽蔑されたらどうしようとか考えないの?」

「ん~……考えないこともないけどさ、それって別にあたしと関係なくない?」

「関係ない?」

「相手があたしのことをどう思ってようが、あたし自身に何の影響もないじゃん」

「で、でも、そのせいで学校や会社で孤立するかもしれないんだよ?」

「それが?」

「それがって、色々支障をきたすでしょ? 友人関係とか学校生活とか、進学や業務にだって影響が出ないとも限らない」

「かもしんないねー」

「だったら! 迂闊に人に喋らない方がいいに決まってる!」

「それはそう思った人がそうすればいいだけ。あたしはあたしの喋りたいことを喋るし生きたいように生きる。だってさ、つらくない? 何かを抱え込んだまま生きるのってだんだん世界に潰されていくような感じがしてさ。ならいっそ全部さらけ出しちゃって、真っさらな状態から始めた方が気楽だよ」

 レミの考え方は分かる。同性愛者であることを明かしたからといって私が生きていけないわけではない。たとえ友人が離れていったとしてもきっと同性愛を受け入れてくれる新しい友人が出来るだろうし、仕事が続けられなくなったなら違う仕事を探せばいいだけ。それが分かっていても行動に移れないのは、結局私が今持っているものを失いたくないと思ってしまっているからなのだろう。

 今の友人たちが嫌いなわけではない。今の仕事が嫌いなわけではない。だから、失いたくない。たとえその結果、自分を苦しめることになろうとも。

「…………」

 視線を落として考え込む私の耳にレミの声が届く。

「人によって色んな理由があるだろうから一概にどうするのが正しいってのは言えないけど、少なくともあたしは自分を偽ったり隠しながら生きていくのはごめんだね。そんなの全然楽しくない。それに――」

 レミが声の調子を上げて笑った。

「オープンにしてるとさ、自分と同じ人に出逢いやすいじゃん」

 その視線はまるで私のことを指すようにまっすぐ向けられている。

 気付かれた? それとも偶然? 分からない。だけど自分のことを隠さず話してくれたレミに対して黙ったままというのはアンフェアな気がする。そのくらいの矜持は私にもある。それに私の苦しみを完全に理解して受け止めてくれるのは同じ境遇の人だけだと思うから。

「……レミ、その……実は私も、同性愛者、なんだけど」

「あ、やっぱり? なんとなくそんな気がしてたんだよね~」

 驚くことも軽蔑することもしないごく普通の反応に、私の胸の内側にあった重いものがすっと軽くなった気がした。初めて誰かに打ち明けられたことへの安堵感か、受け入れてもらえたことへの嬉しさか。

 一度本当の自分をさらしてからは次々に言葉が口から出てきた。日頃の恋愛話に嫌気が差していること。男性アイドルより女性アイドルについて語りたいこと。私が何を話してもレミは全力で同意してくれた。

「――そろそろお風呂にしよっか。先にレミ入ってきて」

 気付けば一時間程経過していた。明日も仕事があるしそろそろ寝る準備もしないと。ベッドは一つしかないので布団を分けて私が床で寝ればいいか。

 弁当の容器を片付け始めたとき、レミがとんでもないことを言ってきた。

「一緒に入ろ」

「……えっと、お風呂に?」

「うん」

「い、いや、うちのお風呂狭いし……」

「トイレ行ったとき見たけど、詰めたら入れそうだったよ」

 なんでレミは一緒に入りたがってるんだろう。襲ったりするつもりはないって言ってたのに。

 怪しむ私にレミが手を振って否定する。

「そーいうつもりじゃないよ。防犯的な意味で一緒に入った方がいいと思ってさ」

「防犯?」

「深空ちゃんがお風呂入ってる間にあたしが部屋荒らしたりお金盗ったりしたらどうするの? お互い今日会ったばっかりなんだし、警戒するとこはちゃんと警戒しないと」

 ここまでレミと話してきてそんなことをする子だとは思えないが、確かに用心するに越したことはないのかもしれない。

「そうと決まればちゃっちゃと入っちゃお~」

 沈黙を勝手に肯定と受け取ったレミが私の腕を引っ張って浴室へと向かう。今日はこの子に引っ張られてばかりだ。いつから私はこんなに流されやすくなってしまったのか。毎日同僚の恋愛話に同調し過ぎたせいで自分を殺すのがくせになっているのかもしれない。

 もっとポジティブに考えよう。二十歳の女の子と一緒にお風呂に入る機会なんて今を逃したら一生無いかもしれない。だったら少しでも楽しむべきではないか。

 脱衣所で私が服を脱ぎ始めるとレミが嬉しそうに笑った。



『背中流してあげよっか?』というレミの申し出を断り、交代で髪と体を洗ってから肩を並べて湯船に浸かった。体を隠すように体育座りをする私とは対照的にレミはリラックスした状態で後ろにもたれ掛かっていた。髪を後ろでお団子にしてメイクを落としたレミは年齢よりも幼く見えた。肌もすべすべで若々しく、それなのに身体の発育は良くて……。

 視線がレミの首から下へと落ちかけて、慌てて正面に戻した。私が変な目で見てどうする。女の子とお風呂に入ってるからってドキドキするんじゃない。お湯をばしゃばしゃと自分の顔にかけて精神を律する。平常心平常心。

「深空ちゃんさぁ」

「な、なに?」

「今まで誰かと付き合いたいって思ったことある?」

「……あるよ」

「いつ?」

「大学のとき。同じ学科で仲良くなった子がいて……」

 同性愛者だと自認してから初めて好きになった同い年の女の子。顔を思い出すだけで懐かしさが込み上がってきた。

「告白はしなかったんだ」

 レミの問いかけに、ちゃぷ、と頷く。そのころの私にそんな度胸あるわけがない。

「今でもその人のこと好きなの?」

「どうなのかな。就職してからはほとんど会ってないし、連絡とるのも年に一回くらいだし。だから結局その程度の『好き』だったのかもしれないね」 

 拒絶されるのが怖いから自分から離れる。幸せにはなれないかもしれないが、不幸にもならない最良の選択肢。

「じゃあ別に今好きな人がいるってわけじゃない?」

「うん、今はいないよ」

「そっか~、良かった」

 とん、とレミが私の肩にもたれかかってきた。私が『え?』と思う間もなく、太ももに何かが触れた。揺れる湯面の下でそれは私の肌を伝いお腹の方へ近づいてくる。

「れ、レミ――」

「泊めてもらうお礼をしなきゃなーって思ってたんだけど、好きな人がいたら悪いじゃん。完全にフリーなら大丈夫だよね?」

 レミがさらに体を密着させてくる。私の腕に柔らかな胸が当たり全身に緊張が走る。

「だ、大丈夫、とは……?」

 聞かなくても何を指しているかなんて分かっているのに確かめてしまう。もしかしたら勘違いかもしれない、からかわれているだけかもしれない。そのわずかな望みにかけて。

 レミは言葉で答えるかわりに私の首にキスをした。わざとらしく音をたて、何度も何度も唇でついばむ。背中に痺れるような感覚が広がり、声が出そうになるのを歯を食いしばって耐えた。

「っ、お、襲わないって――」

 言ってたのに。すがるような私の言葉にレミがくすりと笑う。

「無理矢理はね。でも深空ちゃん一緒にお風呂入るの嫌がってなかったし、ちょこちょこ私の胸見てたし、これはもうオッケーだな~と」

「言ってない!」

「じゃあ言って?」

 鼻先が触れ合う距離で見つめ合う。紅潮した頬、濡れたまつげは艶やかに水滴を弾き、ピンク色の唇は果実のように瑞々しく目に映る。大人と子供が入り混じった妖艶さに思わず生唾を飲み込んだ。

「言って?」

 レミが腕を私の体に絡ませる。肌と肌が滑り合う官能的な刺激に私の鼓動がさらに激しくなる。

「深空……」

 甘えるような囁きが私の脳を揺らし、レミのお願いに言葉で答えるかわりに私は唇をさしだした。

 私のファーストキスだった。



「んー……」

 いつの間に眠っていたのか。体がだるいし頭が重い。目蓋を薄く開き、壁の時計を確認する。

「――――」

 意識が一瞬で覚醒した。アラーム切れてた? なんで。やばい。仕事に遅刻する。

 布団を跳ね飛ばすと隣で眠っていたレミが「うー……」と眠たげに私の方を見た。それに伴って昨夜の記憶も蘇ってきた。お風呂から出た私とレミはそのままベッドに入り――。

(今はそんなことどうでもいい! 早く準備しないと!)

 ベッドから降りて裸のままのレミに布団を掛け直し、衣装ケースから服を引っ張り出して急いで着込む。

 レミが布団から頭だけ出しておぼろげに聞いてくる。

「仕事~?」

「そう! もう出ないと電車に遅れる!」

「いってらっしゃ~い……」

 もぞもぞと布団をかぶりなおしたレミに、ハッとする。そうだ。この子どうしよう。

 今は一分一秒が惜しい。いっそ完全に遅刻が決まっていたなら開き直れるのだが、急げば間に合ってしまう絶妙な時間なのが憎らしい。

 少し迷ってからスペアキーを机の上に置いた。

「鍵置いとくから、もし出かけるんだったら使って」

「うぃ~」

「私もう出るからね!」

「てら~」

 布団の中からレミが手を振った。振り返す余裕はない。栄養ドリンクだけ一気に飲んでから家を出発した。無事電車に間に合い一息ついたところでようやく、本当に置いてきちゃったけど大丈夫かな、と冷静な私が不安を零した。部屋を荒らしたりする子ではないと信じてはいるが、あまり見られたくないものもあるので物色されると困る。

 仕事中も気になったせいで何回か簡単なミスをして注意されてしまった。

 そもそも家に居ない可能性もあるじゃないかと気付いたのは、二人分の晩ごはんの材料を買った後だった。

 元々逃げるためにうちに来たのだから、安全になれば帰るのは当たり前だ。別にレミは私のことが好きだからお礼をしてくれたわけではないし、私だって昨日会ったばかりのレミを好きなのかどうか分からない。

 でももし居なかったら……。誰も居ない自分の部屋を思い浮かべ寂しさが込み上がる。しかしその寂しさも、家の電気メーターが勢いよく回っているのを見て消えさった。

 はやる気持ちを抑えて鍵を開け中に入った。

「た、ただいま」

「おかえり~」

 部屋着姿のレミが奥から顔を出した。私をじっと見て首を傾げる。

「すっごい嬉しそうだけど何かあった?」

「え!? そ、そう? ば、晩ご飯まだだよね。鍋にしようと思って買ってきたから」

「ホント!? やった~!」

 喜ぶレミから顔を逸らし、買い物袋を台所の上に置いて食材を取り出す。

(……そんなに嬉しそうな顔してた?)

 こっそりと頬を触って確かめる。自分ではよく分からなかった。


「いっただきま~す」

「いただきます」

 テーブルに鍋を持ってきて食べ始めた。昨日のお弁当もそうだが相変わらずレミは美味しそうに食べている。買ってきてよかった。

 それはそうとしてレミに聞きたいことがあった。

「レミの荷物増えてる気がするんだけど気のせい?」

 ベッドの脇に見慣れない大きなボストンバッグが置いてあった。

「あぁこれ? 家戻って着替えとか持って来た」

「戻って大丈夫だったの?」

「うん。張り込まれてたらやめようと思ったけど、昼間だったしさすがに誰もいなかった」

「そっか」

 何事もなくて良かった。

「ってことで、もうしばらくここに泊めてね」

「わかった」

「あれ? 嫌がったりしないんだ?」

「泊めるぐらい平気だよ」

 私が答えるとレミがにやと笑った。

「もしかして、お礼が気に入った?」

「そ、そんなこと――」

「いいよいいよ。リクエストくれれば一晩中だってお礼してあげるから」

「だから違うって!」

 晩ごはんのあとに一緒にお風呂に入り、結局お礼をしてもらった。流されやすい自分を情けないと思う反面、寝るときに誰かのぬくもりがあるだけでこんなに寂しくなくなるんだなと実感した。

 そのぬくもりは本当に誰でもよかったのか、それともレミだから寂しくないと感じたのか。


 朝起きて朝食を二人分作り、レミの分をラップしてから出勤して、晩ごはんを買ってから帰宅する。そんな生活が一週間ほど続いた。レミが大学生なのは本当のようで、家で課題をやっていることもあった。私が『意外と真面目なんだ』と言うと『意外は余計』と怒ってきた。

 恋人との同棲生活っていうのはきっとこんな感じなんだろう。『いってきます』と『ただいま』を言える相手がいるだけで生活に張りが出る気がする。

(レミは恋人じゃないけど)

 家主と居候、もしくはヒモの関係か。食住を提供して見返りに体で払ってもらっているのだからまっとうな関係ではない。お礼なんていらない、と口では断るものの最後にはレミのペースに流されてしまう。

(だってレミに誘われたら断れないよ)

 雰囲気やテクニックの問題ではない。私がレミのことを好きになってしまったから。

 好き、なんだと思う。燃え上がるような好きではなく、ずっとそばにいて欲しいと思えるような好き。レミが居てくれると心が落ち着く。レミと話すと心があたたかくなる。

 だったら告白をして正式に恋人になればと思うかもしれないが、どうしても勇気が出ない。

 付き合ってる彼女はいないようだけどバーに行くぐらいには夜も出歩いていたみたいだし、私以外にも似た関係の人がいるかもしれない。もし私が『私達って付き合ってるんだよね?』なんて聞いて『うわ、重っ』と思われたらあっさり捨てられてしまう。だったら現状維持を続けた方がいい。

 カミングアウトしてもしなくても、私のこの性格だけは一生変わらないのだろう。情けないことに。


 金曜の夜。仕事が終わると私は早々と帰り支度を済ませた。今日はこのあとレミと待ち合わせをして行きつけのバーに連れていってもらう予定だ。しかもレミの奢りで。たまには体以外でのお礼もしないとね、ということらしい。

 デートとも言える状況に私の心は弾んでいた。同僚たちからの食事の誘いを断って、私はレミと合流してからそのバーへと向かった。

 駅から少し歩いたところにある隠れ家的なそのバーはレズビアン専用のバーで、モダンゴシックな内装の落ち着いた空間だった。店内はカウンターが六席と二名用のテーブルが二セット。テーブルにはすでに女性客が二人いた。

 レミがカウンターに腰を降ろし、親しげに女性のバーテンダーと話している。初めて来た私は借りてきた猫状態でひっそりと座って周囲を眺めていた。

「深空、何飲む?」

「わ、私はなんでも」

「んー、じゃあ甘い系で適当に作ってもらおっか」

「うん、それで」

 要望を聞いたバーテンダーがカクテルを作る様子を見ながらレミに尋ねる。

「そういえば前にバーで待ち構えてたんでしょ? ここ大丈夫なの?」

「別のお店だから多分大丈夫だよ。一週間以上経ってるし」

「そんな楽観的な」

「もし鉢合わせしたら深空よろしく」

「え、なにを!?」

「レミちゃんは無理矢理襲うような子じゃありません! って説得して」

「それ効果あるかな……」

「実体験話せばいいじゃん。私のときもちゃんと同意してから行為に及んでました! って」

「人前でそんなこと言えるわけないでしょ!」

「みんなそのくらい気にしないって。ねぇ?」

 レミがカウンターの向こうに声を掛けると、バーテンダーがにこりと笑った。ばっちり聞こえていたらしい。

 恥ずかしさに顔を伏せる。薄暗いので顔が赤くなってもバレることがないのだけが救いだ。

 しかし恥ずかしがっていたのも最初だけで、お客さんが増えてくるとその人達との会話も増え、普段話さないようなことも話すようになっていった。

 好みの女性のタイプやフェチについて熱く語ったり、女性アイドルで誰が一番可愛いかを議論したり、どこに性感帯があるかを詳細に話し合ったり。お酒が入っているせいもあるが、なによりこのバーにいる人全員が同じなのだという安心感が口を軽くさせた。

 時間はあっと言う間に過ぎて、そろそろ終電が近くなってきたので店を後にした。レミと手を繋いで駅へと向かう。

「どうだった?」

 酔っているからかレミはいつもより陽気だった。それは多分今の私も同じ。

「すっごく楽しかった」

 次はどこに行こうかなんて話しながら駅に到着し、電車の時間を確認して改札へ進もうとしたとき。

「有住さん?」

「――え」

 酔いが一瞬で醒めた。そこにいたのは会社の仲の良い同僚三人。食べに行くとは言っていたがまさか帰る時間が被るなんて。

 反射的に繋いでいた手を離した。同僚たちの視線は当然レミの方に向いている。私は慌てて弁明した。

「あ、この子は親戚の子で、たまたまこっちに来てたから会おうってなって――今大学生なの」

 同僚たちの反応は悪かった。確かに怪しまれてもおかしくない状況ではあるが。

 焦る私の隣からはきはきとした声が発せられた。

「いつも深空おねえちゃんがお世話になってます。従姉妹の五十嵐(いがらし)レミって言います。あたしが二十歳(はたち)になったら飲みに行こうって約束してて、今日やっと連れていってくれたんです」

 レミの笑顔に同僚たちが、あぁそうなんだ、と納得する。難は脱した。あとは早急にこの場を離れるだけ。

『じゃあ電車があるから』と言おうとしたとき、レミの笑顔に寂しさが混じっているのに気が付いた。理由なんて考えなくてもわかる。原因は私以外にないのだから。

 むかむかとしてきた。他ならぬ自分自身に。私が嫌な思いをするのは我慢できる。でも好きな人に嫌な思いをさせるのは我慢できない。

「――っ!」

 私はレミの手を強く握って持ち上げた。

「ごめん嘘! この子、私の彼女! それじゃ電車来るからお先に!」

 改札に向かって走った。後ろを振り返るのは怖くて出来なかった。これでは言い逃げだ。違う逃げてるんじゃない。進んでるんだ。

 階段を駆けあがり、ちょうどやってきた電車に飛び乗ってから荒くなった息を整える。

「……よかったの? 会社の人みたいだったけど」

 心配そうに覗き込んできたレミに微笑みを返す。

「いつかは言わなきゃいけないことだし。それにレミが言ってたことじゃない。自分を偽ったり隠したりするのはごめんだって」

「……そうだね」

 レミは静かに頷いたあと、私の耳に囁いてきた。

「ところでさっき『私の彼女』って言ってたけど、本気にしていいの?」

「――――」

 酔いが醒めて冷えたかと思ったら今度は体中の血液が沸騰したかのように熱い。

 勢いとはいえなんであんな告白紛いなことを言ってしまったのか。告白するにしてもシチュエーションやタイミングがあるだろう。本人に言うならまだしも違う人に向かって叫ぶのは無い。色々と反省は尽きないが、とりあえず今私が言うべきことは。

「……本気、だよ」

 私の答えを聞いて、レミは心の底から嬉しそうに笑い、私の肩にもたれかかった。うん、さっきの寂しそうな笑顔に比べたらこっちのほうが何倍もいい。

 好きになった人と手を繋いで肩を寄せ合うことに比べたら、同僚にバレてしまったことなんて些細なことだ。どっちが私の人生に大事かなんて言うまでもない。

 レミが隣にいてくれる限り、私は二度と世界になんて潰されない。潰されてやらない。

 私の世界は、ここから二人で始めていく。

 電車に揺られながら、他の人の目を気にすることもなく、ただお互いのぬくもりを感じていた。


 家に帰ってから改めて同僚にバラしたことを後悔したのは言うまでもない。



 月曜の朝。出勤の準備を済ませた私はベッドでまどろんでいるレミに声を掛けた。

「じゃあ行ってくるよ」

「うん、いってら~」

 カバンを持ち、忘れ物がないかをチェックして玄関に向かおうとしたところで思い出す。

「あ、そうそう、レミの写真撮らせて」

「ん~? なになに? レミちゃんのエッチな写真撮って会社でなにしようって~?」

 布団をめくって上半身を出そうとしたレミを止める。

「そんなの撮るわけないでしょ。目瞑っててもいいから顔だけ出してて」

「うぃ~」

 スマホでぱしゃりと写真を撮る。目が半開きで眠たそうにしているがまぁこれでいいか。

「ありがと」

「それなんにするの? 待ち受け?」

「同僚に見せようかと思って」

「……え?」

「絶対レミのこと聞いてくるだろうから、これが彼女だよって見せてあげた方が分かりやすいでしょ?」

「ち、ちょっと待って、さっきの絶対変な顔だった! ちゃんと顔作るから撮り直して! いや、やっぱりメイクするから――」

「だーめ、そんな時間ないの。こういうプライベートっぽい写真の方が恋人感でていいと思うんだけど」

「あたしがイヤだ~!」

「自分を偽ったり隠したりしないんじゃなかったの?」

「そーいう意味じゃないから~!」

「はいはい」

 駄々をこねるレミにキスをしてから玄関に向かった。

 今日がどんな一日になるかは分からない。傷つくことがあるかもしれないし、嬉しいことがあるかもしれない。

 私にはまだ全てを受け止めることは出来ないかもしれないが、心配することはない。喜びも悲しみも、笑顔も涙も、受け止めてくれる人がそばにいる。何があったとしても私は私なのだと教えてくれた、世界で一番愛しい人が。だから、何も恐れることはない。

「……いってきます」

 その小さな呟きは私に向けて。玄関のドアを力強く開けた。



       終

pixivの第二回百合文芸コンテスト応募作品。


同性愛に関してはシリアスな部分はとことんシリアスになってしまうので、私が書くならこのくらいのがいいのかな、と。

攻め攻めな女の子に篭絡されるっていうのはわりと好きかもしれない。




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