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ハインリッヒの旅枕  作者: えくぼ えみ
第二部 『名もない花畑より。』
75/141

行間 《ミミ》

 


 102番地。宿屋街より西方に位置する別区画。


 商店が立ち並ぶそこ一帯には、薄紫の奇っ怪な霧が立ち込めていた。


 視界が悪い中、霧の中を進む人々の姿が見える。一帯を包む霧には目もくれず、会話もない。だが、その足取りは確かにどこかへと向かっていた。


 その人波の中に、人影が一つ、佇む。


「みんな良いこ良いこ。そのまま避難区域まで歩いてねー」


 ふるりと猫の耳を震わせて、『精霊猫(ケット・シー)』ミミは緩い調子で指示を下した。


 虚ろげな眼差しと能面のような表情を浮かべた人々は、器用にミミを避けていく。


 そんな中、とある店舗のレジカウンターでは数人の住人が、恐る恐る外の様子を(うかが)っていた。


「み、みんな…どうなっちまってるんだ?」


「どこかに移動してるみてぇだぞ……」


 震えた声を聞きつけた猫の耳がふるっと揺れる。ミミは灰色の長い毛先を指先で(すく)うと(もてあそ)んだ。


「我が強いんだから…。こんな時くらい混乱してよねー。その方が、私の魔術は効きやすいんだから」


 くるりと手の平を上へと向けて口元に運ぶ。そのままふーっと息を吹きかけると、そこから薄紫の煙が気流に流れていく。


 まるで意志を持ったように動きながら、その煙は一斉に店舗の中へと流れ込んだ。


「な、なんだよ、これ!?」


「毒か…?!」


 足元からふわりと立ち上る煙に、住人らは思わず飛び上がった。慌てて口鼻を塞ぐ。だが、その直後。くらっと頭が揺れると、住人たちは膝をついて倒れた。


 それも数秒後、再び彼らは立ち上がる。目は虚ろげで、その顔は能面をつけたような冷めた表情に変わっていた。


「うんうん、しっかり効いた」


 ミミは、満足そうに微笑む。

 彼女の魔術にかかった男たちは、ぞろぞろと店舗から出てきた。やがて、人波に乗るように他の住人と同様、進行を始める。


 奇妙なパレードのような光景だが、そこに無粋な影が水を差した。


「なーんだ、ハズレ」


 いち早く気配に気づいたミミが、そこへ目を向けると、建物の路地から気怠(けだる)げな兵士が出てきた。


 数にして、四人。イェロヴェルリの兵士は、規則正しい行進をする住人をその視界に(とら)えた。


 緩やかな動作で、肩から下げた銃に手を伸ばす。


 瞬間、ミミが走り出した。急激に接近した『敵影(てきえい)』に兵士たちが、同時に引き金を引く。


 無数の弾丸が、レンガを粉砕した。


「どこ狙ってるの?」


 舞い上がる粉塵(ふんじん)が晴れると、そこにあったミミの姿はない。兵士たちが釣られて声の方に目を向けた。


「ねぇねぇ、ダメ元で聞くけどー。あなた達の隊長さんはどこにいるの?」


 建物の外壁に爪を突き立て、四つん這いの体制になったミミが(たず)ねる。


 その質問に、兵士たちは銃口を差し向けた。答える意志すらないのだろう。


 分かっていながらも、胸の底から高揚感が溢れる。押さえ込もうとすると、思わずそれが顔に歪んで現れて、口角が釣り上がった。


「まぁ、聞いてもムダだよねー。じゃあ…、」


 ミミが言い終わる前に、銃撃は始まる。豪雨のような銃弾が、襲いかかった。


「殺す」


 その言葉と同時に、へばりついていた外壁に更に深いヒビが入った。真っ向から銃撃の中へと飛び込む。


 まるで、銃弾の方からミミを避けているかのように錯覚した。


 (かす)りすらしない銃撃を超えて、兵士に飛びかかる。一番前にいた兵士の銃を蹴り上げ、一切の迷いなく数㎝も伸びた鋭利な爪で喉元を()き切った。切り口から噴火したように血飛沫が上がる。


 その光景を見ても、兵士は(ひる)まない。隷属(れいぞく)中は、どんな感覚も麻痺するのだ。痛覚だけでなく、恐怖心ですら――。


 残りの兵士たちが、構うことなく引き金を引く。ミミは、仕留めた兵士を盾にしながら一歩前に出ると片腕で力任せに死体を兵士に投げつけた。


 体制を崩した兵士に、獣のような四足体制で一気に距離を詰める。火を吹いたばかりの銃身を掴み上げ、まるで()いだナイフのような切れ味の爪で喉元を切りつけた。


 体制を立て直した兵士が、即座に引き金を引くが遅い。ミミは死体を突き飛ばし、微笑みを携えて銃撃を悠々(ゆうゆう)(かわ)す。引き下がったと見せかけて再び飛びつき、今度は両手で喉元を切った。


 爪に(えぐ)れた肉片が残る。直近の兵士の目に向けて、血のついた手を払った。


「ッ!?」


 兵士の眼球に飛沫した血が入り込み、思わず目を閉じる。目蓋全体に浴びた血を拭い切る前に、シュッ、と兵士の喉元が赤い血の滝が流れた。


 獣は、人間の恐怖心に敏感だ。恐れを抱いた時点でその者は、ただの捕食対象に切り替わる。血の匂いで嗅覚が利かずとも、肌でそれを感じ取った。


 嗚呼、残り一匹か――。


 その場に残された兵士は、隷属され、麻痺していたはずの感覚が急激に呼び覚まされる。


「逃がすと思う?そんなわけないよねー?あなた達を国に帰すとめんどくさいことになるもん」


 びちゃびちゃ、と泥濘(ぬかる)んだ地面のように血の海から音を立てて歩いてくる。


「だからー、大人しく死ねよ」


 軽薄だったその声は、低い。


 その場から一気に眼前まで迫った獣から(のが)れようとする、虚しい銃声が空に(とどろ)いた――。





「もう、せっかくのお洋服が汚れちゃったじゃん」


 ミミは、ゴミがついたような軽い調子で手についた血を払う。ぱ、ぱ、とレンガ畳みの地面に赤黒い血が飛び散った。


「結構魔力使っちゃったし、あっちにも影響しちゃうかな?死にはしないだろうけど…。こっちの戦力は削ったから後は頑張ってね、クラウン」


 どこかで奮闘する(あるじ)に無責任なエールを送って、ミミは死体を眺めた。


 最後に殺した兵士の首にあったドッグタグを引きちぎる。


「さてさて。お目当ての隊長さんは、どこにいるのかなー?」


 愉快げに口角を上げて、ミミは次の標的を探し始めた。





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