ある田舎の村で
そのまま丘を登りつめ、林を抜けた、良雄がこれまで来たこともないようなところにタロウの家はあった。大きな門をくぐって庭にはいると、そこは萱葺きの大屋根があった。良雄はタロウに導かれるまま家の中に入った。
すすけた天井、暗い土間、鈍く光る大黒柱。家に良雄は圧倒された。
「誰も居ないの」
良雄は震えながら尋ねた。
「そうだよ」
そう言うとタロウは台所から取って来た落花生を、良雄に手渡した。乾ききった落花生を割ると、中から萎びて短い棒のようになった落花生の実がでてきた。良雄はそれをつまんで口の中に入れた。味らしい味は何もしなかった。ただ酸化しかかった脂肪特有のすっぱい匂いだけが口の中に広がった。
「帰りたいな」
良雄がそういったことには特に理由はなかった、ただ自分はここにいてはならないと言うような気がしただけだ。黒く光る大黒柱も、屋根から吊るされた大根の干物も、線香の消えかけた仏壇も、どれもこれも枯れの存在を許しているようには思えなかった。ここにいてはならない、それらのものはそう語っていた。
「ダメだよ」
タロウの厳しい声が、良雄の耳から心までを引き裂いた。
「君は帰ってはいけないんだ」
その声は天井に吸収されて行く、天井はタロウを憎んでいる。彼に刃向かっている。良雄はそう思った。そしてその瞬間彼は決意を固めた。
「ぼくは家に帰るんだ、家に帰るんだ」
良雄はその家を飛び出した。しがみつくタロウを振り解き、運動靴をはくと、庭に駆け出した。
庭を駆け抜けて、長屋門をくぐって、そのまま道なりに切通しを駆け抜けた。良雄は何かから逃げているみたいな気分になった。それはタロウなんかじゃない、もっと大きなものだ。しかし逃げ切れるだろう、あの家の天井が見守っていてくれる。良雄が考えることができたのはそれだけだった。ただ闇雲に足の向くまま走り続けた。
息がきれはじめるほどに駆けて、養豚場の真木の生け垣がみえはじめたところでようやく安心して息をついた。豚の悲鳴のような鳴き声と堆肥の匂いの他は、何も生き物の気配を感じることはなかった。もはやここまではタロウも追ってこれない、なぜかそういう気がした。
良雄は辺りを見回した。太陽は西に傾きかけ、オレンジ色の血で空を染めていた。彼は周りの風景を見渡してはじめて、ここが彼の伯母さんの家の近くであることを知った。ちょうど彼の家族がここに来るときに止めた彼の家の白い軽自動車も見える。彼はもはや孤独ではない、ようやく本当の人間に会える。彼は豚の悲鳴を聞きながら伯母さんの家に近づいていった。
彼は自分の家の軽乗用車の横をすり抜けると門扉を開けた。庭には人影はなく、彼の家の者も戻ってきてはいなかった。彼は誰かが来るのを待つつもりで縁側に腰掛けて、庭越しに見える黒い森の影を眺めていた。吸い込まれるようなその森の下草の陰の色が、少し紫がかって見えた。
軽い疲れから彼は靴を脱いで、縁側に横になった。天井裏に一匹の蜻蛉が止まっていた。良雄はそれに構う気もなく目を瞑ろうとした。
「ここに居たのか。ちょっと探したんだぜ、まったく手間を取らせるね、君は」
良雄は驚いて起き上がろうとした、しかし身体が言うことを聞かなかった。
縁側の側、立っていたのはタロウだった。草履を履いていないのはたぶん彼をすぐに追いかけてきたからだろう、肩で息をしながら冷たい眼で良雄を見つめていた。
良雄は首を振った。タロウの眼が普通でないのはすぐに判った。その眼は良雄を見てはいなかった。タロウはおびえていた。そして彼は何かたくらんでいた。良雄は震えながら伸びてくるタロウの手を跳ね除けると、タロウを突き飛ばして走り出した。




