第二章 2
「準備体操一緒にしないか」
体育の時間に急に提案してきたのは千種だった。どうして誘ってきたのか見当がつかないが特に断る理由もない。
俺という去年からのパートナーを失って文句を言う赤松を無視して二人で体操を始める。準備体操なんてかったるいし適当にやればいいだろう。そんな俺の考えなど無視するように千種はキビキビと動き始めた。おかげでこっちまで一生懸命動く羽目になる。
まあ、それはいいのだがやたらと視線を感じる。辺りを見渡すと女子達が俺達の事を見ているのが分かった。男女共同授業ではないがたまたま男女ともグラウンドで体育を行っているのだ。原因は俺ではなく千種だろう。
女子達はこちらを見るだけでは飽きたらず指を指したり、話しあったりもしている。そんな様子を見ていたら思わずからかってみたくなる。柔軟運動の一環で背負って担ぎながら千種に話しかける。
「なんかアイドルみたいだな、お前。女子に大人気だぞ」
俺に背負われて天を仰いでる千種は少しだけ照れくさそうに言った。
「ちょっと褒め過ぎだよ」
千種の鈍感さに俺は思わずからかう気をなくした。
天は二物を与えずというが、これは真っ赤なウソである。何故ならば千種が反例として存在するからだ。千種は女子からモテる容姿をしているだけでなく運動神経も抜群であった。
一学期が始まったばかりというわけあって、体育の授業は体力テストに割かれている。千種はどの種目でも高得点を叩きだしていく。最初のうちは一部の体育会系の男子が対抗意識を燃やしていた。だが、すぐに彼らも千種の相手にならないのを悟ったようだった。
千種が何か競技を始める度に一部の女子から
「千種くーん。頑張って~」
の大声援が起こって大分辟易する羽目にもなった。応援も度が過ぎれば傍迷惑なものだろう。俺だったら恥ずかしくてとてもまともに対応できない。だが声援を受けると千種は律儀にも笑顔で手を振るのだ。こう言うのがいわゆる爽やかイケメンという奴なんだろうか。残念ながら俺には七回生まれ変わってもなれなさそうだ。
俺は準備体操をやった流れで千種の記録をつけることになった。どの種目の数字を見ても俺では相手にならない。やれやれと思いながらグラウンドに腰を下ろす。すると千種が俺を待っていたかのように横に座った。
四月だというのに日が強く射していて大分暑い。俺は汗を手で拭いながら千種に話しかける。
「なんだかやたらと絡んでくるじゃねーか」
千種は俺のつっけんどんな言葉にも笑顔を崩さずに答える。
「絡んじゃ悪いかな。嫌だったらやめるけど」
千種の人が良さそうでいて人を食っているようでもある返答になんだか調子が狂う。
女子の方を見るとちょうど楠木さんと桜が徒競走を始めるところだった。桜は運動神経がいい方ではない、むしろ悪いほうだ。こちらも勝負は見えているがまあ応援ぐらいはしてやろう。
そう思って見始めたのだがやはり楠木さんに釘付けになってしまった。走る姿まで美しく見えるのは俺の贔屓でも何でもなくフォームが整っているからだろう。
楠木さんが笑顔で悠々ゴールした後ろで桜が必死に走っている。運動は苦手だがあいつはこういうところで手を抜かない奴なのだ。桜には悪いけれど思わず笑いそうになってしまう。千種が急に俺に近づいて耳元で囁く。
「的はずれだったらごめん。名和って楠木さんのこと好きなんじゃない」
突然の指摘に思わず俺はむせてしまう。千種の表情を見ると冗談で言ったのではなさそうだ。よほど俺は分かりやすい行動をとっているらしい。恥ずかしさを隠すように乱暴な口調で答える。
「そうだとしたらなんなんだよ。お前には関係ないだろ」
千種は爽やかな笑顔を少しも崩さずに俺の言葉に頷いた。
「確かにね」
それから千種は普段から想像できないような冷たい声で言った。
「でも彼女と付きあおうとするのはやめておいたほうがいいと思うよ」
俺はその豹変ぶりに最初驚いたがやがて怒りが湧き始める。周りには聞こえないような小さな声で怒気を込めて話す。
「それこそお前には関係のないことだろ」
その時遠くの方から数人の女子達がこちらに近づいてきた。どうやら千種がお目当てのようだ。あいつは立ち上がり、体操服のズボンについている土を払う。それから俺の方を見つめて静かに言った。
「忠告はしておいたよ」
俺の反論を聞くこともなく千種は立ち去っていった。俺は奴が一体何を伝えたいのか全く分からないままその場に取り残された。
哲学の森の入口には古ぼけた木製の案内板が置いてあった。地図が描かれ、おおまかな施設の配置が記されている。また東京ドーム何個分の面積というベタな説明などが書かれている。そして件の吊橋の図もしっかりと書き込まれていた。
「東京ドームって案外狭いよね」
案内板を見てそう感想を漏らしたのは楠木さんだ。すかさず同意しておく。
「行ったことあるけど、たしかにそうだね」
一方千種と桜が間の抜けた会話を交し始める。
「ところで東京ドームってどこにあるんだろうね」
と千種が田舎者らしい素朴な疑問をぶつけると桜がすぐに応える。
「東京ドームっていうぐらいなんだから東京にあるんじゃない」
すると千種がいつもの彼らしい穏やかな顔で言った。
「なるほど」
それでいいのか千種よ。東京のどこにあるのかが問題じゃないのか。とはいえこいつらにかまっている暇はない。楠木さんは案内板を見ているうちに吊橋の存在にも気がついたようだった。俺の方を見て頼るように呟く。
「あんまり高い所得意じゃないから怖いかも。いざとなったらよろしくね」
ちょっと不安そうな楠木さんの顔を見ていると罪悪感を抱かないわけじゃない。とはいえ今は吊り橋効果作戦が優先だ。楠木さんが高い場所を怖がるほうが都合がいい。俺が答えると楠木さんは普段通りの笑顔に戻った。
放課後は始まったばかりなので日没まではだいぶあるはずだが、哲学の森には照明など設置されていないだろう。なるべく早く動いたほうがいいはずだ。
「じゃあそろそろ行こうか」
そう皆に声を掛けると桜が気を使ってくれているのだろう。自然と俺と楠木さん、桜と千種でペアになった。
まずコースの最初はちょっとした山登りのようになっている。うちの学校は小高い山の上に立地しているので哲学の森も山がちな地形なのだ。というわけで俺たちは皆わざわざ革靴から運動靴に着替えている。
楠木さんはそんな地形にもかかわらずずんずんと進んでいく。あまり会話を交わすこともなく。男の俺でもぼやぼやしていると置いて行かれてしまいそうなほどだ。あの華奢な体のどこからあんな力が湧いてくるのか不思議だ。
ふと後ろを見ると千種と桜との距離が大分離れてしまっている。多分、桜のペースが遅いのだろう。あるいは俺と楠木さんを二人きりにするためにわざと遅れてくれているのかもしれないが。その距離は見えなくなってしまいそうなぐらいだ。
さらに先に進もうとする楠木さんを慌てて止める。
「ちょっとここで止まろう。だいぶ千種と桜が遅れちゃってる」
楠木さんは立ち止まって振り返る。それから手を横にしてを額に付けて後ろのほうを見ながら言った。
「あれ、本当だ」
その仕草が可愛らしくて俺は思わず見とれてしまう。それから楠木さんはちょっとだけ制服のリボンを緩めて、ゆっくりと呼吸した。さすがにハイペースで山道を歩いてきたから疲れているのかもしれない。楠木さんは反省するように呟く。
「なんか私って人と一緒に歩くとどんどん先に行きたがるんだよね。別に競争でもないのに。せっかちなのかな」
ちょっと落ち込んでいるような楠木さんを励ます。
「いや、遅いよりは速いほうがいいんじゃないかな」
慰めになっていないような慰めだ。でも楠木さんはぱっと顔が明るくしてくれた。それから時間を潰すように楠木さんに疑問をぶつける。
「そういえば、楠木さんだけ制服だね」
俺と千種、それに桜は山道という事を考えて体操服を着ているのだ。対して楠木さんは制服を着こなしている。流石にブレザーを脱いでブラウス姿だが。楠木さんは俺の方を向いて同意を求めるように答える。
「だって体操服ってダサくない。まあ動きやすいのは確かだけどさ」
森には広葉樹がずらりとどこまで続くのか予想がつかないほど群生している。楠木さんはそのうちの一つの幹を手持ち無沙汰にいじくり始めた。
確かに学校指定の青色の体操着は贔屓目に見てもお洒落とは程遠い。だけれども衣装なんて着る人次第だろう。言うべきかどうか迷ったが本心を告げてみる。
「そんなことないよ」
だけれども声が小さすぎたようだ。楠木さんはちょうど森の空気を味わうように目を閉じ深呼吸し始めていて全く気づかなかった。仕方なく今度は恥ずかしさを抑えてはっきりと言う。
「体育の時間に体操服姿見たけど似合ってたよ。あ、制服が似合ってないって意味じゃなくてさ」
最後の方はとぎれとぎれになってしまったが、楠木さんは手遊びをやめて素直に感謝の念を告げてくれた。
「お世辞がうまいね。ありがとう」
目線をわざわざ合わせてくれた彼女に失礼だが思わず俺は目をそらしてしまう。それから楠木さんは草の上に座った。俺も合わせて座ろうとすると楠木さんは手招きする。
「せっかくだから横に座りなよ」
俺は硬直しそうになりながらその誘いに乗った。これまでは無我夢中で楠木さんに付いて来ただけだが休憩を取ると話は別だ。こんな山中で二人きりということを思い出して緊張で手が少し震えてくる。我ながら情けない。焦りながら両手を組んで震えを誤魔化す。
幸いなことに楠木さんは俺の挙動不審には気づかずに別の会話を振ってきた。
「それにしても名和と桜って絵に描いたような幼なじみの関係だよね。桜から聞いたけど小中高と一緒でしかも家は隣なんでしょ」
意外な意見に戸惑いながらも楠木さんに誤解を与えないように答える。
「そんなことないよ。なんていうのかな腐れ縁っていうか。家が隣なのはただの偶然だしさ」
そこで楠木さんが口に手を当てて大きく笑い出したので困惑する。
「一体どうしたの」
俺が尋ねると楠木さんが笑いながら本当におもしろそうに答える。
「桜と反応がほとんど一緒だったから」
俺は恥ずかしくて何も言えなくなった。楠木さんは俺ではなく木々の方を見ながら言葉を続ける。
「長い間一緒にいると性格や言動も似てくるのかもね」
俺は思わずため息を付く。そして楠木さんを誤解させないために説明する。
「好むと好まざるとにかかわらずにね。好きでやってるわけじゃないよ」
「でも嫌いだったら家が隣でも仲良くしたりしないでしょ」
嫌いなわけはない。とはいえそれを口に出して言うのは憚られた。ただ黙って頷く。そこで楠木さんが両膝を抱えながら少し寂しそうに言った。
「それに私に対してはちょっと堅い口調だしね。桜に対してはもっと遠慮無く話してるじゃん」
言われてみると確かにそのとおりだ。
「それは楠木さんと違って桜と話すときは緊張しないだけだよ」
急に楠木さんは俺の方に体を寄せる。腕と腕が膝と膝がくっつきそうになるぐらいに近く。思わず体がピクリと動いた。
「緊張せずに自然に話せる相手って素敵だよね」
それは違うよ、楠木さん。だって今の俺は緊張しっぱなしだぜ。とはとても言えなかった。楠木さんは更に魅力的な言葉を俺に投げかける。
「とりあえずさんづけと丁寧な口調をやめるところから始めてみよっか。そうしたら少しは緊張せずに話せるかもね」
「うん、楠木さん。これからはそうしてみる」
会話の流れに反して反射的に今までのように答えてしまった。そんな俺を楠木さんが笑う。
「だからそれじゃ駄目じゃん」
「分かったよ、楠木。なるべく桜と話しているみたいにするよ」
楠木さんは口調を変えた俺の言葉に笑顔で頷いてくれた。どこか背中がむず痒い気分になるけど、こんな彼女を見ていると素直に嬉しい。でも俺の心のなかでは彼女の呼び名は楠木さんのままだった。