第一章 1
橋の前の信号で俺たちは自転車を止めた。土砂を満載したトラックがけたたましい音を立てて走っている。そんな状況で桜が突然尋ねてきた。
「翔ちゃんって楠木さんのことが好きなの」
時間つぶしにどうでもいい話をするような口調だ。面食らった俺の返答は不自然に間を開けたものになった。
「なに馬鹿なこと言ってるんだよ。そんなわけないだろ」
自分でも声が上ずっているのが分かる。カラスが間抜けな鳴き声をあげて飛んでいる。カラスにすら馬鹿にされているように感じて自分が情けない。桜が好奇心に満ちた意地悪な顔で俺を覗き込む。
「私には嘘を言っているようにしか見えないなあ」
俺は尋問される犯罪者のようだ。桜は皮肉たっぷりに言葉を続ける。
「今日一日でもう一目惚れしちゃったんだ。まあ楠木さんってすっごい美人だからね。無理も無いか」
話せば話すほどボロが出てくるような気がして何も言えない。赤から黄、黄から青へと信号がゆっくり変わっていくがペダルを踏み出すことが出来ない。桜は俺の返事を微笑みながらなお待っている。どうしてこんなことになってしまったのか。
そもそもの原因は楠木律という一人のクラスメイトにある。彼女を一言で言い表すならばまさしく太陽がぴったりだ。といっても太陽王と称されたかのルイ一四世のような権力を彼女が持っているわけではない。
彼女は周りに光をもたらしてくれるのだ。化粧品なんて使ってないだろう、透き通るように白い肌。そして別け隔てなく注がれる屈託なんてちっともない笑顔。容姿も性格も太陽そものじゃないか。
ああ、認めよう。俺は彼女のことが好きだ。夢に出てくるぐらいに好きだ。大好きだと言って過言ではない。さてこの事実がどうやって最初の場面に関係しているのか。
今朝クラス分け表を見て内心狂喜した。うちの学校は一学年あたり七クラスあり、二年以上は文系四クラス、理系三クラスに別れている。俺は文系を選択したのだがなんと楠木さんと同じクラスだったのだ。
一年の頃は別のクラスだったので遠くから見つめるしかなかった。だが今年から格段に接触の機会が増えるというわけだ。幸運に感謝しつつ期待に胸を膨らませて教室の扉を開いた。
教室を見渡すが楠木さんはまだ登校していないようだった。がっかりしながら自分の席を探す。楠木さんの代わりに俺は後ろの席に俺の幼馴染もとい腐れ縁の桜を発見した。席は五十音順に割り振られている。おれの名字が名和で桜の名字が新田なのだから当然といえば当然だ。
桜と俺はちょっとした事情があって関係が少しギクシャクしていた。それもあってか桜は他人行儀にそっけなく声を掛けてきた。
「一年間、よろしくね。翔ちゃん」
あいつにあわせて俺はぶっきらぼうな返事する。
「よろしくな。桜」
あいつは小さく頷いた。これ以上話すこともないので俺は自分の席に座ろうとする。
「ひょっとして二人って付き合ってるの」
唐突にそう発言したのは桜の右隣の男子生徒だった。面倒くさいと思いつつそいつのほうを見ると恐ろしいほどのイケメンだった。そう言えば何度か廊下で目にしたことがある。大抵の場合、女子生徒と仲良さそうにしていた。俺たち二人が黙っているとそいつは申し訳無さそうに頭を下げた。
「もしかして変なこと言っちゃったかな。ごめん。下の名前で呼び合っているから恋人同士なのかなって思ったんだけど」
呆れながらすぐに訂正しようとする。
「ちげーよ」
「違う」
俺と桜の声が被る。思わず桜と目を合わせた。イケメンがその様子を見て笑う。恥ずかしくてたまらない。桜も同じようだ。顔を真赤にして俺を睨んでいる。その気迫に促されるように口ごもりながらイケメンに弁解する。
「まあなんていうのかな俺たちは幼馴染なんだよ」
俺の言葉に桜は黙って頷く。イケメンが本当に嬉しそうに呟いた。
「羨ましいね。親の仕事の関係で小さいころは引っ越しが多くてさ。それで僕は幼馴染って言えるような人はいないから」
俺は苦々しい気持ちになった。幼馴染がいることはいいことばっかりじゃないぞ。そう突っ込みたくなったが桜がすぐ後ろにいる。それに初対面の相手に否定的なことを言うのもどうかと思い適当に相槌を打った。
そこで扉が開く音がしたので、反射的に見てみると楠木さんが入ってくるところだった。俺は貼り付けられたように楠木さんを見つめる。そんな俺の目線に気づいたのか楠木さんは少しだけ微笑む。クラスメイト万歳。こんな体験ができるなんて夢のようだ。
楠木さんが俺の方へと近づいてくる。どういうことだと思っていると楠木さんが座ったのは俺の隣の席だった。こんな幸運あっていいものか。今日の帰り道、自動車事故にでもあうんじゃないだろうか。俺の思惑など全く気づいていないイケメンがすぐに楠木さんに話しかける。
「今年も一緒のクラスだね。楠木さん」
楠木さんはイケメンに対して俺に微笑んだ時より大きな笑顔を向ける。
「千種~。ちょっと他人行儀すぎない。さんづけだなんて」
「いやでも女子はみんなさんづけで呼ぶようにしてるから」
楠木さんは半ばあきれたように半ば親しみを持っているように答えた。
「千種って本当に博愛主義者なんだから」
イケメンの本名は千種というらしい。楠木さんと千種が親しいのを知って少しぽかんとしてしまった。そんな俺に楠木さんは微笑みながら話しかける。
「私は楠木律。去年は違うクラスだったよね。なんていう名前なの」
実は俺と楠木さんはこれが初対面ではない。しかし悲しいことにどうやら楠木さんは俺のことを覚えていないようだった。動揺して黙りこんだ俺を楠木さんが訝しむ。
「どうしたの?」
俺は気をとりなおした。第一印象がその後の印象を決定するという。覚えられていないことは残念だ。だが逆に考えればここで良い第一印象を与えることができる。
うまく答えようとしたが緊張のあまり俺はむせてしまった。ひどく格好が悪い。それなのに楠木さんは俺のことを本気で気遣ってくれる。
「大丈夫? 体調が悪いの?」
「大丈夫だよ。ちょっとむせただけだからさ」
なんとか頭を上げるとすぐ近くに楠木さんの顔があった。頭が混乱して俺は何も言えない。一体何がどうなっているのか。俺の頭脳は完全にフリーズした。
「本当に大丈夫なの」
楠木さんはそう言って心配そうに俺の背中を擦り始めた。驚きのあまり恥ずかしさも忘れて楠木さんの顔を直視する。俺が見つめていることに気づいた楠木さんはニッコリと微笑んだ。その行動で俺は大丈夫でなくなってしまいそうだった。それから楠木さんは思い出した様に再び尋ねる。
「ところでまだ名前聞いてないんだけど」
「俺は名和翔平。一年間よろしく」
気合が入りすぎて頭を深々と下げてしまった。楠木さんと千種が顔を見合わせて笑う。俺は気恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じた。
楠木さんは律儀なことに俺の後ろの席の桜にまで声を掛ける。それなのに桜は俺に答えた時より一層無愛想に挨拶した。
「私は新田桜。よろしく」
楠木さんはそんな反応にもかかわらず笑顔を崩さない。悪気はないのだろうが、千種が無駄な情報を加える。
「幼馴染らしいよ」
「えっ」
思わず間抜けな声を出した俺に千種が不思議そうな顔で尋ねる。
「あれさっきそう言ってたよね」
しごくまっとうな指摘だ。慌ててその場をなんとか取り繕う。
「うん、そうだよ。急に言うからびっくりしただけ」
そして楠木さんがちょっとうっとりしたような顔で呟いた。
「幼馴染かあ。素敵だよね。私にはそういう人いないから」
千種がすぐに相槌を打つ。
「うん、うん。そうだよね」
俺と桜は顔を見合わせる。あいつもうんざりしたような顔をしていた。
今日あるのは始業式とクラスでの教科書、プリント類の配布ぐらいだった。だけど非常に濃い時間を送ったと思う。なにせすぐそばに楠木さんがいるのだ。ちなみに楠木さんは自己紹介の時間でこう言っていた。
「楠木律です。好きなことは料理、手芸、運動」
それから楠木さんはちょっと間を開けてから言った。
「苦手なことは勉強かな」
クラスがどっと沸く。楠木さんもその反応を見てくすっと笑った。けっこう冗談を飛ばすんだなと俺は感心した。
そして帰り道。同じクラスなのだから用がない限り、俺と桜は殆ど同じタイミングで帰りだす。家が隣なのだから方向も一緒だ。これまで距離をおいていた桜が一緒に帰ろうと言い出し時は不審に思ったが、結局了解した。