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prologue

 雨が、降っていた。

 ぱらぱら、なんて可愛いものではなくて、硬いコンクリートを灰色から黒一色に染め上げて、地を激しく叩く凄まじい勢いで。

 大粒な上に落ちてくる速さもなかなかお目にかかれない程で、差している傘の布地が心配になってしまう。地面に叩きつけられて跳ねた雨粒が容赦なく足元を濡らして、履き慣れないヒールとストッキングの色がどんどんと変わっていく。

 視界を遮る程に激しく降る雨に、自然、憂鬱になってしまうのは仕方のないことだろう。

 波紋が絶えず揺らめく水溜まりをうっかり踏んでしまって、ばしゃりと跳ねた飛沫が更に足元を濡らす。元々不快に思うくらい足元はびしょ濡れだったけれど、更に濡れたことでその不快感が増していく。

 まるで私の焦りを表しているかの様な激しい雨に、思わず眉根を寄せた。

 傘を差し直して、腕に抱えていたものをしっかり抱え直す。

 靴は履き替えれば済むし、ストッキングだって新しいものを履けばいい。けれど、今抱えているものだけは。これだけは、決して濡らす訳にはいかない。

 焦りと、不快感と、おめでたい日に到底相応しくない天気への憂鬱と嫌悪、それと大事なものが濡れやしないかという心配。

 これを渡す相手への申し訳なさと、逸る心が私の視界を狭めていた。

 踵の高いヒールでは普段の様に走ることができなくて、かつかつと靴音を響かせながら、自分が今出せる全速力の速足で、目的地に急ぐ。

 あと五分もすれば目的地は目の前だ。

 慌てて家を飛び出したときは果たして間に合うかとひやひやしたけれど、この分なら余裕がありそうだ。

 それでも早く着けるに越したことはないから、急く心に従って全速力だった脚を更に速める。全力で動かしていた脚の筋肉が悲鳴を上げ始め、痛みを感じても構うことなく脚を進める。

 早く。早く。早くこれをあのひとに渡して、おめでとうと言うんだ。そして謝ろう。酷いことを言ってごめんなさいと。

 きっと傷付けた。心にもないことを言って、感情のままに実家を飛び出した。悲しませただろうし、行き先も告げず出ていったから、心配だってさせただろう。

 衝動のままに動いて、冷えた頭で考えたら、理由はくだらない単純なものだった。

 大事なひとを、世界でたったひとりの肉親を盗られてしまうと、幼子の様な寂しさと悔しさと気に入らないという我儘で、喚いただけだ。

 非は全て私にある。膨れた激情を抑えられず、世間的には大人として扱われる年齢になったにも拘わらず、子供の様に振る舞った私が悪い。

 けれど素直に帰って謝るという潔い選択もおかしなプライドが邪魔をしてできなくて、結局今日まで何もしなかった。

 一人暮らしをするのに借りたマンションの一室で悩んで悩んで悩みまくって、出した結論が当日謝るということ。

 あまり豊かとは言えない懐から出せるぎりぎりの金額で、考えられる中で一番のものを買った。

 喜んでくれるかは解らない。喜んで、くれたら嬉しい。

 許してくれるのかも解らないけれど、自分にできる精一杯の謝罪と祝福は、これしか思い浮かばなかった。

 大事なひとの幸せを、自分が祝わなくてどうする。くだらないプライドは捨ててしまえばいい。バカな自分をバカだと貶した。

 いつの間にか脚だけでなく、服まで濡れていた。逸るあまりに、まともに雨を被ってしまったようだ。

 けれども抱えたものは無事だったから、構わなかった。

 目の前の角を曲がれば、目的地はもうすぐだ。

 焦りと逸る心が頂点に達して、身体が勝手に動く。

 もう傘はまともに差していなかった。

 もうすぐ、もうすぐで会える。

 早くこれを渡して、それで───

 焦りと興奮は視野を狭めさせる。

 湧き上がった気持ちのままに、角を曲がろうとして。


「…………え?」


 誰かに、ぶつかった。

 ほぼ同時に、不思議な程何の抵抗もなく、腹部に埋められた感触に脳が停止する。

 一拍置いて、感じるもの。


「っ、あ、…………ぁ」


 傘が私の手から滑り落ちる。

 意味を為さない単語が口から零れて、喉から紅いものが溢れて落ちる。

 刺された、と理解するのにかなりかかった。

 腹部に感じる感覚と、経験のない激痛。

 刃物を埋められた箇所が焼ける様に痛い。自分の腹部にあるものの存在が信じられなくて、現実を信じられなくて、感じる痛みと流れる紅いものを認めたくなくて。

 凍り付いた脳は何の指示も出さず、動けない私はその場で茫然と空を見つめるだけだった。

 抵抗しない私に気付いたからか、獲物を手にした高揚からか。

 私を刺した者──背格好からして、恐らく男──は、私に突き立てたナイフをずるりと抜いた。

 異変に気付いた通行人達の悲鳴が聞こえる。

 男は、一度抜いた凶器を再び私に突き立てた。

 刺しては抜き、抜いては刺して。

 何度も何度も何度も何度も──刺した。

 口の端から紅いものが伝う。込み上げるものを我慢せず吐き出すと、真っ赤だった。それをきっかけに何回も咳き込み、紅いものを吐く。

 何故か、痛みは最初の一回だけで、それ以降は肉を切られる感触しか感じなかった。

 ようやくナイフが抜かれたとき、私は重力に従って倒れた。

 私が倒れても、男はまだ飽きたらないらしい。倒れた私に馬乗りになって、またナイフを突き立てる。

 通行人の悲鳴や怒声、私を刺しながら男が上げる狂った笑い声が鼓膜を震わせた。

 視界が霞んでくる。

 白みを帯始めた視界が、倒れたときに落とした、さっきまで抱えていたものを捉えた。

 落とした所為で汚れて、雨に打たれみるみる濡れていくそれに、脳で考えるより先に身体が動いた。


 ──拾わなくちゃ。


 どうしてか腕はまだ自由で、必死でそれに手を伸ばす。けれど、僅かに届かない。

 この日の為に見繕った服も、慣れない化粧も、どうでもよかった。穴だらけで真っ赤になっても、どろどろに崩れようが関係ない。

 あれがなければ、意味がない。

 何とかして拾おうとしても、あと少しのところで指先は空を掴む。

 唇から意味のない単語と空気を漏らしながら、足掻いた。

 けれど、すぐに終わりを告げる。

 馬乗りになっていた男が、通行人の誰かが呼んだらしい警察官に取り押さえられ退かされるのと、暴れた男に地面に転がったそれを踏み潰されるのは、ほぼ同時だった。

 大きく目を見開いて、ぁ、と小さく声が落ちた。

 大丈夫ですか、すぐに救急車が、と切迫した様子で呼び掛ける制服姿の警察官の声を、とても遠くに感じる。

 意識が濁っていく。


 ─────おねえちゃん、ごめんなさい


 頭にその言葉が浮かんですぐ、意識は闇に堕ちた。

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