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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

昔ばなしパロディ

ヘンゼルとグレーテル異聞

作者: 工藤るう子



 さては、むかしむかしのものがたり。


 暗い暗い、シュバルツバルトの森の奥。

  道に迷った兄と弟。

  ふたりの両親は、村人たちに殺された。

 


 これは当時はまだまだ貧しい国だった、ドイツでの出来事。

 ドイツと言う国名すらまだありはしなかった時代である。

 群雄割拠は世の常とて、小さな領地があまた点在し、領主たちが勝手気ままに戦争に明け暮れていた。

 そんな、時代。

 ジブシーたちは、戦火を潜り抜け、村々を経巡り生活をしていた。

 


 流行り病は村中を席巻した。

 病を持ってきたのはジプシーだ―――と、最初に口火を切ったのは誰であったのか。狂乱した村人たちに、滞在していたジプシーたちは惨殺された。

 ひとつところに集められ、火をかけられたのだ。

 虐殺から逃れたのは、森に遊びに出ていた幼い兄弟。

 兄のクラウスは八つ。

 弟のハンセルはまだ六つである。

 森から両親や仲間たちの無惨なありさまを目撃したふたりは、森の奥へと逃れた。

 何日も何日も、木の根や草、そんなものを食べてふたりは飢えをしのいだ。

「お兄ちゃん」

 しがみついてくる弟に、

「だいじょうぶだよ」

 自分の不安を堪えて優しく囁くのは兄のクラウスである。

 クラウスの胸の鼓動を聞いているうちに、ハンセルはいつのまにか眠っていた。

「さて、どうするべ?」

 自分で自分を奮い立たせるように、クラウスは呟く。

 両親や仲間たちの無惨な最期を思えば、復讐したいとくらい欲望が滾りあがる。しかし、ハンセルの寝顔は天使のように可愛くて、復讐よりも弟を守ってやらなきゃと強く思うのだ。

 どうして、病気の原因をジプシーのせいにするのだろう。

 いつも、いつも。

 なにか、間尺に合わないことがあれば、すぐさま自分たちのせいにされ、石をぶつけられたりして追い払われた。

(力が欲しい! そうすれば………こんな目には合わないのに)

 陽の射し込まない、暗い暗い森の奥。

 ぎゃぎゃぎゃぎゃ…

 ホゥホゥホゥ―――

 なにかの鳴き声。

 かさこそと下映えを踏み拉く音。

 さわさわと梢を渡る風。

 そのたびに心臓が跳ね、怖さに泣きたくなる。

 遠く、狼の遠吠えが聞こえた。

「起きろ。起きろってば、ハンセル」

 こんなところにいたら、肉食の獣に食べられてしまう。

 焦ってハンセルを起こしたクラウスは、まだ目を擦っているハンセルの小さな手を掴んで走り出した。

 闇雲に走って、もう、わけがわからない。

「おにいちゃぁん。もう歩けないよぉ…」

 ハンセルが泣いている。

 ああ、どうしよう。

 ぼくだって、泣きたい。

 でも、ここでぼくが泣いてしまったら………。

 けなげに気を引き締める。

 


◆◆◇◆◆


 


 場所は変わって。

 アフリカ。

 黄金色のサバンナ。

 女豹が子を宿した。

 精霊に属する女豹だった。

 子を産み育てる間、精霊としての力は失せる。

 しかたのないことだけれど。

 精霊は自然界を愛し守る存在。

 その愛が守護の意識が、すべて、己の仔へとだけ向けられるのだ。それは、一時的ではあれ精霊としての資格を失うことだった。

 時折り興が乗れば、ひとの姿となりサバンナを駆け巡ることもあった。それも、できなくなる。

 それでも、愛した雄の子を産み育てることは、女豹にとってこのうえない幸福だったのだ。

 女豹が産んだのは、三頭の仔。

 二頭の仔は、金の毛並に黒い薔薇斑。

 残る一頭は、漆黒の毛並をしていた。

 女豹の幸せは、今しばらくは続くはずだった。

 灰色の石の床と同じ材質の壁で、周囲は囲まれている。

 上空にはやはり灰色の空。

 ここは、G男爵の城の奥庭である。

 館は地面より数段高い位置にあり、G男爵は階段の途中に佇んでいる。

 ワインの満たされた玻璃のグラスがG男爵の手の中でかすかに揺れている。

 一番下の広場には、四頭の豹が木の杭につながれている。

 みごとな肢体の、成豹である。そのうち三頭までは、美しい金の毛並に薔薇の斑を持ち、残る一頭は、夜の闇のような漆黒の毛並をしていた。

 豹に向かうようにずらりと並んだ兵士たちの手には、銃が握られている。

 張り詰めた雰囲気を感じ取っている豹たちは、鼻面に皺を寄せ、それ自体が強力な武器である白い牙を剥き出す。

 威嚇の唸り声が低く庭に響いている。

 男爵が、ぐいと杯を干した。

 どんと、手すりに杯の底がぶつかる音が、大きく響く。

「やれっ」

 男爵の声に兵士が構えをとる、そうして、しばらくのタイムラグの後に凄まじい轟音をたてて、銃が火を吹いた。

 睨みつける、琥珀のまなざし。

 すぐそこに、母の骸。

 そうして、兄弟たち。

 美しい金の毛並に薔薇の斑。

 大地を染める、血潮。その命の流れ出る匂いが、むっと黒豹――グランの鼻孔を射た。

 なぜ? 

 どうして自分は生きているのだ。

 グランの胸を過ぎったのは、絶望に近い凶暴な疑問だった。

 満足そうな人間の男。

 首に絡む輪が、それに繋がる鎖が、忌々しくも煩わしい。

 これさえなければ、母を兄弟たちを殺した男に飛び掛ることができるのに。

 ガシャンガシャンと、鎖を引き千切ろうと力をこめる。

 鎖を引っ張るたびに、首の輪が喉に食いこむ。

 それを見下ろし笑っている、髭の男。

「処置をしろ」

 髭を生やした男が、命じる。

「毛皮を痛めるなよ」

 担ぎ上げられる、母の兄弟たちの、骸。

 毛皮が欲しいためだけに、こんな殺しかたをしたというのか。

 グランの喉から、悲痛な叫びが迸った。

 自由に駆けた、大地。

 どこまでも青い空、黄金色の大地。

 巣立ちの時まで、母と兄弟たちと、サバンナを駆け巡る。

 そういう時間が流れてゆくのだと思っていた。

 人間という生きものに囚われるまで。

 鉄の檻。

 振り下ろされる棍棒。

 投げ与えられる肉。

 おそらく、グランは、普通の豹ではないのだ。外見が違うことが、彼を他の兄弟たちと違った存在にしたのか、それとももとよりそうであったのか。与えられる肉を、空腹だからといって喰らうことをよしとはしなかった。

 それらはもとより、野生の誇りとは決して相容れるものではなかった。

 だからといって、飢えに負けた兄弟たちを蔑みはしない。飢えは死に繋がる。生きようとするのは本能なのだ。だからこそ母もまた、グランの「餓え死に」を容認しなかった。

 彼女の吐き戻す肉を喉の奥に幾度も感じた。

 復讐を果たすにも、逃げ出すにも、生きていなければならず。

『食べなさい。なにをしてでも生き延びなさい』

 母もまた、普通の豹ではなかったのだろう。

 母のことばにグランはついに、膝を折った、振りをした。

 自由を奪われたことにより、誇りは鬱屈し怒りとなって静かに胸に降り積もっていったのだけれど。

「男爵さま。これは処置をなさらないので?」

 小男がグランを指差す。

(噛み千切ってやろうか。近寄って来い)

 憎しみのままに、グランの口からぞろりと白い牙がこぼれる。

「黒豹を飼うのも一興だろう。見ろ、黄金造りの首輪がよく映える、この艶やかな肢体のみごとさを。F子爵が、さぞや羨ましがろうよ。黒豹は、ヤツの憧れだったからな」

「しかし、飼いならすのは、ムリなのでは?」

「なら、ひとしきり皆に見せびらかして、そののち、毛皮を取ればいいことだ」

「はぁ」

「なんだ」

「いえ。黒豹は、体毛が保護色ではないかわりに、普通の豹よりも強暴だとか…」

「そんなことか。何のための兵士たちだ。みごとに、三頭をしとめただろうが」

 はっはっはと、哄笑する男爵。

 それはそうなのだが、つながれた豹を銃で殺すなら、その辺の小娘でもできることではないか。

 小男が内心の危惧を隠し、追従の笑いを唇の端にのせる。

 ふたりがくるりと背を向ける。その瞬間、ガチッと不気味な音がした。それは、グランを縛めていた鎖が切れた音だった。

 気づいていた者はいなかったが、先ほどの虐殺のおりに目標から逸れた弾丸が、鎖に傷をつけていたのだ。

 助走もなく、グランはみごとな跳躍をした。

 優雅で力に満ちた身のこなし。

「うわぁ」

「ぐぅぇっ」

 兵士たちが銃を構えたのは、男爵の背後に従っていた小男が尾の一振りで広場に転がり落ちた後だった。

 


 ―――<インターミッション>昔の銃なので、構えたからといって撃てるなどというものじゃない。種子島と呼ばれる銃くらいをイメージしてもらえればいいのじゃないかと思うのだけど―――

 


 男爵を押し倒し、上から肩を押さえつけ圧し掛かり、グランは首筋に牙を立てようとした。

 しかし…。

 銃のタイムラグに思い至った兵士の一人が、火を消し握りの部分でグランを殴りつけた。

 したたかに打ち据えられ、刹那視界がぶれる。

 頭を一振りしたグランは、邪魔をした兵士を視界に捉え、威嚇した。

 琥珀色のまなざしが、凶暴な白い牙が、四肢の鋭い爪が、兵士をその場に呪縛する。

 背筋を這いずり上がる恐怖に思わず後退さった兵士。それは、ほかの兵士たちにも影響を及ぼした。

 そうして、最後の一押し。

 それは、銃の暴発だった。暴発といっていいのか、恐怖から銃の存在を忘れていた兵士たちの手にした銃が、火を吹いたのだ。

 目標を失った弾丸の一つが、グランの足を打ち抜いた。

「追え。殺すな。捕まえろ」

 無理な注文が、我を取り戻した男爵の口から発せられる。

 しかし、その頃には、グランは疾うにG男爵の城を後にしていたのだ。

 


◆◆◇◆◆


 


 さて、思い出してくださいね。これは、『ヘンゼルとグレーテル』。誰がなんと言おうとも、登場人物の名前が違おうとも、性別が微妙に違っていても、それをベースに進みます。読者の皆さんは、グリム童話集『ヘンゼルとグレーテル』を思い出してください。

 さまよったふたりが見つけたのは、お菓子の家。

 そこに住んでいるのは、ひとを食べる恐ろしい魔女。

 ふたりは魔女に捕まりました。

 兄ヘンゼルは、檻に入れられ太らされる。最初に魔女の餌食となるのだと決定されています。

 妹グレーテルは、下働きをさせられる。

 いいですか。思い出せましたか?

 はい。ではここでお兄ちゃんとハンセルちゃんの兄弟に戻ります。

 舞台はシュバルツバルトの奥にある魔女の家。

 時間は少しばかり前後します。

 


◆◆◇◆◆


 


「どれどれ、もうそろそろ食べごろに太ったろうねぇ」

 でっぷりと太った魔女が、どっこいしょと椅子から立ち上がる。

 曲がった腰を叩きながら、クラウスが囚われている家畜用の檻を覗き込んだ。

 しかし、この魔女は目が悪い。一説には蜘蛛の化身であると言う噂のある魔女である。窓の小さな薄暗い家の中。家畜用の檻は家の隅にあるから、なおさら暗くて、魔女には中の様子がわからない。

 だからといって、ハンセルに確かめさせようものなら、いつまで経っても「痩せている」と返ってくるのがわかりきっている。

 「太った」と答えようものなら、兄が食べられ、その次はハンセルの番なのだから。

「久しぶりの子供の肉。早く食べたいものだねぇ」

 ケッケッケッケ…と、期待に満ちた魔女の笑いが小屋に響く。

「さて、ぼうや。手を出してごらん」

 ご機嫌な魔女に応えて檻の隙からクラウスの腕が突き出されます。

 それは、前に食べられたのだろう、こどもの骨。クラウスがハンセルに探させたものだった。

 目の悪い魔女は、それをすりすりと撫で擦り、

「なんでだろうねぇ。おまえは、いっこうに太りゃぁしない。骨ばっかりじゃないか。しかも骨みたく固いばっかだ。まったくいまいましいったら。弟に言って、もっと肉を食べさせなきゃねぇ……」

 ぶつくさとぼやきながら、魔女が落胆に足どりを重くして引き返してゆく。

 クラウスは、ほぉーと、胸を撫で下ろした。

 こんなことがいつまでも通じるはずがない。

(どうすりゃいいんだー!)

 頭を抱える。

 食べ物に不自由はないが、最終的に自分やハンセルまでもが食べられるのでは割に合わない。

 素敵にすばらしいお菓子の家を見つけた時の自分の愚行を思い返す。

 返す返すも自分の意地汚さが悔やまれてならない。

 それでも、

(あの時食わなきゃふたりして飢え死にしてたんだから)

 自分で自分を慰める。

(どうにかしなきゃな)

 最終的には、せめてハンセルだけでも助けなければ。

 そうクラウスが決意を新たにした時だ。

「お兄ちゃん」 

 こそりと、這いよってきたハンセルの声。

「どうしたんだ?」

 ハンセルの声に、今までにない響きを感じて、不安になる。

「おまえを食うって言ってんのか」

「ちがう。あのね。黒くっておっきな猫を見つけたんだけど、怪我してるの。どうしたらいい?」

 こーんなのと、ハンセルが示す大きさが本当だとしたら、

「それ本当に猫か?」

 疑わしい。

「わかんない。でも、とっても苦しそうなんだ。たくさん血が出てるし」

「矢傷か? ナイフか?」

「こーんな穴が前脚のつけ根に開いててそこから血がでてる」

 指で小さな丸を作る。

(銃?)

 猟師が持って帰る獲物の傷口がそんな感じだろうか。

(やばいかも。いや、チャンスか??)

 迷う。

 獲物を追ってきた猟師が助けてくれるだろうか?

 それとも…。

 せかすハンセルに応急手当の仕方を教え、クラウスは、考えた。

 


◆◆◇◆◆


 


 深い息を一つこぼして、グランは目を閉じた。

 じくりと、傷口が燃える。

 追ってくる気配。

 うるさい猟犬の吠え声。

 馬の嘶き。

 蹄の地面を蹴立てる音。

 忌々しい人間の、匂い。

 ゆたりと、グランが起き上がる。

 弱ったところを見られたくはない。

 それに、まだ、あいつらを殺れるくらいの力は残っている。

 血が滾る。

 しかし、猟犬は襲いかかってはこなかった。

 人間たちも、なぜなのか銃を手にしてはいない。

 人間たちの手には、それぞれ縄や鎖が握られているばかりだった。

 これならば、負けるはずもない。

 迎えうつ。

 後には、累々たる屍が築かれた。

 しかし、グランも無傷というわけではない。

 城で撃たれた傷が深くなっていた。

 足を引きずりながら、グランはシュバルツバルトの奥へ奥へと入り込んでゆく。

 大地には、彼の流した血が、滴り落ちた。

「だいじょうぶ?」

 人間の匂い。

 しかし、その匂いはG男爵とその配下たちのものではなかった。だから、反応が遅れたのだ。

 少しばかり甘く、しかしその大部分は恐怖と悲しみと心配とに満ちている、匂い。

 うっそりと瞼を持ち上げて、グランは相手を見上げた。

 霞む視界。しかし、威嚇することは忘れない。

「こわくないよ」

 幼い声。

(こどもか…)

 威嚇をやめる。

 グランは、我を忘れてはいない。

 人間は憎いが、それは、男爵たちであって、このこどもではないのだ。

「ちょっとまってて。お水、飲んでいいよ」

 声とともに木製の粗末な桶が目の前に置かれた。

 そうして、少年はどこかへ駆けていった。

 地面に吸い込まれるように、瞼が落ちる。

 知らぬ間に眠っていたらしい。

 気がつけば、そこに少年の裸足の足があった。

「痛いけど、我慢して。どうしたらいいのか、お兄ちゃんに聞いてきたんだ」

 桶の水が取り替えられた。

 びりびりとやぶった生成りのエプロンを水に浸し、ハンセルはグランの傷口を拭った。

 見たこともない巨大な猫がハンセルを見る琥珀色のまなざしに、今は威嚇の色はない。しかし、警戒はしているだろう。

「これは、血止めの薬草なんだよ」

 よく揉んで、傷に当てる。

 瞬間、ちょっとだけ鼻に皺がよったような気がした。

 しかし、べつにハンセルに襲いかかるようすはない。

 少しだけ残っていた緊張を解いて、ハンセルはシャツの裾を破りぐるぐると薬草を巻きつけたのだ。

「水汲みにいつまでかかって…なんだねぇおまえ、その血のにおいは」

 魔女がハンセルをじろじろと眺める。

 目がほとんど見えないとわかっていても、気分のいいものではない。

「ご、ごめんなさい。大きな猫が怪我をしてたんだ」

「助けたのかい。ものずきだねぇおまえも。そんなことをしてる暇があるんだったらさっさと夕飯の支度をおし。おまえの兄さんの食事はいつもより多めに作るんだよ。………それを一週間続けるんだ。それでも太らないなら、あきらめてさっさともう食ってしまおう。骨と皮でもスープくらいなら取れるからね」

 最後のほうは独りごとらしかったが、それこそがハンセルを真っ青にした。

(ああ、どうしよう。お兄ちゃんがたべられてしまう)

 最後の肉親までもを亡くしたくなかった。

 独りぼっちになったら、どうすればいいのかわからない。

 兄が食べられないようにするには、どうすればいいのだろう。

(お兄ちゃんが食べられないですむのだったら、ぼくなんだってする)

 ハンセルはぎゅっと手を握りしめた。

 食事の支度の途中、手が空く時がある。

 そっと、魔女の目を盗み、ハンセルはクラウスの捕らえられている檻へと近づいた。

「お兄ちゃん。お兄ちゃん」

 ほとほとと鍵のかかっている檻の壁を叩き、クラウスを呼ぶ。

「どーした。ハンセル」

 クラウスに、魔女の独りごとを教えるハンセルだった。

 クラウスは真っ青になったが、あえてなんでもない振りを選んだ。

「それよか、でっかい猫はどーなった?」

「うん…あの場所から動きたくないみたいだったから………。後で様子見に行ってくる」

「そうか。早くもどれよ。魔女に見つかったらどやされっぞ」

 努めて明るく手を振るクラウスだった。

 ハンセルが台所仕事に戻ってゆく。それを見送って、クラウスはごろりと寝藁の上に転がった。

(あと一週間…か………)

 焦りが恐怖へと変化する。

(死にたくない。喰われたくなんか、ない)

 震えをいなすために、クラウスは自分で自分を抱きしめた。

 どうにもならない毎日。

 日々は確実にめぐってゆく。

 今日は、七日目、最後の日。          

 クラウスの怯えは酷くなり、檻の隅にうずくまっている。

 そんなクラウスを見ても、ハンセルに何ができるだろう。

 どうしたって、檻は開かず、壊れもしない。

 一見やわなつくりの木の檻なのに、魔女でなければ開けられないのだ。

 食べ物がいくらでも出てくる魔法の壺のから、クラウスの最後の食事用の肉を引きずり出す。

(こんなのがあるのなら、わざわざ人間の肉を食べなくてもいいの)

 食事の支度をしながら、ハンセルは考える。

「それは私がやろうから、おまえは、この大鍋を洗っておいで」

 魔女が言いつけたのは、巨大な大鍋を洗うことだった。

 何に使う大鍋なのか、考えるまでもない。

 大鍋を洗いに行くふりをして、ハンセルはグランのところへと急いだ。

 夕方まで、あと数時間。

 クラウスの命もそれだけしか残されていない。

 もはや、頼れるものは何もない。

 それでも、最後の、細い命綱。

 ハンセルは、グランに賭けることにしたのだ。

 魔女の小屋からはなれた小さな窪地は、潅木の繁みに囲まれた、ささやかな隠れ家だった。

 グランの傷はかなりよくなっていた。小動物を自分で捕まえて食べている。

 小動物では空腹を満たすには充分ではない。それでも、自らの手で捕らえた獲物は格別だった。なによりも、精神面での充足を与えるものだったのだ。

「お兄ちゃんが、魔女に食べられる………」

 ハンセルがぽそりと呟いたのは、グランの傷口をあらためた後だった。

 不安がふくらんで、破裂しそうだ。

「お兄ちゃんが食べられたら………………」

「たすけて…」

「おねがい、お兄ちゃんを助けて。ぼくを食べていいから」

 ぐるる…と喉を鳴らして、グランがハンセルを見上げた。

 ぴくっと、グランの耳が揺れる。

 鼻面に皺が刻まれ、白い牙が剥き出しになる。

 はじめて見るグランの剣呑な表情に、ハンセルが思わず後退ずさる。

 グランはハンセルを背後に庇うようにして立ち上がった。

 しばらくして、ハンセルにもグランを警戒させたものの正体がわかった。

 犬の吠え声が、馬の嘶きが蹄のたてる響きが、馬を操っているのだろう人間の声が、ハンセルの耳に届いてきた。

(えぇぇぇ? なに?)

「わぁっ」

 ザンッと音を立てて、猟犬が繁みを飛び越えてきた。

 続いて繁みを掻き分けるようにして、人馬が。

(ひとつ、ふたつ………とお)

 ぐるりと取り囲む十を数える人馬に、瞠目する。

 ハンセルを背後に庇ったグランの尾が、左右に緩やかに揺れている。

 黒く優美な尾が、ぱたんぱたんと、地面を叩く。

 鎖や縄を構えた男たちも、黒豹とともにいる少年に驚いてはいる。

「おまえに用はない。そこから退きなさい」

 男たちの誰かが、ハンセルに命じる。

 しかし、ハンセルは動けない。

 男たちが、猟犬が、怖かった。

「おまえに危害を加えるつもりはないのだから」

 苛立った声。

「どけというのだっ」

「うわぁっ」

 苛立ち紛れに、鎖をふるう。

 奮われたれた鎖が、地面を叩く。

 その音が、グランを刺激した。

「うわっ」

 鎖をくわえ、男を馬から引きずりおろす。

 馬が後ろ足でたたらを踏み、犬が吠える。

 前肢で男を押さえ込み、周囲を油断なく見渡した。

 飛びかかってくる犬を、男を抑え込んでいるのとは別の前肢の一振り尾の一撃でことごとく撃退する。

 犬の苦痛の悲鳴が響き、もとより臆病な質の馬の意識に恐怖を植えつけた。

 馬は首を振り嘶き後退しようとする。

 乗り手の叱責、鞭や拍車の痛みなど、目の前の恐怖を超えるものとはなりえない。

 目の前にいる漆黒の生きものが、「死」を招く存在だと馬たちの本能は悟っていた。

 やがて、馬と同じく本能が調教より勝ってしまった猟犬たちが怖気づくと、人間たちにはなすすべがなくなる。

 G男爵――雇い主の命令とはいえ、命があってこそのことである。鎖や縄では、豹に敵うはずもない。そう悟った者たちが、誰からともなく後退さる。

 逃げ去る人馬、猟犬の一群。

 後には、一人の兵士と、運悪く息絶えた猟犬の骸だけが、残された。

 グランが前肢を男の胸からのける。

 ずりずりと這いずりグランから逃れた兵士は一目散にその場から遁走した。

 


◆◆◇◆◆


 


「大鍋ひとつ洗うのにいつまでかかってるのだえ? 大鍋をそこのかまどにかけたら、次は水汲みだよ」

 魔女に従いバケツを取ると、ハンセルは川へと向かった。

「お兄ちゃん。お兄ちゃん………」

「ハンセル…か」

「どうしよう」

「…だいじょうぶだ。いい考えがあるんだ。ただし、ハンセルおまえにも手伝ってもらわないとこれはできない。おまえの力が足りなくてもだ」

 クラウスはハンセルの耳元に考え抜いた手段を耳打ちする。

「いいか、できるな。チャンスは一度きりだぞ」

「それならだいじょうぶ。あのね……」

 ハンセルがことばを返そうとした時、

「それ、じゃまだよ。おどき」

「わぁっ」

 やって来た魔女にハンセルは突き飛ばされた。

「ハンセルっ」

 くらくらするあたまをさすりながら、ハンセルは壁伝いに立ち上がった。

 引きずられてゆくクラウスの足が、土間を掻く。

(ああ、こうしていられない)

 縄でぐるぐるまきにされたクラウスは、テーブルの上に様々な食材と一緒に転がされている。

 かまどの上には、湯が滾り始めている大鍋を魔女が巨大なへらでかき混ぜている。

「魔女さん。魔女さん。火が消えそうだよ」

 ドキドキしながらクラウスに言われたとおりの台詞を口にする。

「何をやってんだね。おまえはかまどの火ひとつ守れないのかね。使えない子供だよ」

 ぶつくさ言いながら、どっこいしょとかまどにしゃがみこむ。

 薪は燃えさかってっている。

「アチッ。いい具合に燃えているじゃないか」

 しゃがみこんだ体勢のままハンセルを振り向く魔女の不安定な格好。

 これを、待っていたのだ。

 力まかせに体当たりしたハンセルは、しかし、魔女の大きな背中を転がすことはできなかった。

「あっ」

 クラウスは絶望に蒼白になる。

 どっこいしょと立ち上がる魔女の口は歪んでいた。

 ケッケッケ…と、気味の悪い笑いを響かせた後で、

「おまえたちの悪巧みくらい、先刻知っていたよ。魔女をあなどればどうなるか。おまえも、一緒に喰らってやろう」

 奥襟を掴み、引きずりあげる。

「ハンセルをはなせっ」

「お兄ちゃん」

 ぐらぐらと煮え立つ湯気がハンセルの頬をなぶる。

「お兄ちゃん。お兄ちゃん。………たすけて」

 ハンセルが叫んだその時、ドンと大きな音を立てて小屋の扉が壊れた。

「猫さんっ!」

 現れたのは、グランである。

 グランはぐるりと部屋の中を確かめると、魔女に体当たりをした。

「ぎゃぁぁ」

 魂消る悲鳴。

 ひっくり返った大鍋と熱湯が、魔女に襲い掛かったのだ。

 これはたまったものじゃない。

 魔女の手から離れて空中に放り出されたハンセルは、床にぶつかる寸前にグランがその背中で受け止めた。

 魔女は、焼けた大鍋に押し潰され、死んでいた。

 ゆるゆると魔女の人形が解けてゆく。

 今やそこで息絶えているのは、八本の脚を縮めて腹を上にした一匹の巨大な蜘蛛だった。

 助かったのだという実感は、ゆっくりと胸の奥底から湧き上がってきた。

「あ…ありがとう………」

 グランの首に抱きつき、ハンセルは額を押しつけた。

 グルルル…と、グランが喉を鳴らす。

 

 食べ物が出てくる壺を手に、二人と一頭は魔女の小屋を後にした。

 彼らの行方を知るものは、いない。

 


◆◆◇◆◆


 


「きゃぁぁ」

 女性の絹を裂くような悲鳴に駆けつけた兵士たちは、ただ呆然と立ち尽くす。

 G男爵は、寝間で死んでいた。

 ケダモノにずたずたに引き裂かれて。

 内臓が散らばり、部屋は男爵の血で真っ赤に染まっていた。

 男爵の寝間から豹の毛皮のコートがなくなっていることに、誰一人気づいたものはいなかった。

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