闇の女王の日
闇の女王の日
12月22日は名前のない日。
闇の女王をなぐさめる日。
衰えゆく半年の王が闇に消え、
盛りゆく半年の王はいまだこの世に生まれていない。
この一日だけは名前がなく、
最も闇の深い夜。
美しい闇の女王が、
運命の糸を紡ぐ夜。
「お腹減った」
最も闇の深いその夜、ニオンは断食に耐えかねて、寝床からごそごそとはい出した。
クリスマスも迫るその日は、闇の女王をなぐさめるために、村の家々では食事を取らないのが普通だった。
ニオンはぐうぐう鳴るお腹を手で押さえる。
「お腹減った」
同じ言葉を繰り返す。
我慢できなくなったニオンは、寝台から飛び降り、上着をひっつかむ。
上着をかぶり、壁伝いに扉を探す。
こっそりと台所に行って、食べ物を探そうと思ったのだった。
すると背後から声をかけられる。
「何してるの?」
「わっ!」
ニオンはびっくりして振り返る。
家族のデューアが暗闇の中に立っていた。
白くぼんやりとした影に、ニオンは危うく腰を抜かしそうになる。
「でゅ、デューア」
ニオンは暗闇に浮かび上がったデューアの顔をまじまじと見つめる。
「どこへ行くのニオン? まさか台所へ行くんじゃないよね? 村のしきたりでは、今日が終わるまで、何も食べちゃいけないんだよ?」
村に伝わる古いしきたりには、病人や体の弱い者以外は、今日一日食事をしてはいけないとある。
ニオンはとっさにどう言い訳をしようかと考える。
「こ、これは、あの」
ニオンは視線をさまよわせる。
偶然、廊下の突き当たりにあるガラス窓から、青白い月の光が降り注いでいるのが目についた。
「これは、そう。今夜の月があまりにきれいだったから、外に出てもっとしっかり見ようと思ったの」
ニオンは台所とは反対の方向、玄関の方へと向かう。
デューアに背を向けながら、彼の反応をうかがう。
「ふうん」
デューアはそれについては何も言わなかった。
後は外に出て、デューアが寝るのを待って、台所に忍び込もうとニオンが思ったときだった。
「ちょっと待って」
デューアが呼び止める。
ニオンはぎくりとして立ち止まる。
「な、何?」
まさか台所に忍び込もうと考えたことがばれたのだろうか。
ニオンは緊張したおももちで振り返る。
デューアの口からは、ニオンが思ってもいない言葉が飛び出した。
「僕も行くよ」
服を着替え、コートと帽子を被り手袋をして、二人は名前のない夜に月を探しに外に出た。
女の子のニオンが赤いマフラーをつけて、男の子のデューアが青いマフラーをつける。
二つともお母さんが編んでくれたもので、クリスマスプレゼントのために、戸棚の中に隠してあるのをニオンは知っていた。
――ちょっと借りるくらいいいよね? 後で戻しておけば。
ニオンは眠っているお母さんに心の中で謝って、こっそり持って出かける。
「さあ行こう」
デューアが銀色の瞳を、雪が止んで晴れてきた夜空に向ける。
「う、うん」
本来の目的とはずいぶんと違ってしまったニオンは、複雑な気持ちでうなずく。
一面に雪の降り積もった景色を眺め、デューアはぽつりとつぶやく。
「僕、こうして大人たちに秘密で、夜に外に出かけるのは初めてだ」
普段滅多に感情を表に出さないデューアがうれしそうにはしゃいでいるのを見て、ニオンはほっとした。
――デューアが楽しそうなら、いっか。
ニオンもひざまで雪にうめて、積もったばかりの雪の上を歩く。
デューアの隣に並ぶ。
「どこへ行く?」
ニオンが金の瞳を向けると、デューアは灰色の雲に隠れた月を探すように、銀色の目をこらす。
「東の森の一番高いオークの木の枝の上からなら、青い満月が見えるかもしれない」
青いマフラーを揺らし、デューアは雪に真新しい足跡をつけて歩いていった。
一年で最も闇の深いその夜は、森の動物までもが息を潜めているようだった。
森に入った二人は、木々の間から漏れる星の明かりを頼りに、雪の中を歩き続けた。
二人の足音以外物音はせず、森の中は静まり返っていた。
「静かだね」
ニオンは前を歩くデューアの背に話しかける。
デューアの青いマフラーが目印になって、ニオンが暗闇で彼の姿を見失うことはなかった。
「一番高いオークの木は、後どれぐらいなんだろう」
黙っていると闇に溶け込んでしまいそうなくらい、夜の森は静かだった。
ニオンは白い息を吐きながら、歩き続ける。
「ねえデューア。もうすぐクリスマスだよね。今年のクリスマスのごちそうは何が出るかなあ」
ニオンはお母さんの手料理を思い浮かべる。
去年のクリスマスは鶏を丸々一羽焼いて、そこに木苺の甘酸っぱいソースをかけて食べたのだ。
それに林檎を使ったケーキに、白いパンもたくさん焼いてくれた。
お父さんとお兄ちゃんは森へモミの木を切りに行って、大きなクリスマスツリーを作ってくれた。
お姉ちゃんと一緒に作った飾りを吊るして、とても豪華なクリスマスツリーになった。
家族みんなでクリスマスツリーを囲み、おいしい料理を食べ、プレゼントを交換する。
ニオンにとって、その日は一年で最も幸せな日だった。
前を歩くデューアは何も答えない。
黙々と足を動かし続けている。
「ねえ、デューア」
返事をしないデューアを不審に思い、ニオンは大きな声を出す。
すると突然デューアが立ち止まる。
「しっ」
口に指を当てる。
ニオンははっとして口を閉ざす。
森の前方、暗がりの中に黒い人影が見える。
「だ、誰?」
ニオンは人影を見て、凍りついた。
こんな夜の森の中に他に人がいるなんて、考えもしなかったのだ。
デューアは黙り込んだまま、じっと人影を見つめている。
白い雪の中に立つ黒い人影は、ほっそりとした女性のようだった。
「おや珍しい。こんな時間に、森の中に子どもがいるなんて」
女性は足音一つ立てず、こちらに近付いてくる。
ニオンが女性の足元を見ると、白い雪に影がうつっていなかった。
もうすこしで悲鳴を上げるところだった。
女性は黒いヴェールを頭からすっぽりとかぶり、闇のように黒いドレスを着ていた。
月のように青い瞳が、ニオンたちを見つめている。
女性は雪のように白い指で、ニオンたちを指差す。
「いけない子達ね。こんな闇の夜に森を歩くなど。わたくしがいなければ、狼どもの餌になっているところよ」
白い手を差し出され、ニオンは恐怖のあまり後ろに下がる。
ニオンをかばうようにデューアが前に出る。
まるで貴婦人に接するように、丁寧に頭を下げる。
「申し訳ありません。まさか人がいるとは思わなかったので」
女性は頬に指を当てて笑う。
「ふふふ。あなたはわたくしが怖くはないのね。こんな夜に出歩くなど、よっぽどの理由があるのかしら?」
デューアは隠すことなく淡々と答える。
「今夜はあまりに月がきれいだったので。月をもっと近くで見たいと思って、こうして森にやって来たのです」
「そう」
女性は血のように赤い唇をゆがめて、静かに笑う。
ふいと横を見る。
「でも、月よりも美しいものは、他にもたくさんあるわよ?」
つられてニオンとデューアがそちらを見る。
すると暗い森の中にいたはずが、二人は金の彩色の施された豪華な宮殿の中に立っていた。
床は顔が映るほど磨きこまれ、辺りには美しい音色が満ちている。
広間いっぱいに並ぶテーブルの上には、食べきれないほどの料理が並んでいる。
周囲には上等な服を着た美しい人々がおり、皆がニオンとデューアに料理や杯をすすめるのだった。
「どうぞ、坊ちゃん」
「こちらもおいしいですよ、お嬢ちゃん」
ニオンはすすめられる料理があまりにおいしそうだったので、思わず手を伸ばしそうになった。
「食べるな!」
デューアが短く叫ぶ。
ニオンは伸ばしかけていた手を慌てて引っ込める。
金の目を白黒させてデューアを見る。
「ど、どうして?」
デューアは険しい銀色の目を細める。
「忘れたのか? 今日は、名前のない日だ。闇の女王の日なんだぞ。村の人たちは、闇の女王をなぐさめるために、断食をしているんだぞ?」
「え、えっと」
ニオンはすぐにはわからなかった。
デューアはいらいらとしてニオンに怒鳴る。
「わからないのか? この人は、闇の女王本人だと言っているんだ。ここで食べ物を食べたら、村に伝わるロビンの物語のように、妖精の世界にとめおかれて、元の世界に戻れなくなるかもしれないんだぞ?」
デューアの話を聞いて、ニオンはロビンの物語を思い出す。
昔々、村にロビンという若者がおりました。
ある日、ロビンはニワトコの影に座ってしまいました。
そこは異世界の入口だったのです。
ティル・ナ・ノグにたどりついたロビンは、美しき人々から歓待を受けました。
月日が過ぎ、村の暮らしが懐かしくなったロビンは、村に帰ろうとしました。
しかしティル・ナ・ノグの食べ物を食べたロビンは、二度と元の世界に戻ることは出来ませんでした。
ニオンの顔からさっと血の気が引く。
「わたしたち、元の世界に帰れないの?」
涙のにじんだ金色の目で、デューアを見つめる。
デューアは何も答えず、黒いドレスを着た闇の女王に向き直る。
「闇の女王様、闇の女王様。僕たちを元の世界に戻してください」
闇の女王は、広間にあった黄金の椅子にゆったりと座り、頬に指を当てる。
「あら、食事は気に入らなかったかしら? ならば、こちらはどうかしら」
さっと手を振る。
すると広間にいた人々の間から、一人の女性が進み出る。
栗色の髪に、水色の目をした美しい女性だった。
ニオンはあっと、声を上げる。
「デューアのお母さん」
女性はデューアに歩み寄る。
両腕を伸ばし、デューアをそっと抱きしめる。
「デューア、会いたかった」
優しげな声でささやく。
デューアは動かない。
銀色の瞳で食い入るように女性を見つめている。
「ど、どうして?」
ニオンは訳がわからなくなる。
「だ、だって、デューアのお母さんは、去年のクリスマスに」
「ふふふ」
椅子に腰掛けた闇の女王が艶やかに笑う。
「ここはティル・ナ・ノグ。死した者が住まう、常若の国。死んだ者がここにいても、不思議ではないわ」
ニオンは女性と闇の女王とを見比べる。
「わたくしは勇気のある者が好きなの。あなたは子どもなのに、初めて会ったわたくしに動じなかった。それだけで十分、ティル・ナ・ノグに住まう資格はあるわ」
デューアは凍りついたように動かない。
「デューア。ここでずっとお母さんと一緒に暮らしましょう」
女性がデューアの耳元に優しい声でささやく。
ニオンは急に不安になった。
目の前にいるデューアが、どこか遠くに行ってしまうのではないか、という不安にさいなまれる。
去年のクリスマスの日、デューアのお母さんは病気で死んでしまった。
デューアのお父さんは、他の女の人とすぐに結婚してしまった。
皆が新年を祝う中、引き取り手のないデューアは遠い親戚のニオンの家にやってきた。
家にはお父さん、お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、ニオンの五人が住んでいたが、お父さんもお母さんも、もう一人子どもが増えるのを気にしなかった。
ニオンも自分と同い年の兄弟が出来たのが、うれしくて仕方がなかった。
「ニオンはお姉ちゃんなんだから、デューアの面倒をよく見てあげなきゃだめよ?」
お父さんとお母さんに言われて、ニオンは一生懸命デューアを外に連れ出した。
家に来たばかりのデューアは、いつも暗い顔をしていて、ずっと本ばかり読んでいた。
「また読んでる!」
デューアの本を引ったくり、外に連れ出すたびに、お兄ちゃんとお姉ちゃんによく笑われたものだ。
「ほどほどにしてあげなさいよ」
ニオンや家族の努力のかいあってか、デューアはちょっとずつ暗い顔をしなくなっていった。
森に木苺をつみに行ったこと。
川に魚釣りに行ったこと。
村の学校ではデューアは自分よりも勉強ができ、いつもわからないところを教えてもらったこと。
様々な思い出が走馬灯のように、ニオンの頭をよぎっていく。
――せっかく、デューアと家族になれたと思ったのに。
ニオンの金の両目から涙があふれる。
「デューア、デューア」
喉からおえつが漏れる。
デューアは立ち尽くしたままだ。
その唇からかすれた声がもれる。
「青い満月が、見たかったんだ」
デューアの頬を一筋の涙が伝う。
ぽたりと黄金の床に落ちる。
その背を抱きしめていた女性が顔を上げ、眉をひそめる。
「母さんは、青い満月が出たら、それを自分だと思えって言ったんだ。いつも夜空から見守っている。あなたは一人じゃないと、そう言い残して死んだんだ」
デューアは女性の肩に手をおく。
ゆっくりと体を離す。
「ごめん、母さん。僕が戻らなかったら、ニオンも家族のみんなも、きっと心配すると思うから」
デューアの銀の両目からぽろぽろと涙がこぼれる。
女性から距離をとる。
女性は呆けたような表情をして、デューアを見上げている。
「もう、戻らないと」
きびすを返し、ニオンを振り返る。
デューアの顔には悲しそうな、何かをこらえるような表情が浮かんでいる。
「デューア!」
ニオンはデューアに駆けより、その手を握りしめる。
「よ、よかった、デューア。わたし、デューアがいなくなったらどうしようかって」
ぶんぶんと勢いよく上下に動かす。
「大げさだなあ」
デューアは迷惑そうな顔をする。
「と、とにかく、よかった」
ニオンはうれしさに顔をくしゃくしゃにする。
デューアは黄金の椅子に座る闇の女王を見る。
「闇の女王様、闇の女王様。どうか僕たちを、元の世界に戻してください」
黒いドレスを着た闇の女王は、考える素振りをする。
「食事も、母親も、あなたを引き止めることはできなかったようね」
降参とばかりに両手をあげる。
「わかったわ。あなたたちを元の世界に戻してあげる」
闇の女王が十字を切ると、その腕に灰色のワタリガラスが現れる。
ワタリガラスは女王の腕を離れ、広間を横切り、扉の方へと飛んでいく。
「あのワタリガラスを追いかけなさい。ただし、元の世界に戻るまで、後ろを決して振り返らないように。振り返ったら、二度と元の世界に戻れなくなるわよ。それから、道すがらの妖精のいたずらには、くれぐれも用心することね」
闇の女王は冷たい笑い声を立てて、霞のように消える。
広間は一瞬で闇に包まれ、美しい音色も、人々の声も、何も聞こえなくなる。
灰色のワタリガラスだけが、光をまとったように輝き、進む道を示しているかのようだった。
「行こう」
ニオンとデューアは離れ離れにならないように手をつなぎ、ワタリガラスを追いかけた。
ワタリガラスは翼を羽ばたかせ、闇の中を一直線に飛んでいく。
ニオンはデューアに遅れないよう走ったが、その背後の闇の中から不気味な声が聞こえてきた。
「におん、おいで。におん」
周囲の闇の中から、山びこのように反響してくる。
「でゅーあ、こっちにおいで」
その声は一つではなく、四方から響いてくる。
ニオンは走りながら、ぎゅっとデューアの手を握る。
「でゅ、デューア」
青いマフラーをしたデューアは険しい顔をする。
「昔話の、オウルの話を知っているだろう? 妖精の世界から戻る途中、賢いオウルは様々な妖精の声に惑わされたという話だ。この声も、きっとそんな妖精の声だろう」
デューアはその声を気にした様子もなく、さっそうと走り続ける。
ニオンはそんなデューアの横顔を見る。
――デューアって、すごいな。それに比べて、わたしは。
うつむき、赤いマフラーを引き寄せる。
急に自分がつまらないもののように思えて、ニオンは心細くなる。
――わたしは、デューアの足を引っ張ってばかりだ。今回のことといい、デューアを外に連れ出したのは、そもそもわたしだし。わたしがいなければ、デューア一人でもっと簡単に元の世界に戻れたかもしれないのに。
ニオンの足が鈍る。
心が重くなるのと同じように、急に体が重くなったようだった。
足の鈍ったニオンを不審に思い、デューアが手を引っ張る。
「ニオン。早く走らないと、ワタリガラスを見失ってしまう」
振り向くことはできなかったので、デューアは声でニオンを励まそうとする。
「きゃっ」
ニオンは不意に足をとられ、暗闇で転ぶ。
「ニオン!」
手をつないでいたデューアも、つられて転びそうになったが、かろうじて踏みとどまる。
「ニオン、大丈夫か?」
「う、うん」
ニオンは闇の中に倒れたまま、小さくうなずく。
「におん、におん」
ニオンの足元からうめき声が聞こえ、何者かが足を強くつかむ。
ひっとニオンは悲鳴を飲み込む。
振り返りかけた視界のすみに、妖精の醜い顔が見えたのだ。
その顔はけらけらとニオンを見て、笑っているようだった。
ニオンは恐怖を押し殺し、せいいっぱい声を張り上げる。
「わたしは大丈夫。ちょっと足をくじいただけだから。だからデューアは先に行って」
デューアを先に行かせることが、動けないニオンにできる唯一のことだった。
泣きそうになるのを必死に我慢して、ニオンはつないだ手を離そうとする。
するとデューアの手が力強く握り返してくる。
「何を言っているんだ、ニオン。二人で帰らないと意味がないだろう?」
デューアの声が励ますようにふってくる。
ニオンはデューアが自分を心配してくれることがうれしかった。
しかしだからこそ、デューアの足手まといになるのが嫌だった。
ニオンはぎゅっと唇をかみしめる。
「行ってったら、行ってよ。わたしのことはいいから、とにかく行って」
デューアとつないだ手を振り払う。
ニオンはかんしゃくを起こす。
「わたしはデューアの足手まといになりたくないの。今回のことだって、わたしが言い出さなければ、こんなことにならなくてすんだし。夜に目が覚めたのだって、本当はお腹がへっただけなの!」
もはや自分でも何を言っているのかわからなくなる。
ニオンは肩で息をして、デューアの背を見つめる。
息を整え、無理にでも明るい声を出す。
「後で、絶対に行くから。だから、先に行っててよ」
デューアは何も答えずに、静かに歩き出した。
最初はゆっくりと、次第に早く。
デューアの背と、灰色に輝くワタリガラスが遠ざかっていく。
――これで、いいの。デューアが助かってくれれば、これで。
暗闇に取り残されたニオンは、四方から迫ってくるうめき声を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
ワタリガラスを追いかけ、雪の森に戻ったデューアは、慌てて後ろを振り返った。
「ニオン!」
デューアが出てきた暗い穴は消え、雪の上を冷たい風が渡っていく。
「ニオン、ニオン!」
デューアは必死になって雪を手で掘る。
森の枝に止まったワタリガラスが、青い満月の下、じっとその様子を見下ろしている。
やがて翼を羽ばたかせ、ワタリガラスは夜空に飛び立つ。
「ニオン、ニオン、あれ?」
灰色のワタリガラスが飛び立つと、ニオンとの思い出が霞みのように消えていく。
その面影や、一緒に過ごした記憶、名前さえ思い出せなくなる。
青い満月の光がこうこうと照らす雪の森で、デューアは呆然と立ち尽くす。
「僕は、何をしていたんだ?」
夜空を振り仰ぐ。
青いマフラーを引き寄せ、白い息を吐き出した。
闇よりも深い暗闇の中で、ニオンは声を聞いた。
「ほう、腰抜けだと思っていた娘も、少しは気概があるではないか」
ニオンがうっすらと目を開けると、灰色の輝くワタリガラスが目の前にいた。
「大切なもののために身を捧げる、その献身の心持ち。このまま捨て置くにはもったいないくらいだ」
ワタリガラスは青い瞳でニオンをじっと見上げている。
ニオンは急に体が軽くなったような気がした。
「うぅ」
上体を起き上がらせる。
ワタリガラスは悲しげに泣いて、首を横に振る。
「しかし、運命の糸は紡がれてしまった。もはや、お前の戻る場所はない」
ニオンは金色の瞳を瞬かせる。
ワタリガラスの言っていることはわからなかったが、もう家に帰れないことはなんとなく理解できた。
「もう、おうちに帰れないの?」
ニオンはぽろぽろと涙を流す。
起き上がり、両手で顔をおおい、声を殺して泣く。
ワタリガラスはそんなニオンを見上げている。
「だが、運命の糸を結びなおすことはできる。お前の切れてしまった糸を、お前の元の家族と近しいものと結びつけることはできる。これがわたしにできる、せいいっぱいのことだ」
ニオンはしゃくり上げる。
「ほ、本当? またお父さんやお母さんたちに会えるの?」
こぼれ落ちる涙を手の甲でぬぐう。
ワタリガラスはこっくりとうなずく。
「あぁ。お前がもとの世界に戻ることを望むのならば」
「戻りたい。戻りたいよ! またお父さんとお母さん、みんなに会いたい!」
ニオンは大声で叫ぶ。
ワタリガラスは青い瞳に悲しげな色を宿す。
それはこの先のニオンの行く末を案じているようだった。
「しかし、お前の次の居場所は、お前の生まれ育ったような温かい場所ではないかもしれぬ。この先、困難な道のりがお前を待っているかもしれぬ」
ニオンはぶんぶんと勢いよく首を横に振る。
「それでもいい。もう一度、お父さんとお母さんに会えるのなら。お兄ちゃんやお姉ちゃんやデューア、みんなが元気でいるのなら。わたしはどんな辛い目にだって耐えてみせるよ」
「その願い、確かに聞き届けた。その言葉をゆめゆめ忘れぬよう、心にしっかりと刻み付けておくがいい」
ワタリガラスは輝く灰色の翼を広げ、飛び立つ。
暗闇の中、ただ一つの光であるワタリガラスの飛んで行く先を、ニオンは金色の目で追う。
「ついてくるがいい。地上への道を案内しよう」
ニオンは涙をぬぐい、赤いマフラーを引き寄せ、ゆっくりと立ち上がった。
デューアが家に帰ると、家族の誰もニオンのことを覚えていなかった。
クリスマスのプレゼントにするはずだった青いマフラーをデューアが持っているのを見つけて、母親が文句を言う。
「もう。赤と青のマフラーはクリスマスにあげようと思って、戸棚に隠しておいたのに!」
それから母親は不思議そうな顔をして首を傾げる。
「でも、それをデューアが持ち出すなんて、そんなこと一回もなかったのに。それに赤いマフラーは、どこにいったのかしら? 誰にあげるつもりだったのかしら」
母親はそう言って、しきりに首を傾げていた。
デューアはその赤いマフラーをどこかで見たことは覚えていたが、誰がつけていたのかまでは思い出せなかった。
まるで最初から彼女などいなかったかのように、何事もなく月日は流れ、デューアは成長して大人になった。
デューアは村を離れ、街に出て働くようになった。
その街のデューアの下宿する家に、金の瞳をした気立てのいい娘がいた。
下宿先のがめつい夫婦と親子とは信じられないような、優しい娘だった。
聞くところによると、孤児としてもらわれてきたらしい。
今は使用人のようにこき使われているらしいことを、近所から聞いた。
デューアは娘を昔の自分の境遇に重ね合わせ、同情した。
それに娘に初めて会ったとき、彼女を他人とは思えなかった。
ある程度たくわえができると、デューアは娘に求婚した。
娘は最初ためらった。
養父母が娘の持参金と称して、多額の金を要求したからだ。
しかし養父母が相次いで病で亡くなり、親類に嫌われていた二人の葬儀をデューアが代わって執り行い、落ち着いたところで娘はようやく結婚に同意した。
結婚式はデューアの故郷の村の教会で挙げることになった。
準備のために久しぶりに村に戻ったデューアは、そこで村の人々歓待を受けることになる。
「いやあ、デューアもようやく結婚か」
「てっきり、一生結婚しないかと思ってたぞ」
村の知り合いに散々からかわれ、デューアは新たに妻になる娘を連れて両親の元をたずねた。
家には両親だけでなく、兄夫婦や姉夫婦、その子どもたち里帰りしていて、久しぶりに家族一同がそろうことになった。
「こちらが妻の」
家族の前で娘を紹介する。
娘は優しく微笑んで、頭を下げた。
「はじめまして、ニオンと申します」
娘の金の瞳に涙がにじんでいるのを、家族の誰も気付かなかった。
ただデューアだけが、娘の金の瞳に宿る寂しさと、彼女に対する不思議な懐かしさにひっかかりを覚えていた。
娘はデューアの視線に気づき、こちらを振り返る。
心配そうなデューアに、笑顔でこたえる。
「わたしなら、大丈夫です。もう、全部終わったことですから。今はあなたや、あなたの家族と、こうして一緒にいられるだけで、わたしは幸せです」
うれしそうな、悲しそうな、金色の瞳を憂いに揺らし、ニオンは微笑んだ。
おわり
一応はハッピーエンドを基本としているので、こんな終わり方になりました。
突っ込みどころ満載の、行き当たりばったりの展開になってしまいましたとさ。
書いてる途中は、まさかこんな終わり方になるとは、作者だって考えていませんでした。
書いている途中で、「ニオンもデューアも可哀想」とうるうるしながら書いていたりします。
作者だってこんなもんです。
これを読んでいる皆さんも、「なんかむしゃくしゃするから、小説書いてやる!」と勢いで書いてみてはいかがでしょう。
もしかしたら、自分自身も思いもよらない作品が書けるかもしれません。
自分でも、一日でまさか書き上げられるとは思ってもいなくて……。
「うわあ、もう冬の童話の募集が始まってる!」と、わたわたとしながら書いたもので、結果は、まあ、察してください。
どうかこの物語が、少しでも皆さんの喜びとなりますように。
参考文献『ケルトの木の知恵』ジェーン・ギフォード著、東京書籍