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淳于瓊☆伝  作者: けるべろす
南方篇
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第83話 揚州の豪族

固有名詞のルビについて色々とご意見を頂いておりますが

各話で最初にでてくる箇所にのみつけるやり方で暫くはいってみようと思います

 賈郷(かごう)での別れを済まし、揚州(ようしゅう)の入り口にして州都でもある寿春(じゅしゅん)周家(しゅうけ)屋敷へと淳于瓊(じゅんうけい)たちは戻ってきた。周家屋敷には周家の嫡男、周忠(しゅうちゅう)とその従兄弟である周異(しゅうい)の呼び掛けに応じて南方交易に協力してくれることになった三人の揚州の豪族関係者が集まっていた。


 「丹陽(たんよう)太守を務める唐翔(とうしょう)の息子で名を唐固(とうこ)、字を子正(しせい)と申します。豫州(よしゅう)潁川(えいせん)の出です」


 さすがは揚州周家が集めただけあっていきなり現役の郡太守の子弟の登場である。しかも淳于瓊と同郷で潁川出身であった。父親が丹陽郡の太守に任じられ一緒に着いて来ているのだという。

 長江の流れを周家が本拠地とする廬江(ろこう)郡の(じょ)から下っていくとまずは丹陽郡にでる。さらに長江は()郡で東シナ海につながり、さらに海岸線を南に伝っていくと会稽(かいけい)郡になる。現代の南京が丹陽郡、蘇州や上海が呉郡、抗州から福建省にかけての沿岸部が会稽(かいけい)郡といえばイメージし易いであろうか。


 「呉郡は銭唐(せんとう)呉景(ごけい)です。もともとは陳留(ちんりゅう)の出だったのですが父が呉郡の太守を務めた縁で呉郡の銭唐に一族で移住しております。成人したばかりの弱輩者ゆえいろいろと教えてくださると助かります」


 現役の丹陽郡太守の息子の唐固に続いて名乗ったのは元とはいえやはり郡太守クラスの家の子弟である。そして呉郡銭唐の呉景の名前に淳于瓊は心当たりがあった。


 「呉景さんってひょっとして美人さんの姉妹がいたりしますか?」


 思わず聞いてしまったが呉景は気を悪くするでもなくにやりと笑って肯いた。


 「ほう、よく知っているな。才色兼備と評判の姉がおるぞ。ひとつ上の十五歳だ」

 

 "やっぱり呉夫人の弟か!孫堅(そんけん)の夫人じゃねえか!"


 この時点で孫堅はまだ表舞台に出てきていない。曹操(そうそう)袁紹(えんしょう)と同年代と考えるとおそらく十五歳前後になっている筈だが、決して家柄のよい出自ではないので(のちに自称する孫子の裔という家系自体が眉唾もの)有力な仕官の伝手も無くどこかでくすぶっているのであろう。もっとも数年もすればその武勇が揚州に知れ渡ることになるだろうが。


 「呉景どのは兗州(えんしゅう)の陳留から呉へ移られたのか。実は我が唐家(とうけ)も父が丹陽太守を務めたあとは揚州へ移り住むことを考えておるのです」


 唐固の言うように州刺史や郡太守といった地方高官を務めたあとにそのまま任地に一族で移住するケースは少なくない。特に実りが豊かで温暖な揚州北部は人気の移住先なのである。唐固の一族が潁川から丹陽への移住を検討していても不思議ではなかったりする。


 父親が郡太守を務めた縁で揚州にやってきたという点で共通する唐固と呉景であるが、まだ揚州での日が浅い彼らとしては揚州で指折りの名家である周家とは是が非でもつながりを持ちたいのであろう。そしてもう一つ、南方交易に協力すれば進んだ都の文物を容易に入手できるようになるという期待もあるようだ。たとえ僻地の揚州に移り住んでも田舎者にはなりたくないのだろう。実際に唐固も呉景も良家の子弟としての振る舞いをきちんと身につけており鄙びたところはまるで感じられなかった。


 対象的に三人目の男は見るからに山出しの田舎者であった。これは期待できないかなと第一印象を抱いた淳于瓊は男の名前を聞いて目を見開いた。


「其れがしは朱儁(しゅしゅん)、字を公偉(こうい)と申します。会稽(かいけい)郡は上虞(じょうぐ)郡から参りました。其れがしはお二方と違い生まれも育ちも揚州は会稽になります」


 "朱儁!黄巾の乱で活躍するあの朱儁か!"


184年に勃発する黄巾の乱では賊軍の数の前に官軍側が総崩れ状態になる。結局は各地の豪族の私兵が義勇兵という名目で鎮圧に協力してかろうじて漢朝は命脈をつなぐのだが、そんな中で奮闘した数少ない官軍の将の1人が朱儁である。ちなみに孫堅の上司でもある。


 「とある事情でまとまった金が入用になりまして、金策のため其れがしの家で扱っておる絹を買い取ってくれる先を探しておったところ周忠どのにここへ呼ばれた次第にて。なんでもそこな夷人どのがまとまった量の絹を望んでおるとか」


 「うむ。いくらでも買い取らせてもらうぞ」


 デキウスが即答する。なんせ絹は大秦国(ローマ)にまで運べば100倍以上の値段がつくのだから仕入れでケチっている場合ではない。朱儁(しゅしゅん)が提示したのは2000匹(約5万m)と相当な量であった。


 「助かります。これで友人の借金を返す目処がつきました」


 朱儁がなぜ友人の借金を返すのか踏み入って聞いていいものかためらっていると周忠が代わりに説明を始めた。


 「実はもともとその友人の借金というのが我が父(周景(しゅうけい))と関わりのある話なんだよ」


 周忠の説明では朱儁と同郷の周規(しゅうき)という者が太尉の公府に出仕することになった折に郡の倉から百万銭を借りて冠を仕立てたのが借金の原因なのだという。


 「そりゃえらく奮発したもんだな。やりすぎだろう」


 笮融(さくゆう)があきれ声を出した。


 最高位である三公の位につくと公府を開いて自前の官僚を採用することになる。周忠の父である周景も太尉に就いた際に公府を開いて地元(揚州)の人間を数多く採用している。

 そういった地縁で採用された人物については見た目の第一印象で判断されてしまうケースが少なくない。立派な見た目であれば重きを置かれ、貧弱な見た目であれば軽んじられてしまうのである。そのため皆可能な限り一張羅をあつらえてから出仕するのだ。

 それにしても笮融が言うとおり見栄を張るにしても百万銭はやりすぎである。


 「うむ。案の定借金が返せず往生しておるようで、ここは其れがしが力になってやろうかと」


 「いやいや、それをなんで朱儁どのが弁済せねばならんのだ?」


 そんなのその友人の自業自得じゃねえか、と笮融はばっさりと切って捨てる。それに言ってはなんだが朱儁(しゅしゅん)の服装を見る限り朱儁自身も決して裕福な家ではなさそうなのだから猶更である。


 「母上もそう言って反対しておりました。しかし友人が困っておるときには無理をしてでも助力するのが侠気というものです」


 理屈や損得ではなく時には法を犯してでも仲間のために一肌脱ぐことを厭わないのが'侠'という考え方だ。例えば無名時代に関羽や張飛のような豪傑を従えて無頼の集団を形成していた劉備などは遊侠の輩の典型だろう。あるいは宦官の勢力が強まっていく中で若き曹操や袁紹も反骨心あふれる遊侠として都で名を馳せることになる。 


 「どうだろう、朱儁どの。絹のことは何かの縁だ、会稽郡の代表として今後も南方交易に手を貸してもらえぬか?」


 周忠が朱儁を誘う。確かに協力者にするにあたり最優先すべきは相手が信頼できる相手か否かだ。呉景や唐固のように太守クラスの名門の家柄でなくとも侠気に溢れる朱儁ならば不足は無いと判断したのだろう。


 「まったく少しの損をしてこそ大きな利益を得られるというものでありますな。まさか其れがしのような無名の男が揚州周家に会稽の代表を頼まれるとは!ご期待に添えるよう尽力いたしますぞ」


 淳于瓊としてもいずれ将軍に出世することになる朱儁であれば異存は無い。


 "黄忠(こうちゅう)の武勇に朱儁の軍才、しかもいずれは呉夫人のつながりで孫堅とも知り合いになれそうだしこのままいけば南方で最強の軍が作れるんじゃねーのかよ"


 史実では潁川黄巾軍を率いる波才(はさい)と官軍を率いる朱儁は血みどろの戦いを繰り広げることになるのだがそのことを知らない淳于瓊は呑気にテンションをあげて喜ぶのであった。


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