第79話 寿春(じゅしゅん)
長江には支流が数多くある。その中でも最大の支流である淮水は黄河と長江の間を東西に流れて長江下流域へ合流する、中国で3番目に大きな河川である。淮水が長江へつながる湿地帯の合肥や居巣の名は三国志の戦場としてご存知の方も多いであろう。
さらにその淮水のそのまた支流に潁水と呼ばれる川がある。文字の通り潁川から汝南を通り揚州の寿春で淮水に合流するその潁水こそが袁基の提案した物流ルートにあたる。南方交易ではさらに淮水から長江に抜けて外洋に出て交州や林邑を周り印度、大秦国を目指すことになる遥かなる道だ。
汝南袁家の本拠地である汝南郡の汝陽を出発して潁水の流れに沿って南東へ四日、淳于瓊ら一行はついに豫州と揚州の境にまで到着した。そこを超えれば揚州九江郡の入り口にして州都でもある寿春である。
"賈郷から汝陽を経由して寿春まで馬で七日か。荷物有りの徒歩だと半月は優に掛かる。それを水運を整備すれば下りで四日、上りでも六日程度といったところかな。一度に運べる量も増えるし行程も短縮できるしまさに一石二鳥だな"
淳于瓊は改めて今回の交易の成功を確信する。
それに水の上なら賊もそうそう襲って来れないというメリットもある。
実際に淳于瓊らは途中で一度10人程度の野盗に襲われかけたのである。黄忠が弓で威嚇するとあっさりと逃げ出したので被害はなかったとはいえ悪政が続き黄巾の乱を待たずして徐々に地方の治安が悪化していることを実感させる出来事であった。
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「寿春の劉家、ですか?」
「ああ。汝南袁家や揚州周家ほどの実力は持ってないが家柄だけなら遥かに上だからな。なんたって光武帝の流れを汲む由緒正しい家柄だ。是非ともお近づきになりてえじゃねえか」
寿春の城市に入ると、笮融が寿春きっての名家には直接渡りをつけておこうと言い出した。潁川と寿春の間の物流が盛んになれば寿春の豪族や名家の懐が潤うことになる。ならばいち早く挨拶に出向いて心証を稼いでおくべきだと言うのである。
"その手の折衝は袁基さんに任せておいても無難なんだろうが汝南袁家の影響が強くなりすぎる危険性がつきまとう。それなら先に挨拶に出向いておいて揚州周家以外にも協力してくれる当てを増やしておくにこしたことはないか"
淳于瓊やデキウスに反対する理由があるわけでも無いのでその日は宿に泊まり、翌朝 寿春劉家を訪問することになったのであった。
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翌朝、笮融の言に従って寿春劉家を表敬訪問した一行だが門前で劉家の家令に取次ぎを拒否されてしまった。
「このような朝っぱらからいきなり押しかけてきて劉普さまに会わせろだと?貴様らのような胡乱な輩を主に会わせることはできるか」
鄭宝という家令はそう言って一行をにらみ付けた。たしかに夷人のデキウス、子ども二人(淳于瓊、波才)となかなかに異色の組み合わせで怪しげな一行には違いない。
「いえいえ、手前どもは決して有象無象の怪しいものでは御座いません。手前は丹陽郡の笮融と申しまして太尉の周景さまにお目を掛けていただいている者です。こちらの子どもはかの高名な賈彪どのに師事をしている潁川の淳于瓊と申します。この夷人が漢と南方の交易を行うにあたり我らが協力している次第でして、寿春劉家にも是非ともご挨拶を、と参った次第に御座います」
「ふうん、手ぶらでやって来られてそのようなことを謂われてもなあ・・・約束のない者がやってきた場合に取り次ぐか否かはこの俺が任されているんだが・・・はてさて」
笮融の名乗りを聞いて取り付く島のなかった家令の態度が変わった。どうやら主人に忠実ゆえに胡散臭い連中を会わせないようにしていたのではなく、取り次いで欲しければ鼻薬をきかせろということのようだ。周りには他の家人も居るのだがこの鄭宝という家令は寿春劉家の家中でかなりの権力を握っているらしく皆見てみぬふりを決め込んでいる。
「ぬう、し、しかし」
淳于瓊らとしても便宜をはかってもらった見返りとして袖の下を渡すことに抵抗があるわけではない。しかし家令が客を主人に取り次ぐのはそれが仕事で当たり前のことである。それに対して賄賂を渡す必要があるとは到底思えない。笮融が目を白黒させているのを見て淳于瓊は助け舟を出すことにする。
「笮融さん、引き上げましょう」
「お、おい。しかし折角だな・・・金なら無い訳でもないし・・・」
笮融としては皆を連れてきた手前、当主の劉普に会うことすら出来ず引き返すことに心残りがあるようだがこんなところで無駄遣いをするべきではない。交易を始めるにあたり資金はあるに越したことはないのだ。それにこの手の輩は一度金を渡してしまうと付け上がるものである。
「構いません。修身、斉家、治国、平天下(自分の身の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治めてこそ、天下が平和になるという意味)といいますが、宗室の流れを汲む寿春劉家の家令がこの有り様とはまったく国も天下も乱れる筈です」
「けっ、さすがに儒者の弟子ともなると言うことが賢しいじゃねえか。だが生憎と此方は口だけの腐れ儒者には用はねえんだよ」
淳于瓊の説教臭い言葉にイラついたのか鄭宝の地が出てきた。
「・・・寿春劉家にとって残念な言葉ですね。このような道に外れた振る舞いを天が許すはずもありません。必ずや天が怒りを示すことになるでしょう」
淳于瓊の不吉な言葉に周りの家人たちが顔を見合わせる。しかし家令の鄭宝は馬鹿にしたように笑い飛ばした。
「どうせ口だけの儒者の言葉じゃねえか。言いたいことがそれだけならとっとと出て行きやがれ。それとも力ずくで叩き出してやろうか?」
鄭宝の脅しに黄忠が刀に手をかけた。しかし淳于瓊はそれを制し、宿に戻りましょう、と言ってさっさと劉家を後にしてしまった。あっけに取られていた笮融らも慌てて後を追いかけてきた。
「奇妙らしくないじゃないか。いいのか、あれで?」
劉家を出たところで笮融が問いかけてきた。これまで実利を伴う技術やアイデアをもって重要人物を説得してきた淳于瓊のやり方とはまるで違うことに違和感があるのだろう。もちろん淳于瓊にある考えがあってのことである。淳于瓊は苦笑しながら振り返った。
「お忘れですか?今日は張機さんが予言した日ですよ」
「・・・!そうか、今日は五月の末日だ」
そう、この日はたまたま五月の末日、つまり張機が日蝕が起きると予言した日なのである。不吉めいた捨てゼリフはそれを見越してのものだったのである。
「周りに居た他の家人たちは恐れおののくしょうね。あの家令の立場は失墜するでしょう。明日には寿春劉家のほうから遣いの者がやってきますよ」
それまで寿春の視察と日蝕の見物をしていることになったのだが明日には劉家のほうから遣いの者がくるという淳于瓊の予想は外れることになった。実際に日蝕がおこり街がざわつく中で夕刻に宿に戻るとすでに寿春劉家からの遣いが宿に待ち構えていたのである。そのまま一行は寿春劉家へと連れて行かれた。
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「劉普の妻、脩といいます。今朝は当家の家令が大変失礼な対応をしたそうでお詫びと、あとお礼を申し上げさせていただきますわ」
「お礼、ですか?」
家令の対応に対するお詫びは分かる。しかしお礼と言われてもなぜなのか分からない。
「あなたが淳于瓊、賈彪さまのお弟子さんね。あなたのおかげであの家令を当家から追い出すことが出来ました。そのお礼です」
あの鄭宝という男は人の良い主人の劉普にうまく取り入って家令になったものの、目下の者や客人に対して横柄なところがあり、妻の脩としては劉家の行く先を案じていたのだという。それが淳于瓊の言葉によって不安で居てもたっても居られなくなった家人たちが一致団結して当主の劉普に訴え出たため劉普も庇いきれずに鄭宝を放逐したのだという。
「ええと、実は私には天文に詳しい友人がいてですね、今日日蝕が起きることを事前に知っていたんですよ」
鄭宝については自業自得といえるがまさか放逐までいくとは予想していなかった淳于瓊はとりあえずネタばらしをしておく。
「あら、そうなの?てっきり高名な方のお弟子さんならそういうこともあるのかと思ったのに。そうだとしても随分と頭がまわるのね。いずれにせよあなたのおかげで子どもたちの将来も不安に思わずに済みそうです。これからも子どもたちの力になってもらえると嬉しいのだけれども宜しいかしら?長男の渙は三歳、次男の曄は一歳ですからまだ少し早いかもしれないけれど良い友人を見つけておいてあげたいの」
「勿論です。こちらこそよろしくお願いいたします。」
"次男の劉曄って魏の劉曄か!たしかに揚州出身だったか"
淳于瓊は脩の言葉に驚いた。
曹操には睨まれてしまい魏に仕える未来は難しくなったとはいえ荀彧ら魏の重臣となる者たちとは良い関係を築いておきたい淳于瓊としては願ったりかなったりの提案である。是非とも長いお付き合いをしたい相手である。
ふと、淳于瓊はひとつのお願いをすることを思いついた。
「脩さま、ひとつお願いがあるのですが・・・」
「なんでしょう?私たちにできることでしたら」
「潁川や洛陽から送られてくる私宛の手紙を預かって欲しいのです」
移動する淳于瓊に手紙を直接届けるのは難しい。賈郷や洛陽から寿春劉家宛てに手紙を送ってもらい預かって貰えば手紙のやり取りも楽になるであろう。手紙の中継地として汝南袁家や揚州周家では政治的な手紙を預けるのに不安があるが皇族の寿春劉家ならばまず問題ない。
こうして淳于瓊は揚州以南へ向かうに際して理想的な手紙の中継地を思いがけず手に入れることに成功したのであった。




