第75話 膠飴(こうい)
翌日、賈郷を案内された張機は興奮の連続であった。
産院や煮沸消毒にも驚嘆した張機であったが、最も衝撃を受けたのは陳正から産院の効果についての報告を受けたときであろう。数値による検証をおこなうという手法そのものが張機にとって頭を殴られるようなショックなのであった。
「昨秋より産院を利用して16人が生まれて死亡した乳幼児は1人となっています。同期間に産院を利用せず出産した場合は24人中4人が死亡しています。乳幼児の死亡率は半分以下になっていますね。さらに産院を利用せず産後の肥立ちが悪くて死亡した妊婦が2人いますが、産院を利用した妊婦は16名全員が元気に退院できています」
淳于瓊、波才、張青、陳良が洛陽に潜入した際にも陳正は賈郷に留守番役として残り、さまざまな改善の結果をしっかりと集計してくれていたのである。このまま陳正が順調に成長すれば朱丹の後を継いで賈郷の内政を支える立場となってくれることであろう。
「16分の1と24分の4。賈郷ではかような子どもまでが計数を用いて検証をおこなっているというのであるか・・・?確かにこれならば誰も産院の効果に異を唱えることなど出来ないのである。なるほど、わしの言葉に南陽の連中が耳を貸さなかったわけであるな」
人々は医者に病を治すことを求める。ベテランの医者ならば人々もその腕を知ることが出来るし信用もするだろうが駆け出しの医者である張機の場合はそうはいかない。張機が新しい医術を広めるには信用が絶対的に足りなかったのである。
「賈郷のようにきちんと統計をとり計数を用いて新しい医術の効果を説明しておれば南陽の人々もホラとは決め付けずにきちんと耳を傾けてくれていたのかもしれんのう・・・」
変人の張機にも多少は自覚があったのか珍しく反省の弁を述べる。しかし張機の故郷・南陽での失敗は賈郷へスカウトする絶好の機会でもある。
「どうでしょう。これもなにかの縁です。しばらく賈郷に腰を落ち着けて張機どのの'医食同源'について検証をおこなってみませんか?」
「ぬ?それは願っても無い話なのである。が、余所者のわしに賈郷の人たちは協力してくれるものなのであろうか?」
「そんな心配はご無用ですよ!昨日の胸部圧迫の件でみんな張機どのを名医だと信用していますからね。それに薬師たちと進めている黄帝内経の検証作業もお願いできますか?」
胸部圧迫については昨晩のうちに丸太を人形に見立てた実演で張機にも伝授してあるからボロがでる心配はない。なにより独自に'医食同源'の研究を続けてきた張機にとって黄帝内経に載っている薬や食べ物の検証作業はまさにうってつけの役割なのである。
「それはありがたい!これぞまさしく天の導きなのであろう。よろしく頼むのである」
張機は淳于瓊の示した好条件に賈郷へ腰を落ち着けることを決断した。これにより淳于瓊が不在の間も賈郷の改善を停滞することなく進むめることが可能となったのであった。
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張機はただ単に淳于瓊から知識を受け取るだけではなく、彼の側からも役立つ知識をいくつか淳于瓊に披露してくれた。
「あ、甘い・・・」
四日後、感動に打ち震える淳于瓊の姿がそこにはあった。張機が賈郷にもたらした知識の中で、南方への出発を引き伸ばしてでも淳于瓊が試さずにいられなかったのは麦芽糖、すなわち膠飴の製法であった。大麦を一晩水にさらし日陰でもやし状に発芽させる。それを蒸かしたもち米と共に低温で煮込んでドロドロにし、濾して得られる粘りのある汁をさらに煮詰めていけば出来上がりだ。四圃制で麦の、苗代で米の増産に成功した賈郷にとって材料の確保は容易であった。
「膠飴は胃腸の薬として有効なのである。腹痛や冷え腹によいのである」
張機はあくまで薬だと言うが淳于瓊にしてみれば薬ではなくまごうことなき甘味である。砂糖の甘みには及ばぬものの果物とは違う本物の甘味なのだ。ご相伴にあずかった波才と陳正も言葉が出せないでいる。
「素晴らしい。そうだ、洛陽の白馬寺に膠飴を届けて絵解き(紙芝居)の会場で子どもたちに振る舞わせよう。紙芝居に飴は付き物だからな。絵解きと共に膠飴が都で評判になるぞ〜」
そうすれば清酒に続く賈郷の安定した資金源にすることができる。
「これからは大麦ともち米の作付けを増やしていこう。陳正、朱丹さんと相談してうまくやってくれ」
「分かりました」
淳于瓊と波才が南方へ出かけた後の膠飴造りは陳正に託すことにする。ただ淳于瓊にはもうひとつ気懸かりなことがあった。
「薪が足りなくなるな。李栄さんに賈郷周辺で燃える石(石炭)が掘れる処がないか情報を集めてもらうことにしよう」
煮沸消毒に清酒造りに膠飴造りまで加わることになると賈郷で手に入る薪だけじゃ火力がまったく足りておらず安定した燃料の確保は急務なのであった。陳正もそれがよろしいでしょう、と同意した。
「それで奇妙さまはいつ南方へ出立されるのですか?」
「明日には賈郷を出る。まずは汝南に向かうことになるな。汝南袁家に挨拶をしないと」
南陽郡太守にして袁家のNo.2、袁隗から書状を預かっているとはいえ、あの汝南袁家の本拠地に乗り込むのだ。はたして鬼が出るか蛇が出るか。膠飴の完成に浮かれていた淳于瓊は気を引き締めるのであった。




