第74話 医食同源
またまた間が空いてしまった・・・
次話は明日か明後日には投稿できるかと
賈郷に行けば黄帝内経を見せてもらえると知った若き医者の張機は居てもたっても居られずそのまま淳于瓊らに付いて来ることを即断した。
「こんな機会を逃す手は無いのである。このまま賈郷まで同行させてもらうぞ。一刻で戻ってくるから暫しここで待たれよ!絶対だぞ!」
興奮冷めやらぬ張機はそう言うやいなや返事も聞かず慌てて南陽の城市に戻っていった。唖然としてそれを見送った淳于瓊は張機を待つ間に黄寿丹の実を採取することにした。
「にがっ!こんな苦い実にそんな効果が本当にあんのかよ?」
好奇心から実をかじってみた笮融がその苦さに顔をしかめる。
「さあ?黄帝内経にはデタラメも多いですからね。検証してみないことには。他にもミミズの皮とかも同じような効果があるそうですよ。さすがに試す気にはなれませんが・・・」
いかに効果があるとしてもゲテモノ系は現代人の記憶がある淳于瓊には手を出しづらい。現代知識の落とし穴として淳于瓊もこればっかりはあきらめざるを得なかったのである。
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張機は宣言どおり一刻以内に旅支度を済ませて戻ってきた。こうして張機を新たに加えた一行は再び賈郷への帰路につくことになったのである。
道すがら淳于瓊は張機と医術や本草学について意見をかわす。
張機はもともとは医者の叔父から医術を学んでいたのだが、非科学的なことの多さに疑問を感じていまでは独学で研究を続けているのだという。
なかでも張機は身体を温める作用のある食べ物と身体を冷やす作用のある食べ物の違いに興味を持ち、さまざまな薬草や食材について調べていたところで、黄帝内経を所有している淳于瓊と出会えたのはまさに僥倖であったとのことであった。
「なるほど身体を温める食べ物を摂れば病にかかり難くなると。逆に火照りや高熱が続くときには身体を冷ます物を摂ればよいと。冬に葱や生姜、夏には茄子や瓜を食べたりすれば病気知らずって言うもんな。そういえば医食同源って言葉もあったな~」
「ほう、'医食同源'とな!ううむ、まさにわしの言わんとすることを的確に表す言葉ではないか!」
'医食同源'は漢方の基本中の基本である。賈郷の薬師たちと薬効を調べることにしか頭が回っていなかった淳于瓊にとってもこれは盲点であった。
これまで産院での煮沸消毒や口覆の着用、便所や蚊帳の普及といった公衆衛生の観点から進めている改善とも相性がいい。病にかかる外的(環境)要因を公衆衛生の概念で、内的(身体)要因を'医食同源'によって改善することで相乗効果が見込めるのではないだろうか。張機もまた淳于瓊の意見に大いに賛成するのであった。
「それは素晴らしい!清潔にすることで病にかかりにくくなることは間違いないのである。さらにわしの'医食同源'の考えを導入すればさらによい効果が見込めるであろう。それにしても郷で清潔なところを用意してそこで出産させるとは考えたものであるな。非常に合理的な考え方なのである」
淳于瓊と張機の会話が弾む。一方で予想外に旧友・張機と意気投合する淳于瓊に黄忠は複雑な面持ちであった。なんせこの旧友は故郷では変人扱いされて誰からも相手にされていない人物なのである。
「おいおい仲景(張機)よ、あんまり子ども相手に調子に乗るんじゃないぞ。奇妙も気をつけてくれ。そいつは南陽でも有名な変人なんだ」
「失礼なことをいうでない。わしはなにも間違ったことは言っておらんのである。たんに南陽にわしの話を理解できる者がいないだけのことである」
「なにを言ってやがる。この間の満月の時なんか、月は太陽が照らした光を反射しているだけで、月が満ち欠けするのは太陽が照らす角度が日々ずれていくからだとかホラを言い出して皆から笑い者になってたじゃないか」
「ホラ話ではないのである。さらに言えば月の満ち欠けだけじゃなく月蝕もまた大地のちょうど真うらに太陽がくるこで大地の影が月を覆い隠してしまうから起きる現象と考えれば説明ができるのである」
医術バカと思っていた張機の思わぬ知識に淳于瓊は驚愕する。
「・・・い、いったい、ど、どこでそれを知ったのですか?」
後漢においても宮中で雇われているごく一部の技官ならばそれぐらいのことは知っていても不思議はない。が、この時代の市井の民にはそんな知識があるはずもなく、張機のような駆け出しの医者が月の満ち欠けの原理を知っているということは驚くべきことなのであった。
「おおっ、坊主にはこの説明が理解できるのか!南陽では誰にもまともに聞いて貰えなかったというのにたいしたモノなのである。月の満ち欠けについては曾祖父さんの遺した書物に書いてあったのである。曾祖父さんは張衡といって天文と器械に詳しくてな、渾天儀(天球儀)や地動儀(地震計)を発明した功績が認められて技官ながら尚書にまで出世した人物なのである。残念ながらわしが生まれる前には他界してしまったのであるがな」
技官から尚書に抜擢などとは少なくとも最近では聞いたこともないほどの大出世である。荀彧の父親が息子の嫁に大物宦官の娘を迎えて尚書になったばかりだが、荀子の裔である名門の出自にプラスして宦官勢の引きがあってようやくつけるぐらいの高位なのだ。
「技官から尚書ですかそれは凄い・・・しかも月の満ち欠けどころか月蝕の原理まで理解されていたとは是非ともお会いしたかったですね。残念でなりません」
古代の科学技術といえば世界史ではギリシャ・ローマの科学者ばかりが取り上げられることが多いが漢の科学技術も決して劣るものではなかったということなのだろう。そして間違いなく張機の曾祖父は後漢を代表する科学者であった筈だ。
「おいおい、たしかにこいつの曾祖父さんは偉い人物だったらしいがそこまで評価するのか?そりゃ仲景(張機)を高く評価してくれるのは嬉しいんだがな。まあ、せいぜいホラ話についてはうまく流してやってくれ」
黄忠としては戸惑いながらも変人の旧友が高く評価する人物が現われたことには嬉しくもあり、といったところなのであろうか。張機とその曾祖父の知識にただただ感服する淳于瓊に対して肩をすくめるのであった。
「だからホラではないのである。そうだ渾天儀によれば今月(167年5月)の末日には日蝕が起きるのである。それがわしの知識の正しさのなによりの証明になるのである。」
そんな黄忠の心中にはまったくお構いなしでマイペースにしゃべり続ける張機なのであった。その一方で淳于瓊は張機の話に頷きながら、この天才バカをどうやって賈郷につなぎ止めるべきかと思案を始めていたのである。
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片道三日の道のりを経て戻った賈郷であったがなにやら騒ぎが持ち上がっていた。しかもその騒ぎの中心には淳于瓊の従者である波才がいたのである。波才は大勢の賈郷の男たちに囲まれていた。
「おーい、紫雲(波才)!」
男たちに囲まれていた波才は淳于瓊の声に気が付くとホッとした表情をみせ、囲みを突破して駆けつけてきた。
「奇妙さま!ちょうど良い処にお帰りになりました!助けてください!」
波才が主のこと以外でこれほど取り乱すのは珍しい。
「おいおい、とりあえず落ち着けよ。いったい留守中になにがあったんだ?」
「そ、それが、馬太公(馬家のとっつぁん)が、、、」
波才は留守中の賈郷で何が起きたのか話し始めた。波才の説明を聞いた淳于瓊はあまりのことに呆然として呻いてしまった。
「馬家のとっつぁんが川で溺れて心臓も呼吸も停まってしまった、と。で、その場所にたまたま居合わせた波才が心臓マッサージを施術して見事蘇生させた、のか・・・。それは騒ぎになるわな」
たしかに万が一の時のために胸部圧迫(心臓マッサージ)のやり方を教えてはいたのだがまさか自分のいないところで実践する場面に遭遇してしかも蘇生に成功させてしまうとは!
この時代に心肺停止に陥った人物の息を吹き返させたなどというのは神仙術か妖術の類以外のなにものでもない。曹操に突っかかったりしたことといい、波才も淳于瓊と同様にやらかしてしまう星の下にいるのかもしれなかった。董卓や張譲に見込まれてしまった自身と合わせて主従揃ってのトラブル続きに淳于瓊は頭を抱えた。
一方で波才はそんな主をみて、なにか自分がとんでもないことをしでかしてしまったのではないかと完全に怯えてしまった様子である。
「も、申し訳ありません。おれ、必死で、、、」
「いやいや、紫雲(波才)が謝ることではないぞ」
落ち込んで謝罪を口にする波才に淳于瓊は焦ってフォローをいれる。
「紫雲がいなければ馬太公は間違いなく命を落としていただろう。よくやったんだ、胸を張れ」
そう言って波才を励ましながらも淳于瓊はどう賈郷の男たちに説明するべきか考えを巡らせざるを得なかった。今回の件を神仙術の類だと思われるのははっきりいってまずいのだ。太平道や五斗米道がそうであったように医術をそのような怪しげなものとして喧伝してしまうと支援者たちの盲信によって神輿に担がれてしまい引っ込みがつかなくなる恐れが多分にあるからだ。
"くそっ。うまく郷の人たちを説得できないか?せっかく張機という天才を見つけたんだ。賈郷で医術を発展させる好機なんだぞ。考えろ、考えろ、考えろ。ん?そうか、いっそ張機を利用すれば!"
「みんな、聞いてくれ!」
淳于瓊の声に賈郷の男たちの注目が集まる。みな淳于瓊の口から納得のいく説明を聞けるものと思っている顔だ。
「馬太公(馬家のとっつぁん)を蘇生させたのは胸部圧迫という術です。私が紫雲(波才)にやり方を教えたのです」
「やはり奇妙さまが・・・」
「まことに奇妙さまは神農(食と医を人々にもたらした古代の神)の生まれ変わりであられたか」
今にも淳于瓊を崇め奉りそうな男たちの言葉を淳于瓊はゆっくりと頭を振って否定した。
「いや、私は神農の生まれ変わりなどではない。紫雲(波才)に教えたのも神仙の術などではない。あれはあくまでも医の術なのです。私もかつて医者から胸部圧迫の術を教えてもらったことがあり、それを紫雲(波才)に教えていたのです」
しかし男たちは淳于瓊の説明に納得できない様子であった。
「そんな医の術など聞いたことがねえです」
一人の男が口にした疑問に淳于瓊は頷いた。
「賈郷には医者がいませんから聞いたことがないのも当然でしょう。あるいは定陵の城市にもそのような術を知る医者はいないかもしれません。しかし天下は広く本物の名医と呼べる存在も確かに存在しているのです。ここにいる私の友人の張機どのもその一人なのです」
「おお、ではその御仁が胸部圧迫の術を・・・?」
この質問には淳于瓊は直接は答えず、意味ありげに笑顔をつくって敢えて男たちのミスリードを誘った。
「張機どのはこれから暫らく賈郷に滞在されて医術を研究される予定です。しかし旅で疲れておられますので質問は明日以降にしてください。今日のところはこのまま館で休んでいただきます。さあ、道をあけて通してください」
淳于瓊の言葉に賈郷の男たちはそれ以上食い下がることも出来ずに素直に道を空けてくれた。男たちの姿が見えなくなるところまで来るとこれまで黙っていた張機が質問をしてきた。もちろん張機が知りたいのは胸部圧迫についてだ。
「さっきの胸部圧迫とはいったいどうのような医術なのだ?」
「張機さんは心臓の役割はご存知ですよね?」
「血を全身に巡らせる臓器であるな。血が巡らねば人は生きていけぬ。ゆえに心の臓が停止すればもはや助かる術はない。馬太公とやらが助かるはずはないのである」
張機の知識はやはりあなどれないものがある。
「おおむね正しい理解ですね。でも心臓が停止しても代わりに人が心臓の脈動とと同じ周期で胸部を圧迫してやれば心臓が動いているかのように血を全身に巡らすことができるのですよ。もちろんいつまでもというわけにはいかず、千の数を数えるほどの時間を稼ぐのがせいぜいなのですが」
「心の臓の代わりにだと!?そんなことが可能なのであるか?いや確かに、しかし、まさか・・・ほんとうに?」
「可能なのです。馬太公は波才の一時しのぎの間に心臓の麻痺が解けて復活したので助かったのですよ」
馬太公は運がよかったのだろう。AEDがないこの時代、心臓マッサージだけで助かる可能性は決して高くはないのである。ちなみに人工呼吸についてはその効果が現代でも疑問視されており淳于瓊は波才に教えていなかった。
「ぬうう!そんな術があったのか!!初耳なのである!!!」
興奮する張機を見やりながら淳于瓊はうまくいったと心の中でほくそ笑むのであった。
"うまくミスリードしたおかげで今晩中に名医・張機の評判は賈郷に広まるだろう。そして賈郷の皆は張機をもろ手を挙げて歓迎することになる。変人としてしか扱われない南陽よりも名医として歓迎される賈郷のほうが居心地がいい筈だ。それに黄帝内経だけじゃなく公衆衛生の概念や産院もある賈郷の方が医術の研究を続ける環境がずっといいんだし。うまく張機を取り込めれば賈郷の医療水準をさらに発展させることができるぞ!"
張機には是非とも賈郷に腰を落ち着けてもらう、と決意を新たにする淳于瓊なのであった。
張衡 78年 - 139年 後漢を代表する天才科学者。南陽の人
※張機と血縁関係にあるかは不明




