第71話 袁隗(えんかい)
汝南袁家は後漢を代表する有力豪族のひとつである。
先代当主である袁湯は三公(司徒、司空、太尉)を歴任した名臣であった。しかし袁湯は宮中のお家騒動の中で三公の位から退き、長男の袁平と次男の袁成、袁紹の父親である、は早逝してしまい一時は勢力が衰えかねない状況に追い込まれたのである。しかし現在は三男の袁逢(袁術の父)が家督を継ぎ、四男の袁隗がそれを支える体勢で汝南袁家の隆盛は続いているのであった。
袁湯 --- 袁平・早逝
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--- 袁成・早逝 --- 袁紹
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--- 袁逢・京兆尹 --- 袁術
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--- 袁隗・南陽郡太守
南陽の書家、師宜官から袁隗に目通りする手筈が整ったとの連絡が淳于瓊のもとにもたらされたのは賈郷に戻って十日後のことであった。
時を同じくして洛陽の城門校尉、竇武からも賈郷に知らせが届いておりそれによると鮮卑族に服している北方異民族の匈奴、烏桓へ漢に帰属するよう密使が出されたとのことであった。匈奴、烏桓が漢に帰属すれば鮮卑族は進退が窮まることになり漢は労せずして北方の脅威を取り除くことができる。淳于瓊が宮中の宴にもぐり込み天子にさずけた策はうまく実行に移されたようであった。ただ竇武からの手紙にはあの宴の時の子どもの正体について探りを入れる動きが一部であるとも書かれており手放しで喜ぶことは出来なかった。
"やはり早い段階で南方へ行方を晦ませるにこしたことはないな。汝南袁家との渡りがついたらとっとと賈郷を出よう"
こうして淳于瓊は取るものもとりあえず、デキウスと笮融とともに南陽へ向ったのであった。
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「奇妙!こっちだ!よく来たな!」
洛陽や長安ほどではないが南陽もまた後漢における代表都市のひとつである。南陽の城市に入った淳于瓊らを書家の師宜官が出迎えてくれた。
「師宜官さん、今回はいろいろとありがとうございます。これ、おみやげの'清酒'です」
「おう、これ、これ!いやあ濁りのないこの'清酒'はすっきりと水みたいに呑めるんだよなぁ。しかも封をしたままなら何ヶ月でも味が落ちずに持つってんだからまさに奇跡の酒というべきか。早く増産して南陽でも手に入るようにしてくれよ〜」
この時代の酒とはいわゆる生酒である。雑味が多く(それが良いという人もいるが)さっさと飲んでしまわねば味が落ちてしまう。師宜官の言うとおり、濾過と低温殺菌処理を加えた'清酒'はまさに奇跡の酒なのである。賈郷における新たな産業(金のなる木)として今後も開発を続ける予定だ。苗代を使う稲作も軌道に乗っている。
「今年も賈郷では原料の米が順調に育ってますからね。期待していてください。それで袁隗さまにお目通りする件ですが…」
「おう、ばっちりよ。話を持ってったら二つ返事だったぜ。以前に奇妙と連れ立って小黄門、張譲の館に行ったときの話はしてあってな。清流派の賈彪どのの弟子でありながら宦官の葬儀に行くとは面白い子どもがおるものだ、と南陽(袁隗)さまの印象に残っていたようだぜ」
張譲の父親の葬儀に出席したせいで淳于瓊は仲間内からずいぶん非難を受けたのだが南陽太守の袁隗はどうやら違う見解を持ってくれているようだ。
「そうですか。まあ、今回は清濁の件ではなく交易の話ですからね。汝南袁家に損をさせるような話ではありませんよ。手紙に書いたとおりここにいるデキウスの交易に対して汝南袁家にご助力をお願いしにきただけなのです」
一緒に南陽までやってきたデキウスを紹介する。師宜官は興味津々といいた風でデキウスの異相をまじまじと見つめていたが、やがて呆れの混じった声で淳于瓊に話しかけてきた。
「まさか奇妙が大秦国人の交易に首を突っ込んでるとはね。茶色の目と髪の人間なんざ初めてお目にかかったぞ。いったい何処で知り合いになったんだ?」
「昨年の大秦国からやってきた使節が賈郷に立ち寄ったのですよ。なかなか優秀な男のようです。きっと交易でもうまく利をだすことができるでしょう」
「ふーん、奇特なこったな。南陽さまはいつでも訪ねて来いって仰ってたがどうするよ?」
「時間がもったいないですし早いに越したことはないですね。それで袁隗さまはどのような方なのでしょう?」
李栄からも聞いてはいるがやはり良く知る師宜官にも交渉相手の人柄について聞いておきたい。それに職業柄さまざまな家に出入りする書家の師宜官の人物評は信頼できるだろう。
「うん?南陽さまがどんなお人かって?そうだな、大変優秀な太守さまには違いねえわな。ちいとばかし油断ならないところもあるが、決して悪人ってわけじゃねえよ。ま、心配しなくても悪いようにはなさらんさ。それじゃさっそく南陽さまの処へ行くとするか」
こうして師宜官は淳于瓊らを南陽の役所へと連れていったのであった。
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「南陽さま、例の淳于家の次男、奇妙を連れて参りました」
役所に到着してから程なくして南陽太守、袁隗の執務室へと通された。部屋の中には袁隗らしき30代前半の人物が椅子に座っており、その両端には部下とみられる二人の男が控えている。
淳于瓊は部屋の中央に進み出て頭を下げた。
「お初にお目にかかります。潁川淳于家の次男、淳于瓊と申します。こちらの男は揚州丹陽郡の笮融、そしてこちらの大男が大秦国人のデキウスです。ともどもよろしくお願いいたします」
年端も行かない子どもから丁寧な挨拶を受けた袁隗は微笑を浮かべながら目を細めて返答してきた。
「なるほど師宜官から聞いてはおったが歳に似合わぬ落ち着きぶりだな。これまで弟子を持たなかった賈彪どのが目をかけておられるだけのことはありそうだ。そういえば賈彪どのは都で捕らえられておったのだったな。さぞかし師のことが心配であろう」
その目には笑顔とは裏腹に警戒の色が浮かんでいる。賈郷の外交担当である李栄も指摘していたことだが今の情勢で党錮の争いには関わりたくない汝南袁家としては清流派に肩入れはしたくないのだ。淳于瓊はまずその心配を取り除くことにする。
「お心遣いありがとう御座います。たしかに牢に入れられた師の身は心配ですが、外戚にして城門校尉でもある竇武さまのご尽力もあり潮目はすでに変わっております。党錮の禍は遠からず解かれることとなりましょう」
淳于瓊としては党錮の件で袁家の助力を望むつもりが無いことを袁隗に伝えたかっただけなのだが、その言葉に袁隗は仰天してのけぞった。
「な、なに?それはまことか?そのような情報は都から届いてはおらぬぞ」
袁隗は慌てて右後ろに控えていた部下に目配せすると、その部下は一礼して執務室から退室していった。おそらく淳于瓊の発言の裏を取るために洛陽へ使いをだすのであろう。
どうやら汝南袁家として党錮に関わりたくないから無関心でいるというのではなく、党錮に関わらぬように常に積極的に情報を集めているということらしい。そのあたりからしてこの袁隗という男は優秀なのだと推測できる。
「まだ南陽へは情報が入っていないかもしれませんが私どもは十日ほど前に洛陽から潁川へ戻ったばかりです。そして洛陽を出立する直前まで竇武さまとは連絡を取り合っておりました。おそらく一月か二月の間に解決することになるでしょう」
淳于瓊は自信たっぷりに言い切った。袁隗はその態度をみて完全にではないにしてもとりあえず信じることにしたようであった。
「そうか。それがまことなら喜ばしいことよ。ではここへ参られたのは兄上のことであろうか?涼州では羌族が暴れておるそうだからな。こちらもさぞ心配であろう?」
なぜここで兄の淳于沢の話が出てくるのか?べつに兄の淳于沢が中央に戻れるよう袁家の力で働きかけて欲しいなどとお願いしに来たつもりはないのに。
しかし冷静に淳于瓊の置かれた立場を俯瞰すると事情が見えてくる。なにせ唯一人の身内は夷狄の侵寇にさらされている僻地の地方官として飛ばされており、師は師で宦官と清流派の政治闘争により牢に入れられているのだ。
そう考えると交易の件はただの面会のための口実でしかなく、賈彪か淳于沢のことでお願いに来たのだと袁隗が勘違いするのも無理はなかった。むしろ大秦国の友人のため交易に協力を云々というほうがよっぽどうそ臭いのだ。
おそらく袁隗はお目通りを願い出た淳于瓊について身辺調査をさせてそのような判断に至ったのであろう。そしてそのことは袁隗が油断ならぬ人物であることを示唆してもいた。
「ええと、師宜官どのへの手紙に書いてあった通り南方交易のことでお話をしたいのですがよろしいでしょうか?」
「なに?まさか本当にそのことで南陽までやってきたのか?」
まさか、とおどろく袁隗に淳于瓊はあくまで今回は南方交易の件で訪れたことを重ねて強調し南方交易計画について詳しく説明するのであった。
「ここに居りますデキウス、笮融、そして交州の士燮どのとともに潁川まで船で荷を運ぶことになります。この案はすでに揚州の周家にもご了承いただいており、あとは汝南の名族である袁家のご了承がいただければこの交易は必ずや成功し大きな利益を生むこととなりますでしょう」
そして淳于瓊は南方の珍品宝物の類を周家や袁家に格安で卸すことを併せて約束し、袁家の交易に対する協力を改めて願い出たのであった。袁隗はヒゲをさすりながら淳于瓊の話を聞いており、話を聞き終わった後もしばらく目をつぶって思案していたが、やがて口を開いてある要求をしてきたのであった。
「ふうむ、悪い話ではないな。だが汝南で我ら袁家の庇護を求めるのであればもうひとつ条件を飲んでもらわねばならん」
庇護といってもとくに袁家に具体的ななにかをしてもらうというわけでも無いし、交易による利益の一部も提供するという好条件を提示してなお要求を上積みしてくるとは強欲ではないか、と淳于瓊は少々カチンときた。しかしここで汝南袁家と険悪になるのは先々をみて宜しくない。不満を押し殺して淳于瓊は袁隗にその言葉の続きを尋ねた。
「なに、大したことではない。賈郷で最近造っている噂の'清酒'の製法を汝南袁家に公開せよ。さすれば汝南を通る交易船の安全は袁家が責任をもって保証しようぞ」
まるで賈郷の新産業を寄越せと言わんばかりの袁隗の物言いに、絶句して二の句が告げなくなってしまう淳于瓊なのであった。




