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淳于瓊☆伝  作者: けるべろす
党錮篇2
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第64話 党錮の禁の終結

今回主人公は出てきません

 延熹十年(167年)5月末、関中を荒らし回っていた鮮卑(せんぴ)の軍勢が忽然とその姿を消した。


 鮮卑(せんぴ)に従っていた匈奴(きょうど)烏丸(うがん)に対して朝廷より使者が派遣されたことを知るや、鮮卑(せんぴ)の大人(族長)である壇石塊(だんせきかい)は撤退を即断したのである。


 壇石塊(だんせきかい)の決断が想定外に早かったため、深く関中にまで攻め込んでいた鮮卑(せんぴ)族を包囲殲滅しようとする漢の目論見は外れる格好となった。さらに匈奴(きょうど)烏丸(うがん)との交渉も緊急性が薄れたことに加え本拠地に戻った壇石塊(だんせきかい)の締め付けもあり没交渉となりそうな雲行きであった。結局、淳于瓊(じゅんうけい)が天子に示した策略はその半ばしか効果をあげることができなかったのである。遠く南の揚州の地でこのことを知った淳于瓊(じゅんうけい)は「まるで金ヶ崎の信長じゃないか」と絶句したのも無理はなかった。


 とはいえ突然もたらされた鮮卑(せんぴ)撤退の報に洛陽の都は大いに沸きかえった。さらに翌6月、党人(清流派)の全面的な赦免が発表されると多くの人々の顔に明るさが戻ったのであった。


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 「竇武(とうぶ)どの、なに故そのような浮かぬ顔をされておるのです。市井の民たちは皆こぞって党錮を解いたあなたのことを誉めそやしておるというのに」


 洛陽中が沸きかえる中で皇后の父親にして城門校尉(じょうもんこうい)でもある竇武(とうぶ)の表情は冴えなかった。そんな竇武(とうぶ)の表情に党錮の発端となった李膺(りよう)は疑問をもった。獄から無事に出てくることができた李膺(りよう)は礼を述べるために竇武(とうぶ)のもとへ足を運んでいたのである。


 「李膺(りよう)どの、わしはほとんど何もしとらんよ。詳しいことは言えんが此度の一件は全ては賈彪(かひょう)どのの弟子のおかげなのだ。わしはその手助けをしたに過ぎん」


 「賈彪(かひょう)どのの?そうなのですか?私が無事に獄から出ることができたのは賈彪(かひょう)どのの謀り事によるものなのですね」


 李膺(りよう)賈彪(かひょう)の謀り事であったのかと勘違いしたようである。それに対して竇武(とうぶ)は実直な賈彪(かひょう)どのにあのような策を考えつくことはできまい、と心の中で思うもののあえて口には出さなかった。あの宴での出来事は決して口外せぬよう淳于瓊(じゅんうけい)から念を押されているし、そもそも10歳にもならぬ子どもがあのような策を巡らしたなどいったい誰が真面目には受け取ってくれるというのか。

 実際問題として竇武(とうぶ)ら士大夫層は党錮の禍の中で暴走する天子に対しあまりにも無力であった。まして夷狄(いてき)の脅威に対しては有効な対抗策を打つことも出来ないまま手をこまねいていたのが実情だ。それをあの子どもはまとめて解決してしまったのだ。

 竇武(とうぶ)は何も知らぬ者たちが自分に向ける賞賛に忸怩たる想いを持たざるを得ず、同時に淳于瓊(じゅんうけい)の底知れぬ智謀に対して脅威とも嫉妬とも取れぬ感情が芽生えたのであった。


 この竇武(とうぶ)の心の中に生まれた名状しがたい負の感情が後に大事件を引き起こすことにつながろうとは誰にも予測することは出来なかったのである。


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 「偉節(いせつ)賈彪(かひょう))さま!よくぞご無事で・・・。賈郷(かごう)の皆も偉節(いせつ)さまの帰りを待ちわびておりますぞ」


 李膺(りよう)と同様に赦免された賈彪(かひょう)のもとへ家人の趙索(ちょうさく)が駆け寄った。涙ぐむ趙索(ちょうさく)の傍らには陳良(ちんりょう)張青(ちょうせい)の姿もある。


 「うむ、心配をかけたな。陳良(ちんりょう)張青(ちょうせい)洛陽(ここ)いるということは奇妙も洛陽へ来ているのか?」


 趙索(ちょうさく)は返答に詰まった。淳于瓊(じゅんうけい)はすでにデキウスとともに洛陽を出発している。賈彪(かひょう)の赦免までは立ち会えなかったのだ。


 「奇妙は四月のうちに南へと旅立ちました。暫くほとぼりが冷めるのを待つそうです」


 趙索(ちょうさく)の言葉に事情がつかめず賈彪(かひょう)は首を傾げる。

 うまく説明できない趙索(ちょうさく)に変わって張青(ちょうせい)が事情を説明した。

 淳于瓊(じゅんうけい)がいかにして天子を手玉にとってみせたかを順を追って説明したのである。張青(ちょうせい)の説明を受けた賈彪(かひょう)は大きく嘆息した。


 「そうか!奇妙は天下を救ってみせたのだな。絵解き(紙芝居)を使って宮中に入り、天子を導いて夷狄(いてき)の脅威と党錮の禍を一挙に取り除くとは!これほどの大功をあげた者など東漢(後漢)において5人とおるまい。それなのに天下に名を轟かすどころか身を守るため遠方へ向わねばならなくなってしまったのか!」


 「申し訳ありません。俺の力ではどうすることもできず・・・」


 いかに賈彪(かひょう)が高名な人物であれ所詮は無官の身に過ぎない。さらにその家人でしかない趙索(ちょうさく)に宮中からの圧力をどうこうしろとは言えるものではなかった。


 「いや趙索(ちょうさく)が謝ることではないぞ。なにも今生の別れとなったのではないのだからな。それに(くだん)大秦国(ローマ)人は南方交易の中継に賈郷(かごう)を選んでいる。賈郷(かごう)に居れば奇妙と連絡がとることは難しくあるまい。気にすることではない」


 「それならば急いで賈郷(かごう)に戻りましょう。奇妙が洛陽を出て一月ほどしか経ってないから、ひょっとしたらまだ賈郷(かごう)あたりに居るかもしれません」


 趙索(ちょうさく)の言葉に頷きながら賈彪(かひょう)はふと思った。ひょっとすれば淳于瓊(じゅんうけい)は狭い潁川(えいせん)で英才教育を施すよりも旅に出させて見聞を広めさせたほうがより大きな事を成す人物となるのではないかと。そして今回、淳于瓊(じゅんうけい)が南へ行くことになったのはまさに天の配剤なのではないかと。

 

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 こうして李膺(りよう)賈彪(かひょう)ら清流派の大物が次々と獄より釈放され、後に'第一次党錮の禁'と呼ばれる政治闘争は延熹九年(166年)12月からのおよそ半年で終結したのであった。身を呈してでも天子の説得にあたった竇武(とうぶ)賈彪(かひょう)らの名声があがる一方で、そこに淳于瓊(じゅんうけい)の名が挙がることはなかったのである。


次話より新章に入ります

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