第63話 男として守るべきもの
古代中国で親の喪に服するというのは非常に重要な意味を持つ。
例えば前漢の武帝時代に定められた郷挙里選のなかには孝廉という項目がある。これは孝の徳に優れた人物を推挙するということになっているが、ふつうは'孝の徳に優れた人物'など簡単に見分けがつくものではない。現実には親の喪に三年服すだけで'孝の徳に優れた人物'としての箔がつけられることから、手軽な箔のつけ方として通常の士大夫層の人間は三年の喪に服すことが一般化したのであった。喪が明けた後に何らかの伝手で孝廉として推挙してもらえればいきなり高級官僚になれるのだから三年のキャリア空白などお釣りが来るくらい美味しい話なのだ。
例えば淳于沢もその恩恵にあずかっている。彼は少年時代に両親の喪に服して弟の淳于瓊の面倒を家でみていた。いくら危険な僻地とはいえ若年でいきなり県令に抜擢された背景にはしっかりと親の喪に服したという実績があればこそなのである。
閑話休題、実親の死に際しては正式には三年、短くても一年の喪に服するというのが常識であるにも関わらず目の前の張譲はわずか三ヶ月で宮中に復帰していることになる。
淳于瓊も張譲の屋敷での葬儀で顔を見られた人物が今日の宴の席にいる可能性ならば考慮していた。それゆえ用心のため本名を明かさず髢(付け毛)を付けて変装してきたのだ。しかしまさか張譲本人が宮中に戻っているとは想像の外だった。
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"くっそ。正体がバレバレっぽいな。さすがに直接話したことがある相手を誤魔化すのはきついか。まったくなんで張譲が居るんだよ!"
「ふふ、私が宮中にいることに驚いているようですが驚いているのはお互い様ですよ。まさか三ヶ月前に会ったばかりの潁川淳于家の次男坊が宮中にまで乗り込んでくるとはね」
張譲がにこやかに話しかけてきた。完全に正体がバレている。とはいえこちらから名乗ることはないと淳于瓊は判断し、あくまで白馬寺の紙芝居集団を装い畏まって頭を下げた。
「おやおや、そんな演技は不要ですよ。私以外はおりませんから。それにしても先ほどはお見事でしたな。あれでは誰も奇妙どのが党人(清流派)を獄から出すために一芝居をうったとは思わないでしょう。私とて奇妙どのの素性を知らなければ騙されていたでしょうね」
「・・・今日はあくまで皇后さまの無聊をお慰めするよう宮中に招かれたのです。今の私は市井で興行をおこなう興行団の一人に過ぎませぬ。騙す騙さぬと謂われましてもなんのお話やら存じかねます」
目的まで完全に見抜かれてしまっているが淳于瓊はそれでもしらをきった。白馬寺の関係者であることも、絵解き(紙芝居)が洛陽市中で評判を博していたことも、大秦国の平民王の逸話にしても全て事実であり、たとえ裏を取られたとしてもボロは出ないようになっている。
「なるほど、そういうことにしておきたいわけですね。まあ良いでしょう。私も奇妙どのの正体と真の目的ををあげつらうつもりはありません。いずれにせよ天子さまは奇妙どのの提言を大層御気に召されたようですからね」
「畏れ多いことにございます。とはいえ天子さまも単に物珍しさからの酔狂にございましょう」
「謙遜することはない。実際あなたの提言にはそれだけの価値があったのだから。我ら宦官とてあそこまで上手く天子さまを導くことはできませんよ。まったく、奇妙どのは儒者の弟子などやめて宮中に入って天子さまをお助けするほうが向いているのではないですかな?奇妙どのにその気があるならいくらでも天子さまに推薦できますぞ」
淳于瓊はぎょっとした。張譲の言う'宮中に入る'ということは宦官になれということだ。たしかに宦官になり天子のお気に入りとなれば大出世コースには違いないが、男として何より大事なものを摘出する気など淳于瓊にはさらさら無い。
"いやいや、ねーよ。何が悲しくて精通もまだなのに男としての未来を捨てにゃならんのだ!史実より悲惨な運命じゃねーか"
「申し訳ありません。我が家は兄と私の二人しか居りませぬゆえ、私が(宦官として)宮中に入ることは適いません」
とりあえずの逃げをうつ。潁川淳于家のように跡を継げる男が少ないケースでは断絶を恐れて宦官になることを断わるのは当然なのだ。身内が少なくて良かったと心底からほっとする。しかし張譲はそんな楽観的な観測をあっさりと否定してきたのである。
「何を甘いことを言っているのですか。実父を亡くした私に対しても天子さまは喪に服すことをお許しにならず早々に出仕するように命じられたのですよ。天子さまがあなたを是非とも傍に置きたいと思し召されれば潁川淳于家の都合など一顧もされることはないでしょう」
うげっと淳于瓊は小さく呻いた。たしかにあの天子ならば充分に考えられることである。しかし何故、張譲がそのようなことを教えてくれるのか不思議であった。天子に淳于瓊の素性をチクる一手であろうに。張譲の真意が読めない以上、その言葉をそのまま信じるのはリスクが大きすぎる。
「何故そのような助言を頂けるのでしょうか?」
「もちろんあなたを気に入ったからですよ。今後は私のためにその知恵を貸してもらいたいと思いましてね」
張譲は私の所を強調してとんでもないことを言った。要は淳于瓊に恩を被せて張譲の手駒として取り込みたいのか。しかしそれは死亡フラグであることを淳于瓊はよく知っている。
「天下万民のためになることならば知恵を出すことに否やのあろう筈はありません」
淳于瓊はそう返した。張譲の手駒にはならないとの意思表示である。 張譲は一瞬虚を突かれた表情をつくったが、そのあとひとしきり'くっくっくっ'と笑いをかみ殺すと笑いを収め真面目な表情に豹変した。
「なるほどあの賈彪どのの弟子として良く薫陶を受けているようですな。今日のところはここまでにしておきましょう。ですが私は見逃しても宴に出ていたほかの宦官たちはあなたの素性を洗おうと必死になるでしょう。もし無理やり宮中に入れられたくなければ出来るだけ遠くへ行くことですな。白馬寺は勿論、潁川でも都に近すぎる。速やかに行方をくらますことをお勧めします」
"まじか!そこまでしないとヤバイのか?"
張譲のアドバイスは大げさな気がするが、張譲には淳于瓊を騙してもメリットが無い。それにここで下手を打つと待っているのは去勢される未来であると思うと万が一にも下手を引くことは許されないのだ。淳于瓊は張譲の言うとおり行方をくらますことを即断したのであった。
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泡を食って退出した淳于瓊は一目散に洛陽郊外の白馬寺へと逃げ帰った。白馬寺で趙索と落ち合う予定になっていたのだが、慌てふためく淳于瓊の様子を見た趙索は計画が失敗したのかと表情を暗くした。
「奇妙、うまくいかなかったのか?」
「いいえ、計画は上手くいきましたよ。上手く行き過ぎたんです」
天子をうまく乗せることには成功し早ければ一月後には清流派の面々は赦免されるだろう、と告げる。しかし淳于瓊自身は宦官にさせられかねない状況に陥ったため早急に行方をくらます必要が出来たとも。
「おいおい、行方をくらますっても何処へ行こうってんだ?本気で董の兄貴(董卓)の処へでも転がり込むつもりか?」
それなら協力を惜しまないが、と趙索は言ってくれたが流石に年端も行かない子どもの身で戦場を転々とするのは厳しいものがある。やはり兄の淳于沢のもとへ身を寄せるのが妥当かと思案していたところへ思わぬ救いの手が差し伸べられた。大秦国人のデキウスである。
「なんだ、奇妙。出来るだけ遠くへ行きたいってんなら俺と一緒に来るか?」
デキウスは南方航路での交易ルート構築すべく動いていたが、洛陽での下準備がひと段落しこれから揚州、交州、さらに林邑国や扶南国(ベトナム中南部)へとくだるのだという。たしかに遠方という点では
申し分ない。さらに言えば交易ルートの途中にある賈郷と定期的に連絡をとることも可能であり都合がいい。淳于瓊はデキウスの申し出をありがたく受けることにした。
こうして淳于瓊は思いもかけず遠く南方へと旅立つことになったのであった。
当初は董卓のもとへ身を寄せる案で考えていたのですが、
ここを逃すと南方へいく機会が無さそうなので
デキウスと南へ行く案に切り替えました




