第57話 良薬口に苦し忠言耳に逆らう
淳于瓊が張譲の父親の葬儀に出るため襄城へ出発してから一刻(2時間)後~
賈郷の東門に旅装束の賈彪の姿があった。
「偉節さま、なんとか考え直しては頂けませんか?今の状況で都に向かうのは危険すぎます。なぜ仕官しているわけでもない偉節さまがそこまで危険を冒さねばならぬのです?」
李栄は主の賈彪に翻意してもらおうと最後の説得を試みていた。賈彪は現在は無官の身であり大人しくしていれば捕縛されることはまずない。わざわざ都に赴いて目を付けられにいくことはないのだ。しかし賈彪の決意は揺らぐことが無かった。
「陳蕃どのはすでに太尉の任を解かれてしまわれた。都にいる他の人士たちはみな難を逃れようと口を閉ざし戦々恐々としているだけではないか。私が西(洛陽)へ行かずして大禍を解くことはできぬだろう。なんとしても清流派に近い方々を説得し李膺どのの放免を上奏してもらわねばならん」
賈彪の迷いのない言葉に李栄は反論できなかった。
「しかし偉節さまに万一のことがあっては・・・」
「わしがおらずとも奇妙がおる」
弱弱しくつぶやく李栄に苦笑しながら賈彪はそう答えた。その視線の先には春麦が順調に育っている畑が広がっていた。そう、そこは淳于瓊の提案により紫雲草を植え昨秋ふたたび小麦用に戻した畑であった。地力が落ちて数年はまともな収穫が望めない筈の畑であったにも関わらず小麦がすくすくと育っているのである。このままいけば不作どころか平均を大きく上回る収穫が見込まれるだろう。
「朱丹よ、奇妙はこのことを判っておったのであろうな」
「おそらくは。奇妙はあと数年は検証を重ねたいと言っておりましてが自信があるようです」
誰もが否定的だったわずか一年での小麦転作を淳于瓊が強引に押し切ったのだ。奇妙はこの結果を予想していたからに違いないと賈彪は判断していた。そしてこの不思議な知識をもった弟子を党錮の禍に引きずり込んではならない、とも。
「わしが此処にいれば賈郷に禍いが降りかかり奇妙にも累が及ぶことになるやもしれん。昨年の野盗騒ぎの例もある。しかしわしが都へゆけばたとえ捕縛されたとしても賈郷と奇妙は安全であろう」
一年前、大規模な野盗団が賈郷を襲った。表向きは食い詰めた野盗団の襲撃を装っていたが、実際は宦官にけしかけられたもので清流派への嫌がらせであった。清流派の賈彪がいるから賈郷が狙われたのだ。賈彪が洛陽へゆけば彼自身が捕縛される危険は高くなるが一方で賈郷を狙われる理由はなくなるだろう。
「わしに万が一のことがあった時にはあの子を支えてやってくれ」
「はい。奇妙を葬儀に行くこともお認めになったのもそのためだったのですね」
盟友の李膺を救う為だけではない、奇妙の未来を閉ざさぬようにという厚い配慮が賈彪からひしひしと感じられた。
「そうだ。宦官との争いはわし等の代で片をつけねばならぬ。関わらせたくはないのだ。奇妙が十二分に力を発揮できる世の中を用意してやる為にもわしは都へ行かねばならぬ。では趙索よ、洛陽へ向かうぞ」
こうして淳于瓊が葬儀に出かけた同じ日に賈彪は都洛陽へと旅立ったのであった。
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「そうですか。偉節さまはそのようなことを・・・」
三日後、賈郷に慌てて戻って来た淳于瓊はことのいきさつを知らされた。
”巻き込みたくないから黙って出て行ったのか。偉節さまらしいな・・・。これでは洛陽に追いかけて行っても手伝わせてはくれなさそうだな”
「わかりました。大人しく賈郷に残って偉節さまの帰りを待ちましょう。ただもし偉節さまの身に何かあったときはたとえ止められても洛陽に駆けつけますよ」
たとえ師匠の意に沿わぬとしてももしもの時は駆けつける気満々の淳于瓊であった。
「奇妙さま、賈彪さまは大丈夫なのでしょうか?」
波才が心配そうに聞いてくる。それは淳于瓊にも分からない。
「偉節さまが清流派の面々を説得して上奏文を出させること自体は成功するんじゃないかな。ただ天子がそれを受け入れる可能性は低いと思う。偉節さまが捕縛されるかどうかはわからない。が、もしものときは共に洛陽へ向かうぞ」
”上奏がうまくいって司隷校尉の李膺が釈放されればそれでよし。上奏がうまくいかず黙殺されるケースでも俺達に出来ることは特にない。考えておかないといけないのは上奏が逆効果になって偉節さままで捕縛されるケースでの対応だな。なにか策を考えておかないと”
「でも奇妙さま、偉い人たちが頑張っても天子さまを説得できないのに俺たちみたいな子どもに何ができるんでしょう?」
「紫雲、それは考え違いをしてるぞ。偉い人たちの諫言だからこそうまく説得できないんだ。小人(器量の小さい人物)は耳に痛い諫言を好まぬものだから。'良薬は口に苦けれども病に利あり、忠言は耳に逆らえども行いに利あり'って言葉があるんだけどな」
天下の漢の皇帝を小人呼ばわりする淳于瓊に波才が目を白黒させている。淳于瓊が溜め息をつきながら考えていたのは前世のサラリーマン時代のことである。
"要は器の小さい上司の下に配属されたときと同じと思えばいいのか。プライドばっかり高くて面子にこだわる上司に対しては正論を正面からぶつけても潰されるのがオチだったからな。そういう手合いにはなんとか上司自身の口から'こちらが望む結論'が出るようにうまく誘導するのがコツなんだよ。まったく前世では散々苦労させられたよなあ"
清流派の上奏文は正面から正論をぶつけるものとなるだろう。淳于瓊としてはその逆、どのようにして天子をうまく誘導するのか、そもそもそれ以前にいかにしてその機会をつくればよいか、について検討をしておくことにした。
"いずれにしても当面は偉節さまの行動の結果がどうなるかが判明するまでは待ちだ。麦畑の収穫準備、苗代の準備、肥料の検証、産院の世話、漢方薬の調査、清酒の開発、賈子たちの勉強。やることは山積みだけどいつでも洛陽にいけるようにしておかないといけないからな"
淳于瓊は賈彪に万一のことがあったときの策を検討しつつ忙しい日々に戻ったのであった




