第51話 涼州から見た党錮
前半部は党錮篇というより閑話になってます
延熹10年(167年)1月 涼州漢陽郡 冀〜
県令である淳于沢、賈詡、樊稠、麴義らは冀の豪族、姜翔の屋敷に招待されていた。先日、漢陽郡の太守 夏弦を冀から追い出しており、今後のことを相談するため集まっていたのである。なにかと足を引っ張ってばかりの郡太守を追い出すことに成功し、一同の雰囲気は非常に明るいものであった。
「まったく東羌の奴らがおとなしくしている冬の間に追い出せてほっとしたわい。今年は奴らに好き勝手はさせんぞ」
口火をきったのは樊稠だ。涼州の冬は非常に厳しいので羌族の襲撃も少なくなるのであるが、年が明け暖かくなるにつれ被害報告が届けられてくるだろう。しかしこれからは渋る郡太守を説得する手間が省けるため騎兵部隊による即応が可能となる筈だ。
「西の県令と連絡を密にとりましょう。岐山を抑えれば東羌もそう簡単には漢陽郡へ攻め込めませんからな」
麴義も続いて威勢のいい提案をする。周辺の県令との連携もこれまでは太守にいい顔をされず自粛せざるを得なかったがこれからは可能となる見込みだ。
「いやしかし賈詡殿の策略がこうもうまくいくとは。まったく驚きを隠せませんぞ。始めに計画を打ち明けられたときは半信半疑でしたが」
屋敷の主である姜翔がこの状況を作り出した賈詡を賞賛した。そう、郡太守を冀から追い出す策略は全て賈詡の考案したものである。追い出す、といいても放逐したのではない。太守自ら冀の城市から出て行くように仕向けたのだ。
その策略とは次のようなものであった。
まず帰順してきた東羌の支部族を使って冀に運ばれる物資を襲撃させた。実際には運ばれていた物資といっても中身は空であり実害はほとんどなかったのだが、それを大きな被害が出たように郡太守へと報告したのであった。これにより城壁に囲まれた冀の内側にいれば安全と高をくくっていた郡太守であったが、補給を断たれればやばい、との認識を持つようになった。
さらに渭水の水運を利用しての中央(司隷・関中方面)からの補給も滞っているとの報告をあげさせた。(実際には補給が到着する量をばらつかせて少なくなったときにそのような報告をおこなったのである)
これにより郡太守の脳裏に、関中にも北方の夷狄が攻め込んできており涼州漢陽郡への補給が後回しにされているのではないかとの疑念を植えつけることに成功する。
ここまでの準備段階を経たうえで、淳于沢が郡太守にある提案をおこなったのである。それは’中央(関中)から漢陽郡への補給路の入り口である散関に高位の人物を常駐させて中央に補給を滞らせないように無言の圧力をかけてはどうか’というものであった。
もちろんあくまで名目は'万が一にも散関を抜かれて関中に東羌になだれこまれることのないように'というものでだ。散関の守りは冀の城市よりも堅牢であるが、さらに実際に数百の兵を連れていけばますます万全となる。
いま古都長安を擁する関中は北方からの夷狄の侵寇で苦しんでおり、西の要衝である散関の守りの強化は大きな貸しにできる。しかもそれが高位の人物が自ら兵を率いて、となればなおさらだろう。
淳于沢の提案によって漢陽郡でもっとも安全で補給を受けやすい場所である散関に堂々と避難できる口実を郡太守に与えたのだ。郡太守に行ってはどうかと直接勧めたわけではない。ただ実際に誰を散関に向かわせるか、といっても最低でも散関の守備隊長が軽んじることのできないぐらいの人物となると県令クラス以上でなければならず、かなり限られてくる。
自ら散関に向かうかどうか揺れる郡太守の背中を押したのはその場に居た麴義の洩らしたひとことであった。
'散関に赴くことになる人物には是非ともわれらの活躍を中央に報告してもらわねばな'
これを聞いた郡太守は焦って自らが散関に向かおう、と宣言したのであった。なぜなら淳于沢らの足をさんざん引っ張ってきたことが中央に伝われば郡太守の罷免は免れ得ないからだ。自らが散関に赴いて報告を改ざんする以外の選択はありえなかったのである。
「皆さんの協力のおかげですよ。とくに麴義殿のひとことが決定打でしたね」
そう謙遜する賈詡に皆が賞賛の声をかけるなかで、姜嫗だけが厳しい言葉を賈詡に投げつけてきた。
「ふん、でもあんた大事なことをことをひとつ隠しているだろう?」
「どういう意味でしょうか?」
姜家の党首である姜翔の母親であり長らく女手ひとつで姜家を取り仕切ってきた人物からの詰問の迫力に並みの者ならば震え上がるところだが、賈詡は動じずにとぼけてみせた。
「とぼけるでないよ!あのくそ太守に都合のいいように中央に報告をさせるってことはここにいる県令殿の手柄を全部かっさらわるってことじゃないかね!あんたほどの男がそのことに気づいてないはずがないだろ!」
あっと周りのものたちが賈詡のほうをみやる。姜嫗の指摘を受けた賈詡は目を閉じていたが、やがて降参というふうにため息をついて天を仰いだ。
「さすがに姜嫗殿の目は誤魔化せませんね。仰るとおり百も承知で仕掛けた策です」
賈詡のあっけらかんとした返答に一同唖然とする。そんな中で賈詡は言葉を続けた。
「確かにあの太守に手柄を持っていかれるのは業腹です。しかし我らの功績がそのまま中央に報告がいっても困ったことになるのです。県令殿には申し訳ないのですが」
「どういうことだ?」
武人ならば誰もが競って功績を誇ろうと努力する。樊稠がその真意をただした。
「もし豫州 潁川郡の出身である県令殿が夷狄との戦いで功績をあげたと中央に知られれば、間違いなく涼州以外の例えば関中やほかの地へ任地替えがおこなわれてしまいます」
中央の人間にとっては涼州の優先度は低い。武官として使える人物がいれば涼州以外にまわすのが当たり前なのだ。淳于沢が使えるとなれば涼州漢陽郡で遊ばせてはおかないだろう。
しかし冀の面々にとっては今の状況で淳于沢を手放すなどあり得ない。董卓の部曲(武将)である樊稠は董卓のもとへと帰ることになるだろうし他の者はバラバラになってしまうだろう。ここまで整備してきた冀の防衛体制がまったく元の木阿弥となる。
「ふうん、しかし当事者の県令殿は手柄を取られてそれでいいってのかい?」
「まあ功績が認められても、私だけが武官として中央に戻されたりしたんじゃ目も当てられないですからね。それよりは此処に残った方が役に立てるでしょうし。それに・・・」
当の淳于沢は自分の手柄がふいになったことに対してはまるでこだわりがなかった。それよりもたちまち気掛かりとなっているのは別のことだ。
「いま都は変事で混乱してますからむしろ此方(涼州)にいたほうが安全なのかもしれません。それに小黄門殿の父の葬儀のこともありましたので暫くは都には戻らないほうがよいように思います」
都での変事とはもちろん李膺の逮捕投獄のことだ。弟を清流派(=党人)の賈彪殿に預けている淳于沢にとっても他人事ではない。
そして小黄門殿の父の葬儀のこととは潁川出身の宦官 張譲の父親が先月死亡したのだが、潁川の名のある家でもし葬儀に出席しなければそれだけで党人として判断されてしまうらしい、との噂が涼州にまで伝わってきたのだ。
しかし涼州にいる淳于沢の耳に入った時点ですでに二十日以上前の話で、当然ながら葬儀もとっくに終わってしまっていたのだからどうしょうもない。
「むしろ私のことで皆さんに迷惑をかけてしまうかもしれません」
淳于沢が党人である、と宮中に見なされればどういう嫌がらせがあるかわからない。そういって淳于沢は頭を下げた。
しかし淳于沢は知らなかった。張譲の父親の葬儀にからんで淳于瓊がなにをしでかしたのかを。
話は二十日ほどさかのぼるのである。
漢の時代には刺史や太守は無断で任地を離れれば処罰の対象となります。
従って漢陽郡太守としては漢陽郡のなかでもっとも安全な場所を選ぶしかないのです。




