第4話 白馬寺にて
翌朝6つの騎影が洛陽城外を東へむかって進んでいた。
賈彪とその家人3名、淳于沢、淳于瓊の計6人である。
洛陽の北東約20里(1里≒0.5km)、白馬寺までは淳于沢も同行することになったのだ。
「しかし本当に6歳で馬に乗れるとはな」
賈彪はあきれるように言った。
潁川までおよそ400里、6日で移動する予定になった。
本来ならば子供の足だと10日以上はかかるのだが。
「西方行きが決まってから兄上が慌てて騎馬の練習を始めたのですが
それに一緒に付いていって練習させてもらっていたのです。
頭でっかちにはなりたくないですから。」
淳于瓊は当代の儒家たちに多少の皮肉を込めていった。
ただ論のみに長じても世の中はよくならない。賈彪もそのことはよく判っているようだった。
もっともこの時代にあっては賈彪の方が稀な人物であるのだが。
「今では奇妙のほうがずっと上手いよな」
そういう淳于沢の身体は馬上でフラついていておぼつかない。
”兄さんこんな調子でホントに大丈夫なんだろうか。
まあ文官がそんなに馬に乗って駆け回ることにはならないか…”
「それと、この補助具ですね。この鐙を使えば
馬の乗り降りも馬上での平衡も簡単なのです。」
気を取り直して淳于瓊は鐙を踏みつけて馬上で立って見せた。
ちなみに鐙は兄には渡していない。もしこれが西方で広まった日には
歴史がどうころぶか分かったものではないからだ。
「見えてきたぞ。あれが白馬寺だ。」
洛陽城外に出ておよそ半刻(1時間)、賈彪が丘の上を指差して言った。
”思ったより小さいな。”
名刹白馬寺を見られると期待していたのだが、なんてことはない普通サイズのお寺であった。
確かに考えてみれば2世紀の時点では中国で仏教はほとんど広まっておらず、
でかい寺を建立できるわけがない。
漢西方のさらに西、大月氏や安息国から来朝した胡人によって仏教はこの時代にもたらされたが、漢人にはまだなじみがないのである。
仏教は数百年のち、南北朝の時代になって隆盛を極めるのだ。
白馬寺の運営も漢人ではなく胡人によって行われており、
淳于沢がここまでついてきたのも西域の情報を胡人から仕入れるよう、淳于瓊が強く勧めたためであった。
「つい最近にも西域より来朝した僧がおるらしくてな。
ここならば伯簡殿も最新の情報が手に入れられるだろう。」
そうこうする内に一行は白馬寺に着いた。
淳于瓊は早めに馬から降りると鐙をはずして行李(荷物入れ)にしまった。
何事も用心にこしたことはない。
一行が通された部屋でくつろぎながら物珍しい西方の調度品などを眺めていると一人の僧が入ってきた。歳は30代半ばであろうか。
「支楼迦讖と申す。大月氏の出身。西域の話が聞きたいとか」
たどたどしいながらも、中国語で話しかけてきた。
「うむ、わしらは潁川へむかう途中で立ち寄っただけなのだ。用があるのはこちらの御仁じゃ」
賈彪が淳于沢をうながす。
「淳于沢、字を伯簡と申します。このたび西方へ赴くことになりまして。なるべく最新の情報を手に入れたいと思案しておったところ、弟から白馬寺にいってみてはと勧められました。」
淳于沢のことばに支楼迦讖は微笑んだ。
「白馬寺には胡人が多い。西方の情報もよく入る。よい目の付け処かと」
「支楼迦讖殿はいつ頃こちらへ?」
「迦讖でいい。先月長安へ着いた。洛陽は10日前」
「段紀明によって、西羌の部族は散々に打ち破られた。東羌や氐も静観している。交易路が安全になった。私も漢に来れた。」
交易路とは長安を出て涼州を経て西域に抜けるルートであろう。敦煌より西はこの時代は大月氏(クシャーン朝)の支配下にある。
羌族の多くは東西に広がる涼州の南側に住んでいて涼州西部の武威郡、張掖郡、酒泉郡、敦煌郡に接するのが西羌と呼ばれる。
淳于沢の赴く涼州東部の漢陽郡や隴西郡に接しているのは東羌と呼ばれている部族である。
「そうか、それはよかった。それほど心配しなくてよさそうだ。」
淳于沢がほっとした表情で心配性の弟のほうを見た。
「兄上、ことはそんなに単純ではありません。迦讖殿、淳于沢の弟で淳于瓊と申します。大月氏は逃げ散った西羌を受け入れるでしょうか?」
「それはない。逆に流入されないよう警戒を強めている。」
「ということは西は大月氏が警戒し、北は段校尉率いる漢軍がひしめき、南は人がほとんど住めぬ地勢…つまり逃げ出す先は東しか残っていないことになります。」
「東は東羌が住んでいる地域だな。もともと同じ部族なんだしそれが普通だろ。」
淳于沢の楽観的な見通しに淳于瓊はかぶりを振って答えた。
「彼らに余裕があればそうでしょう。ですがもともと西羌は喰えぬから漢を侵したのです。東羌も喰えるか喰えぬかぎりぎりのところでしょう。そこに西羌が落ち延びてきても喰えませぬ。両者があらそうことになると予想されます。」
「同士討ちならいいじゃないか?漢の手間が省ける。」
「簡単に云わないでください、兄上。そこで敗れたものは次はどちらへ落ち延びるのですか?」
そういわれて淳于沢は少し考え込んだが、やがてあることに思い当たり顔が青ざめていった。
「お、おいっ。まさか…」
「涼州東部、漢陽郡か隴西郡にやってくるでしょう。」
淳于瓊は言い切った。この楽観的な兄には少し緊張感を持ってもらわねばならない。
「迦讖殿、西方、特に東羌の状況でなにか判ればすぐに兄上に届けてもらえませんか?」
「出来なくはない。だが我らに何の利が?」
支楼迦讖は淳于瓊を値踏みするような目で見ながらいった。
「兄上は漢陽郡の冀の県令となりました。胡人や白馬寺ゆかりのものが冀を通る際には力になれるでしょう。兄上も大丈夫ですね?」
「ああ、もちろん。」
「それともうひとつ、兄上にはある献策書を書いて頂きたいのです。身毒(インドの旧名)の表記を改めるよう上奏文をしたため、漢陽太守なり涼州刺史なりに上奏してもらってください。」
「???」
「浮屠の教え(仏教)はいまひとつ漢人に受けがよくないようです。内容云々以前に、’身毒’という文字の印象が悪いので。身毒発祥の教えと云われてもほとんどのものはまともに受け取らぬでしょう。そこで’身毒’の使用を止めて別の言葉に置き換えるのです。」
「それは、我らも感じている。それゆえ経典には’身毒’ではなく’天竺’の文字を使うようにしている。」
苦々しげに支楼迦讖はいった。経典の翻訳で気をつかうことが多いようだ。
「経典に使う分には良いでしょう。ですが現地で’Indu’と発音するものを’天竺’とするのは無理があります。」
それはそうである。上奏するにもまっとうな理由がいる。
「ならばどうする?」
「’印度’では如何でしょうか?」
「印度?」
一同首をかしげた。淳于瓊は紙と墨をもとめ’印度’と書いて皆に見せた。
「どうでしょう。’印度’とした方が’身毒’よりずっと現地の発音に近いのでしょう?」
「確かに」
支楼迦讖は頷いた。
「朝廷が’身毒’表記を止め’印度’と表記するようになれば、世間にもそれが広まり、悪い印象を払拭できましょう。理由は現地の発音に合わせるとともに大月氏との関係を維持するため、とすれば特に反対もないでしょう。」
「ということで兄上、機を見て’身毒’を’印度’に変更するよう上奏文を出すよう交渉していただけますか?」
「わかった。やってみよう。」
淳于沢も特に異存はなく、この話はまとまった。
支楼迦讖は淳于瓊を不思議なものを見つけた時のような微妙な表情で話しかけた。
先ほどから発言が子どものそれを大きく逸脱している。
「ときに弟どの。淳于瓊と云われたか?」
「はい。奇妙とお呼びください。」
「では、奇妙どの。これからどうなさる?」
「兄上が戻るまで豫州潁川に赴き、賈偉節さまについて勉学に励むことになっております」
淳于瓊は賈彪のほうを見ながら答えた。
「ならば洛陽に来られたら必ず白馬寺へ。歓迎いたす。」
支楼迦讖としてはこれまでのやりとりでこの子どもが只者でないことはわかっていた。将来どうなるかはわからないがツバをつけておくに越したことはない。
立場の弱い胡人達にとっていろいろな方面に保険をかけることは漢人の間で生きていくのに必須のことである。もともと淳于瓊がろくな利を提供してくれなくても協力せざるを得なかったであろう。
胡人達をばかにしながら都合の良いときだけ協力をせまる漢人は多いのである。
協力の見返りとして充分すぎる利を供してくれるこの兄弟に好意的にならない筈はなかった。
一方の淳于瓊としても西域につながる白馬寺に伝手をもつのは願ったりかなったりであった。
兄のこともあるし、西域から流れてくる物品に使えるものがあるかもしれない。
こうして淳于瓊は賈彪についで支楼迦讖という年の離れた友人を得ることとなったのである。
支楼迦讖 大月氏の人。実在の人物。
この時代交易路がつながっています。当時のローマでは中国の絹などのぜいたく品が非常な高値で取引されたとか・・・
大月氏=クシャーン(新疆ウイグル~アフガニスタン、インド北部、パキスタン東部)
安息国=パルティア(パキスタン西部~イラン、イラク東部)
大秦国=帝政ローマ(ユーフラテス川より西、地中海世界)




