第45話 悪魔の実験
「それで奇妙さま、どうするんですか?」
「うーん」
波才に聞かれても淳于瓊は生返事を返すのみであった
淳于瓊の持つ前世の素人知識でこの時代でも活かせるものとなると限られている。便所の普及や蚊帳のように便利であったり効果が一目瞭然であるものはともかく、本格的に医術関係に手をだせばうまくいかない例も当然出てくるだろう。淳于瓊としてはこれまで順調に築いてきた賈郷での信頼を失うリスクがあった。
それゆえ'餅は餅屋'と、これまで賈郷の薬師や産婆に対して淳于瓊はあまり口をだしてはこなかったのである。
------
「なあ、あの子が賈郷に移り住むって本当か?」
決断しかねて悩む淳于瓊の部屋に賈子の陳良が入ってきた。
「まだ決まったわけじゃない。」
「でも奇妙の坊が医術を教えることになったって聞いたぞ?それなら賈郷に移り住むってことじゃねえか」
何処で聞いたのかすでに話が賈郷に広まっているようだ。淳于瓊は溜め息をつく。いちおう陳良には釘を刺しておくことにした。
「明日返事をすることになってる。まだ決めていないよ。今悩んでる最中なんだ。」
「なにを悩むんだよ」
陳良が不思議そうな顔をして聞いてくる。
「そりゃ悩むさ。簡単にいうけどさ、俺の知ってる知識でどれだけの人が救えるのかなんてやってみなくちゃ判らないんだぜ。これで上手くいかなかったら賈郷に居場所が無くなっちまうかもしれないんだぞ」
淳于瓊は至極真面目に答えたのだがそれを聞いた陳良は笑い出した。その反応に淳于瓊がブスっとしていると陳良は手を振って謝ってくる。
「いや、悪ぃ悪ぃ、まさか奇妙の坊がそんなことを気にするとは思わなくてさ。だって考えてみろよ、今の賈郷で'淳于の坊'って呼ぶ奴なんていないだろ?」
「そういえば暫くそう呼ばれていないな」
言われてみるとたしかに賈郷に来た当初は'淳于の坊'が多数派だったのがいつの間にか'奇妙の坊'に変わっている。それがどうした、と淳于瓊は陳良をみやる。
「もう賈郷のみんなからは身内だと思われてっるってことだよ。だからそんなくだらねえ心配してんのが馬鹿らしくてよ」
なるほどかつては 賈彪が潁川淳于家から預かってきたお客さん、と賈郷の皆は認識していたのだ。しかし今では淳于瓊=奇妙は賈郷に必要な仲間として見るようになっていたのだ。そのことに本人が気付いていなかっただけで実は呼び方に表れていたということか。
「紫雲、そうなのか?」
「そうですね。春の野盗退治以降、特に増えてきたように思います。今では奇妙さまを張索さんたちより高く評価する者も少なくないですよ」
「マジかよ!」
内向きの朱丹、外交の李栄、武の張索の家人3人衆は賈郷だけでなく他家でもそれなりに名前が知られているほどの人材である。天下に大学の冠として名声が響く賈彪は別格としてもそれに次ぐ3人衆と同等とはちょっとびっくりだ。そこまで信頼してもらえているなら淳于瓊としても頑張って応えねば、という気分になる。
「わかった。前向きに考えてみよう」
淳于瓊がそう決断すると陳良が手を打って賛同した。
「そうこねえとな。あの子結構遠くからやってきたんだろ?このまま追い返したりしたら可哀想だぜ」
「なんだ、随分と入れ込んでるな。張青に一目惚れでもしたか?」
淳于瓊としてはやけに張青に肩入れする陳良に茶々を入れただけなのだが、図星だったのか陳良は激しく動揺を見せた。
「なっ、そ、そんなんじゃねえよ!」
判りやすく顔を真っ赤にして必死に否定する陳良を見て淳于瓊と波才は驚いた。普段のガキ大将キャラも形無しである。
"陳良と張青か・・・以外と悪くない組み合わせだな。陳良が張索さんのあとを継いで賈郷を守り、張青が診療所を開いて賈郷を発展させる。それなら俺と波才がいなくなってもうまくやっていけるかもしれない"
遅かれ早かれ淳于瓊と波才は賈郷から出て行く。それが淳于沢が涼州から帰京したときになるのか、あるいは淳于瓊が成人して出仕するときになるのかは判らないが、その時がきてもいいように後を任せる人材として2人はぴったりであった。
------
「昨日の返答をする前に聞いていただきたい話があります」
翌日 賈彪、郭泰、家人3人衆、張青、波才らが揃う中で淳于瓊はそう切り出した。張青もさすがに緊張しているのが見て取れる。
「遥か遠く、ある大秦国王の話です。王の名前はフリードリヒ2世といいます」
いきなり異国の話がでてきて皆が怪訝な表情をするが淳于瓊はかまわずに続ける。
「フリ-ドリヒは非常に賢く、そして知的探究心の旺盛な王でした。やがて彼はひとつの疑問を持ちます。"人はどうやって言葉を話せるようになるのであろうか"と」
「彼は国中から孤児を集め乳母達にいくつかの条件をつけて育児をさせます。赤子に声をかけてはならない、笑顔を見せてはならない、赤子が声を発しても応えてはいけない、という条件です。つまり普通の子どもが言葉を覚える過程を省略し、授乳と排泄物の世話のみにて孤児たちを育てさせたのです」
「で、その子たちはどうなったの?」
「全員死にました。一人も育つことができずに。それゆえこの実験は'フリードリヒの悪魔の実験'と呼ばれるのだとか」
淳于瓊の答えに張青はヒッと小さく息を呑む。まわりの大人たちも絶句した。
「それで何故、今その話をする必要があったのだ?」
郭泰が質問してきた。この場は張青に医術の知識を教えるのかどうかという話をする場である。淳于瓊がなぜ遠い異国の王の話を始めたのかその意図が読めなかった。
「フリードリヒは決して暗君愚帝の類いではありません。この'悪魔の実験'にしても孤児や栄養失調の子どもを国家で養うことを見据えたものだったのでしょう。それでも悲劇を招いてしまったのです」
「そして私はこの'悪魔の実験'を無駄な行いであったとはどうしても思えないのです」
「赤子には親の愛情が必要であると判ったからか・・・」
賈彪がボソッと呟いた。さすがにこの人は違うな、と淳于瓊が感心しながら頷いた。失敗からも得られるものがあると即座に理解できる人間は少ない。もちろんそれはフリードリヒ2世が 仮説を立て条件付けを行い検証をおこなうというとても中世の人間とは思えない手法をとってくれたお陰でもある。
「はい。失敗には失敗から得られるものがあります。私が知っている医術の知識についても、極力それを避けるために薬師や産婆たちの経験と知識もまた取り込んでいくつもりですが、最悪の場合フリードリヒと同じ失敗を繰り返すことになるやもしれません」
淳于瓊は周りを見まわす。皆もなぜ此処に集められたのか理解できたようだ。ことは張青がどうこうではなく賈郷の将来に関わる話であると。
「それでも賈郷全体で協力して新しい知識を実践し効果を確認し改善を加えて知識を磨いてゆけばやがて天下万民にとって大いなる利益をもたらすことになるでしょう。そして今からその覚悟を皆にも持っていただきたいのです」
これより淳于瓊による賈郷の改革は新たな段階へと進むことになるのであった。
フリードリヒ2世(1194~1250) 神聖ローマ帝国皇帝
獅子心王リチャードや尊厳王フィリップらにも成し遂げられなかった聖地回復を一滴の血も流さず成功させるなど稀代の賢王ともいえるが、逆にそのことを異教徒の血を流さなかったとして弾劾されるなど時代に恵まれなかった気の毒な皇帝ともいえる人物




