第41話 戦乱の幕開け 前
春が過ぎ夏に入る頃になると東羌による被害が漢陽郡各地からポツポツと報告されるようになりだした。
「また西県と隴県から被害報告がでています。このところ小規模な略奪が頻発しておりますな。おそらく漢の様子を窺っているのでしょう」
執務室で賈詡の報告を聞いた淳于沢は身震いした。これまで荒事とは無縁で生きてきた淳于沢にとっては小規模とはいえ近隣で夷狄による略奪が起きている現状はこの世の終わりが迫ってきているかのように感じられるのだ。
「き、冀にもやってくるかな?」
淳于沢は動転気味で思わず噛んでしまったが、この程度の被害状況は賈詡や樊稠ら涼州出身組にしてみれば慣れたものであった。
「時間の問題でしょう。すでに冀に出入りする隊商には注意を払うように呼び掛けています」
「うむ。俺としてもまさかこの地でこれ程の騎兵を任されるとは夢にも思わなんだが、おかげで充分期待に応えられそうだ。出番が来るのが待ち遠しいわ」
まるで戦争の到来を楽しみにしているかのように話す樊稠を淳于沢は頼もしげに見やった。淳于沢が戦場に立っても足手まといにしかならないことは自明であり、樊稠が県令代理として軍事の責任者となっている。
「なんせ騎兵だけで100騎も揃ったのだからからな。少々の部族など鎧袖一触にしてくれるわ。これも文和(賈詡)どのがうまく兵の入れ替えてくれたおかげだな」
今でこそ100近い騎兵で構成された騎馬集団を率いているが、樊稠に預けられた最初の兵力はもともと騎兵20に歩兵80と歩兵中心の混成部隊だったのだ。
貴重な騎兵戦力をそれ以上県令直属の部隊として割くことが許可されなかったからなのだが、賈詡がそれをあるからくりを用いて全て騎兵にしてしまったのだ。
賈詡はまず歩兵たちを弩や弓矢、狼煙を持たせて郷里に返したのである。そしてその代わりに同数の騎兵を徴発したのである。もちろん馬を取られる分だけ郷の負担が重くなっているのだが、防衛用の武器を供与されるメリットの大きさから冀県の各郷で反対するところはひとつもなかった。そうやって各郷より少しずつ徴発された騎兵が樊稠のもとに集められたのである。
もともと各郷に10や20程度の馬がいても羌族の侵攻を止められるわけではない。それより弓矢や弩の方が防衛戦の役に立つし、連絡用としてならば狼煙があればことが足りる。このあたり淳于瓊が非戦力であった賈子たちに投石紐を与えて間接攻撃用の戦力に仕立て上げたのと発想が似通っている。
(ちなみにこの似たもの同士が顔を合わす機会は実は4年後と意外に早く訪れるのであるが、それはまだ先の話である)
賈子たちが柵の内側から投石で野盗たちの足を止めて時間をかせいでる間に主戦力が野盗団の後背から襲い掛かって殲滅したように、冀県の各郷に飛び道具を中心とした武器を供与して防衛力をあげ時間を稼がせてその間に樊稠が率いる騎兵部隊が駆けつけるというのが賈詡の描く戦略であった。
「しかし県令どのお人よしというか、器がひろいというか・・・」
樊稠がつぶやいた。兵の統率を樊稠に丸投げしていることもたいがいなのだが、賈詡の案を採用したことはそれ以上の驚きであった。なんせ各郷に供与した武器が万が一叛乱に使われでもしたら間違いなく県令はその責を問われることになるのだ。いかに賈詡の戦略が的を射たものであったにしても並みの人物であれば躊躇してしまうだろう。
”配下に存分に腕をふるわせてその責任は自分がとる、か。仲潁(董卓)さまとは随分とちがうがこういう器というものもあるのだな”
樊稠は主である董卓と比較してそんな評価を淳于沢に下していた。
こうして迎撃体勢を整えつつあった冀にもとうとうその時がやってきた。
「城の南方に正体不明の騎馬集団が現われたぞ。その数は100以上。羌族のやつらであろう。伯密(樊稠)どのがすでに出撃の準備を始めている」
6月某日、麴義が凶報を持って執務室に駆け込んできた。
「ついにきましたか!伯簡(淳于沢)どの、すぐに城門へ参りましょう」
淳于沢は賈詡とともに城門へと急いだ。城門の前にはすでに樊稠が率いる騎兵部隊が集まりつつあった。淳于沢と賈詡は樊稠に指示があるまで待機するようにと伝えて城門の上に登った。城門の上に登るとたしかに南の方角に騎馬集団による砂塵があがるのをみとめられた。
「やつらの狙いはなんだろう?」
淳于沢が首を捻る。冀県の中心である冀城は城壁に囲まれている。城門を閉じてしまえばそう簡単に被害がでることはないだろう。むしろ柵で囲まれただけの近隣の郷のほうが襲われると予想されていたのだ。
「おそらくあれが狙いなのではないでしょうか」
賈詡が指差した先には遊牧していた家畜を連れて逃げまどっている羌族の女やこどもたちがいた。かれらは帰順した部族の女子どもであり、部族の男たちは輜重の運搬や警護で出払っている筈だ。
「!?かれらは同じ羌族じゃないか?同族を襲うというのか?」
「帰順していない部族からすれば帰順した部族もまた略奪の対象になります。そもそも羌族の略奪目的は食料と家畜それに女たちですから、男たちが出払っている部族はおいしい相手でしかないのでしょう」
「とにかくかれらを見捨てるわけにはいかない。城門を開いて出撃させよう」
「それはなりません」
救援を出そうとした淳于沢に間髪を入れず賈詡が反対の声をあげた。
「文和どの!?」
まさか止められるとは思ってもいなかった淳于沢は思わず大声をあげた。しかし賈詡は落ち着いて反対の理由を述べる。
「伯簡どの、あなたはれっきとした冀の県令です。その任はこの冀を守ることが第一になります。夷狄の女や子どもを助けるために漢の兵を無駄にすることは許されません。まして下手に城門を開いて城市になだれ込まれたりしたら本末転倒もいいところです。それに伯密(樊稠)どのはたしかに勇猛の士なれど数は敵の方が多い。勝てる保障はどこにもありませんぞ」
賈詡の理路整然とした反対に淳于沢は戸惑った。たしかに賈詡の言い分は理にかなっている。しかし帰順したかれらを漢の民でないからといって切り捨ててよいのだろうか。
羌族の脅威を前にして淳于沢は大きな決断を迫られることとなったのであった。




