第40話 備え
「やはり岐山に山塞を築くのは無理ですか」
「はい。西の県令から返事がありました。郡太守に無断で砦を築いたり、まして兵を駐屯させることはできないと」
姜翔の問いかけに淳于沢は残念そうに答えた。
ちなみに岐山とは西県の南に位置する山のことで東羌が漢陽郡に攻め込む際の進入路にあたる。
「岐山で羌族を抑えられない以上 冀でもかなりの被害がでることを覚悟しなければならないでしょう」
賈詡が苦々しげに見通しをかたる。
「羌族にこの城が落とせるとは思えんが?」
「そうだ。我々は夷狄ごときに遅れはとらぬぞ」
樊稠、麴義が賈詡の見通しに疑問を呈した。しかし賈詡は首を振ってそれを否定する。
「たしかに冀の城市は城壁に囲まれていますからそうやすやすと落とされることはないでしょう。ですが岐山で抑えられないということはやつらは漢陽郡のどこにでも侵攻することができるということです。我々としては後手に廻らざるを得ません」
騎馬民族である羌族の兵は全て騎兵である。彼らはは攻城能力こそ劣るが神出鬼没の機動力を誇る。何処かの郷が襲われてから兵を向かわせても捕捉することは至難のわざなのだ。
「それに最悪の事態として羌族が南から、鮮卑族が北から同時に侵攻してくると考えられます。もしそのような事態になれば渭水の北、安定郡や街亭もまた侵寇の被害を受けてこちらに援軍をだすことはできないでしょう。我々は孤立無援で対処せねばならなくなるやもしれません」
「羌と鮮卑が同時にだと?」
樊稠、麴義はともに絶句した。遠く離れた夷狄同士が連合を組んで南北から侵攻してくるなど前代未聞の出来事である。だが賈詡は平然とその可能性を肯定した。
「はい。帰順した東羌の支族に聞き取りをおこなったのですが、昨年来 東羌の有力部族に不審な男たちが接触をしてきているようです。おそらく鮮卑の手の者とみて間違いないでしょう。我々としては最悪の事態を想定せざるを得ません」
「そうは言ってもにわかに信じられることではないぞ。それにもしそうであるなら郡の太守、いや涼州刺史や朝廷が動かねばならない事態であろう?いち県令が奔走したところでどうにもならん」
面と向かってどうにもならん、と言われた県令 淳于沢であったが彼は意に介さずばか正直に肯定した。
「その通りなのですがなかなか郡太守どのが信じてはくださらぬのです。まあ我々とて弟から警告の手紙がなければとても信じることなど出来なかったでしょうから無理もないのですが・・・。ですが、このまま手をこまねいているわけにもいきません」
「そういうことです。話が逸れてしまいましたが夷狄の侵攻が始まってしまえば渭水の南も北も安全を確保できなくなると予想されます。周辺の郷を荒らされ補給もままならなくなると考えなくてはならないでしょう」
「ふん、しかたがないね。わたしらの方でも食料の買い付けを進めておくことにするよ。でもそれだけじゃどうにもなりゃしないんだけど、あんたには何か腹案があるんだろ?勿体つけずにさっさとしゃべりな」
姜嫗はまるで見透かしたように賈詡をジロリとにらみ、続きをしゃべるように促した。
「・・・かないませんな。実は渭水の水運を復活させようと考えています」
「水運?」
賈詡の提案に皆が首をひねる。かつて漢の最盛期、西域(現:新疆ウイグル)が漢の藩国であったころは交易の物資輸送に渭水の水運が活用されていたのだが今となっては廃れて久しい。
「はい。渭水の流れを利用し、冀から上邽、散関、司隷陳倉、長安とつながる水運を復活させ、有事の為に安全な補給路を確保するのです」
この案に姜翔が渋い顔をする。渡し舟とは規模がずいぶんと違うため金がかかりすぎると考えたからだ。
「そうすると船着き場の整備が必要になりますな。船の維持も考慮するとそれなりの荷を運ばねば採算が合いませんぞ。昔は西域からの塩が珍重されていたからこそ水運を維持できていたのです。今の西域の情勢では塩をまともに入手できませんし、闇商人が増えたとはいえ建前上塩は専売制ですから勝手に売り捌くことは避けたほうがよいでしょう」
姜翔の心配に対して淳于沢が答える。
「交易の荷については塩とはべつに心当たりがあります。弟からの手紙に中原では炭が慢性的に不足している状況にあると書いていました。先月ちょうどいいことに隴から冀に沿って続く渭水北岸の山地で'燃える石'つまり石炭が見つかったとの報告を受けていますから それを長安まで運べば利益を出すことができるのではないでしょうか?鍛冶や焼き物の窯で利用が見込めるはずです」
この時代世界的に進む寒冷化の影響は異民族の活発化以外にもさまざまな方面に現れてきている。そのひとつが燃料不足である。ローマの研究家の中には寒冷化とカラカラ帝などの大浴場建設が重なり深刻な燃料不足に陥ったことがローマ衰退の原因であるとするものもいるほどだ。
「ほお、'燃える石'かい。そりゃ売れるかもしれないけどそれなりの量を運ばなきゃ採算がとれないんじゃないかい?」
「むしろその方が都合がよいのですね。大量に運ばなければならないからこその水運だと郡太守を説得できますから。極端な話、石炭は資金を出すための口実で船着き場の整備と船の着工さえできれば構わないのです」
賈詡があっさりと答える。賈詡は石炭など実際にどれほど掘れようが掘れまいがどうでもよいと割り切っていた。どうせ東羌が攻め込んでくれば交易どころではなくなるとの読みである。だが、冀を代表する姜一族の立場としてはそうはいかない。
「冗談じゃないよ。将来に渡ってこの冀に利益をもたらしてくれるかも知れない話なんだ。翔。あんた実際に山に行って'燃える石'がどれくらい掘れそうか確認してきな」
「は、母上。そんな無茶な。最近は羌族だけじゃなくて野盗も増えているんだ。護衛なしに遠出なんて自殺行為だよ」
「なに情けないこと言ってんだい。県令どのが護衛ぐらい用意してくださるさ。ちょうど使えそうな駒も手に入ったことだしね」
使えそうな駒とは樊稠、麴義のことであろう。淳于沢は賈詡に問いかけた。
「文和(賈詡)どの。どれくらいの兵なら出せるかな?」
「20ぐらいですかね。冀に騎兵は二百ぐらいしかいませんが一割程度ならば県令の権限で動かしても問題にならないでしょう」
「伯密(樊稠)どの、仲武(麴義)どの。早速で申し訳ないが玄鳳(姜翔)どのとともに山へ石炭の確認に行ってもらえますか?」
淳于沢の要請に二人は否もなく了承する。完全武装した兵が20もいればまず襲われることはない簡単な仕事で気楽なものであった。ところが賈詡はそんな二人に宿題を与えたのである。
「伯密(樊稠)どの。今後は太守に許可を得ずとも県令の権限で動かせる独立した兵を増やしていこうと計画しています。今回配下につける兵のなかで優秀なものがいれば是非とも引き抜きたいので教えてください」
「仲武(麴義)どのは兵を率いて動かす術を伯密(樊稠)どのから学んでください。夷狄の侵攻の際には一隊を率いて戦って貰いますよ」
賈詡は大侵攻が始まるまでに少しでも準備を整えておきたかったのだが実際に兵を率いるものが周りにおらず手をこまねいていたのだ。樊稠、麴義を得たいま、彼はいっきに冀の防衛体勢の整備に乗り出す腹積もりであった。




