第38話 姜家の庭先にて
老婆に先導された一行はほどなくして大きな屋敷の門にたどり着いた。郡太守のいる役所ほどの大きさではないが、個人の屋敷としては破格にでかい。
と、老婆は門番に一声かけるとそのまま案内も受けずに屋敷の中へと入っていく。
「おい、婆さん!やばいって」
樊稠が慌てて引きとめようとするが、淳于沢も賈詡もまるで当然のような表情をしていてとくに焦るそぶりも見せていない。淳于沢が笑いながら樊稠に説明する。
「伯密どの、いいんですよ。ここは婆さんの家なんだから」
「婆さんの?」
樊稠が驚いて老婆のほうを見やると、ちょうど家の扉が開いて30歳位の男がでてきたところであった。立派ないでたちからしてこの家の当主であろう。傍らに若い少年を連れている。
「ようこそ、姜家へ。お待ちしておりましたぞ。それにしても母上、なにもここまで母上がお連れしなくても迎えのものを出しましたのに・・・」
「なに言ってんだい。どこの世界に自分の家に帰るのに迎えを待つ馬鹿がいるんだい」
「いや、そうはいっても県令どのもいるんだぞ。万一のことがあったらいけないだろう?」
「それこそ余計なお世話だよ。このわたしが付いてるんだ。この冀に住む人間でわたしにちょっかいを出す度胸のあるやつなんているもんかい」
冀を代表する名家、姜家の当主である姜翔も母親には頭が上がらないようであった。じつはこの老婆は姜嫗という名前で、息子が当主を継いだ今なお隠然たる力をふるえる立場にあった。
「じゃあなにか?婆さんがいれば俺の役割は必要ないってことか?」
樊稠が天を仰ぐ。彼が涼州に戻ってきたのは淳于沢を護衛するためだったのに、姜嫗がいれば誰も手をだせないというのだ。いきなりのお役ごめんである。
「まあ、そうなりますね。ですが伯密(樊稠)どのには違う役割を期待していますぞ。伯密どのは董仲潁(董卓)どのの下で羽林にいたということは騎兵を務められていたのでよね?」
賈詡が樊稠に確認してきた。羽林の兵は基本騎兵である。
「勿論だ。30騎近い小隊を率いて戦ったこともあるぞ」
「それは重畳。実は樊伯密どのには‥‥いや、この話は後ほどにしましょう」
賈詡は話を言いかけて中断した。屋敷の前で話すようなことではないからだろう。代わりに淳于沢が樊稠を姜翔に紹介する。
「玄鳳(姜翔)どの、こちらが樊伯密どのです。このたび羽林郎董仲潁どのの紹介で我らに力を貸して頂けることになりました。かなり腕が立つときいています」
「樊稠、字を伯密と申します。金城郡安夷県の出身で、董羽林郎の世話になっており申す。本日は招かれてもないのにいきなり押しかけてしまいましたがよろしかったですか?」
樊稠は少し緊張していた。彼は貧しい家の出自で、姜翔のような豪族の当主に対して気後れするところがあった。
「羽林郎董卓といえば、'涼州三明'を継ぐと評判の次代の将軍候補の1人ですな。そんな人物の紹介となれば間違いはありますまい。歓迎いたしますぞ」
どうやら姜翔は董卓の評判を知っているようで、樊稠にも好意的であった。しかし、それに納得出来ない者が居た。姜翔の傍らに居た少年である。
「玄鳳さま。たかが羽林郎ごとき、どれほどのことがありましょうや。ましてやここにいるのはただの私兵ではありませんか」
「仲武、口を慎まんか!」
姜翔が少年をたしなめる。少年は口こそつぐんだが相変わらず不満そうな顔をあらわにしている。
「玄鳳どの、こちらの少年は?」
淳于沢が当惑して尋ねる。初対面のはずの樊稠をライバル視する理由がわからない。
「うむ、金城郡西平県の麴家とは昔からの知り合いでな。そこの息子を県令どのに紹介しようと思いまして。本人は武官として仕官して功名をあげたいと希望しておるそうだ。ほら、県令どのに挨拶をせんか」
姜翔に促され麴家の少年が淳于沢たちに頭を下げる。
「名を麴義、字を仲武といいます。今年15になり西平より出てまいりました。幼き頃より剣の修行を積んで、西平で一の腕と自負しています。そちらの図体がでかいだけの御仁よりよっぽど腕は立ちますぞ」
敵意むき出しの麴義の言葉に樊稠は苦笑を浮かべる。
董卓のもとで戦場に赴き、死線をなんども潜り抜けてきた樊稠にしてみれば初陣すら経験していない麴義の言葉はほほえましいものでしかない。
「こわっぱ。天下は広いぞ。上には上がいる。大言壮語はほどほどにしておくのだな。」
べつに樊稠は麴義を煽っているつもりで言ったのではないのだが、言われた麴義はしっかりと煽られてしまう。
「ほう、我が言葉を大言壮語というのであれば実力を持ってその根拠を示してもらえるのであろうな?」
頭に血の上った麴義は剣を抜いて構えた。が、樊稠はそれに取り合わず姜翔と淳于沢のほうを見やった。彼らの許可なくして立ち合いに応じるわけにはいかないからだ。
「そこまで言うならいいじゃないか。どちらのほうが腕が立つのか直接手合わせしてはっきりさせな」
と、立ち合いを止めようとしている姜翔と淳于沢の機先を制して姜媼が許可をだした。姜翔が'余計なことを言うな'という表情をし、麴義が'我が意を得たり'といった表情をする。
樊稠もこういう争いごとがきらいな性質ではけっしてないので受けてたつ気満々である。
「よかろう。若い内にいちど鼻っ柱を折られるのもよい経験だろうて」
そういいながら樊稠もまた剣を抜いて麴義と相対した。
こうして篝火の焚かれた姜家の屋敷の庭先において、樊稠と麴義の立ち合いが行われることとなったのである。
淳于沢 字を伯簡 生年147年 豫州潁川郡の人 冀の県令
賈詡 字を文和 生年147年 涼州武威郡の人 冀の県丞(下級役人)
樊稠 字を伯密 生年146年 涼州金城郡安夷県の人 董卓より冀に派遣される
麴義 字を仲武 生年152年 涼州金城郡西平の人
史実においては袁紹の配下として公孫瓚撃破に功をあげる。後に袁紹に粛清される
姜嫗 冀で最大の豪族である姜家を取り仕切る実力者 姜翔の母
姜翔 字を玄鳳 涼州漢陽郡の人 姜家の当主 架空の人物
蜀漢の大将軍、姜維の祖父
夏弦 漢陽郡太守 涼州武威郡の人 架空の人物




