第37話 仁・智・勇
「まったくもって申し訳ない。県令どのに対して失礼なことを・・・」
「いいんですよ。伯密どののせいではありませんよ。それに伯密どののほうがひとつ年上なんですから、そんなにかしこまらないで結構です。私のことも伯簡と呼んでください」
いきなりの粗相を平伏して謝罪する樊稠に対し、淳于沢は怒るどころか逆に申し訳なさそうに慰めていた。そもそも淳于沢に初めて会った人はまず彼が県令であるとなかなか信じてくれないのだから無理もないのだ。彼はあまりに若く、そして威厳というものが無かった。
「そうです。評判の冀の県令どのはそのような小事で腹を立てるような御仁ではありませんよ。」
放っておいたらいつまでたっても埒が明かないとみた賈詡がフォローをいれてきた。
「そういっていただけると助かります。で、あなたはどちらさまで?」
樊稠がようやく立ち上がりながら賈詡に質問する。はっきり言って淳于沢よりもよほど雰囲気がある相手だけに言葉遣いも丁寧にならざるを得ないようだ。
「私はしがない県丞(下級役人)にすぎませんよ。賈詡、字を文和と申します。武威郡の出で県令どのと同じ20歳ですから、私にも敬語は不要です。よろしくお願いします」
「そ、そうか。こちらこそよろしく頼む。実のところ敬語は苦手なんでな。助かる」
こうして仁、智、勇に秀でた三人の初顔合わせが終わったのである。この出会いが持つ意味をまだ若い三人には知る由もなかったが。
しばらくして落ち着きを取り戻した樊稠は疑問に思っていたことを訊ねた。
「なぜ伯簡どのはこのような場所に移られたのだ?最初に役所へいったのだが門番からは県令どのはこちらへ移動したとしか教えてもらえなかったのだが」
淳于沢と賈詡は顔を見合わせた。
「ええと、冀を通る緇重が余りにも多くなり、緇重の改めを自ら行おうとすれば城門近くでなくては不便でしたので。まあ、他にもいろいろと事情があって・・・」
淳于沢が言いよどむ。と、賈詡がその後を引き継いだ。
「伯密どのには隠さずお話しておきましょう。漢陽郡太守である夏太守から逃げてきたのですよ」
賈詡の穏やかな表情とは裏腹にその内容は穏やかならぬものであった。
「もともと伯簡どのが中央から赴任してきた当初は太守どのも不正を暴きに来たのではないかと大人しくしていたのですけどね、そうでないとわかると今度はなにかと賄賂を要求してくるようになったのです」
「最初は県令の俸禄でも充分出せる額だったんだけどそれがだんだん大きくなってなあ…」
太守の真の目的は淳于沢に商人たちから賄賂を受け取らせ、その上前をはねよう、ということだ。共犯関係に引きずり込めば不正が明るみになるリスクも小さくすることができると考えたのだろう。
「なるほどねえ。で、役所からこの建物に逃げてきたと…。」
「ええ。顔を合わすことがなければそうそう無茶な要求もされませんから。困っていた時に婆さんに相談したらここを紹介されたんですよ。」
「婆さん?ああ一階にいたあの婆さんか。あれはいったい何者なんだ?」
樊稠が不思議に思って訊ねる。先ほどの態度と物言いは只者では有り得ない。
と、そこに当の老婆が顔を出した。
「あんたら、そろそろ時間だよ」
「あれ、もうそんな時間ですか。すぐに準備します。それとこちらの樊伯密どのを紹介したいのですが一緒に連れて行ってもかまわないでしょうか?」
どうやら淳于沢はこれから出かけるところがあり、そこに樊稠も同行させようということらしい。
「一人や二人増えたところでどうってことはないだろうさ。で、そのでかいのは信用できそうなのかい?」
「信用できる筋からの紹介ですからその点は問題ありません。少なくとも太守側の人物という線はありませんよ」
老婆のきわどい質問に賈詡は平然として答える。
賈詡の返答に老婆はふん、と鼻をならして樊稠のほうをジロリとにらむ。
「図体だけのウドの大木でなけりゃいいけどね。まあいいさ、準備ができたらさっさと出発するよ」
そういって老婆が一階へと降りていった。その後を淳于沢、賈詡がやれやれといった感じで付いていく。老婆の勢いに圧倒されて呆けていた樊稠も慌てて彼らを追いかけた。
一行が外に出ると建物の外はすでに薄暗くなっていた。大通りは昼にもまして通行人が増え、皆あわただしく往来を行き来している。
「文和どの、いったいどこに向かっているのだ?」
樊稠が賈詡に行き先を訊ねた。
「伯密どのは姜家をご存知ですか?」
「たしか冀で一番の名家だな」
冀どころか'漢陽(郡)の四姓'にあげられるほどの豪族だ。樊稠は漢陽郡の隣の金城郡の出身であるが、それでも名前を聞いたことぐらいはある。
「ええ、そこの当主である姜玄鳳どのより招きを受けているのですよ。我々としては冀の統治が滞らないようにするためにも姜家とは良い関係を保っておかねばならないのです」
「それはそうだろうな。なにをするにしても地元の実力者の協力があるとないとではまるで違う」
漢では叛乱や癒着防止のため自らの出身地の県令や郡太守に就けない決まりになっており、よそ者が県令や郡太守になるのである。地元の実力者の協力がなければ何もできなくなるのは常識だ。
「いま冀では呼びかけに応じて帰順した東羌族の男たちを緇重の運搬と警護に使っています。さらに彼らが裏切らぬように女や子どもたちも呼び寄せて冀の周りで家畜を飼わせていますが、放牧地の確保は玄鳳どののご尽力あってこそ実現したのですよ。そういうことがあって姜家とは懇意にさせてもらっているのです」
賈詡の説明に樊稠は頷いた。昼に肉串屋で聞いた話と一致する。
「しかしそのようなことをあの人のよさそうな伯簡どのが考えたのか?正直あの御仁の器を測りかねる…」
前を歩く淳于沢を見ながら樊稠が首をひねる。樊稠がここまで淳于沢を見る限り、これといった特徴のない、それこそ都にいくらでもいるような凡庸な人物といった印象を受けていた。評判と実際に会った人物像がどうしても一致しない。
そんな樊稠の様子を見て賈詡が苦笑を浮かべる。賈詡もまた淳于沢と知り合った当初はその人物が見定められず困惑した経験者である。
賈詡は成人したのち故郷の武威郡から旧都長安へと遊学して仕官を目指していた。彼の才覚は周りの者たちと比べて抜きん出ていたし、それなりに評価してくれる者がいないわけではなかった。が、そこはこれといった伝手も持たない涼州の田舎者の悲しい身。結局まともな仕官のめを掴むことができず失意のまま涼州へ戻ったのであった。そして同郷の夏陵が太守を務める漢陽郡で下級役人の仕事に就いてくすぶっていたところに淳于沢が赴任してきたのである。
"なぜこんな人物の下で働かねばならんのだ"
賈詡は当初、太守である夏弦と同様、新しい県令の淳于沢も取るに足らぬ人物と見ていた。たしかに淳于沢は真面目に職務に取り組んではいたし、算盤とかいう見たこともない道具を使いこなして高い計数能力をみせてはいたが、それでも彼の事務能力は賈詡とは比べるべくもなかった。
だが、淳于沢が割符を使っての物資横領の防止と兵站の整備、あるいは東羌族を女子どもや家畜ごと囲い込んでしまうやり方などを考案してくるにいたって自らの認識を大きく修正せざるを得なくなったのである。
"伯簡どのは私に無いものをもっている。樊伯密どのもいずれ気付かれよう。気付かねば伯密どのがそれだけの人物でしかないということよ"
樊稠は噂の弟どのの伝手でやってきた人物なのだ、それなりに期待してもよかろう、賈詡はそんなことを考えながら歩いていた。




