第31話 清流派の攻勢
賈郷に戻って三ヶ月がたった。
清流派の勢いがとまらない。
11月に計画通り竇皇后が選ばれ、父親の竇武が越騎校尉に引き上げられた。
そして12月、司隷校尉の李膺がついに宦官たちへの本格的な締め付けを開始する。
最初のターゲットは小黄門の宦官、張譲であった。張譲には司隷河内郡野王県令を務める張朔という弟が居た。張朔は素行が悪く妊婦殺害の疑いで李膺の追求が始まると、恐れをなして洛陽の張譲の館に隠れたのだった。しかし李膺は張譲の館に無理やり乗り込んで張朔を捕縛し、調書をとると即座に処刑してしまったのであった。
この一連の経緯で李膺いくつもの慣例を無視している。
まず李膺と張譲は同じ潁川郡襄城県の出身で、同郷の者には手心を加えるのが通例であるが無視している。
また天子の側近の屋敷に無理やり乗り込むというのも有り得ない。逮捕令状とか無い時代ではあるがそれでも宮中にお伺いを立ててから屋敷を検めるのが通例であるがこれまた無視している。
さらに調書をとってすぐに処刑するということもまた異常である。裕福な有力者の子弟であれば賄賂を使って減刑されるのが通例だからだ。
これらを全て無視した李膺の行動は、宦官に対する宣戦布告以外のなにものでもない。
まったくもって怖いもの知らずというべきか。
この話を聞いたとき淳于瓊は思わず頭を抱えてしまった。
”張譲!って、アレか。蒼〇航路とか三国志モノでは決まって怪物みたいに描かれてる宦官のリーダーじゃねえか!いや、小黄門ってことは現段階では次世代の出世頭ってところか。どちらにしても最初の標的にするにはやば過ぎだろうがよ…”
淳于瓊にはまったく無謀な行動にしか思えないのだが、清流派の面々は意気揚々としているらしい。
潁陰の荀爽なども後宮にかける予算を減らすよう上奏書を出すとかで息巻いているとかなんとか。
こうした清流派の行動も気にはかかるのだが、淳于瓊はもっと切実な問題への対処に追われてそれどころではなかった。
賈郷の食料事情がかなり逼迫してきたのである。
秋の終わりに蒔いた麦が季節はずれの大雨により根腐れを起こしてしまい、春の収穫がかなり厳しい見込みとなったのが原因だ。
とにかくいまは清流派がどうこうより、目先の食糧確保、食糧増産。とりあえずは喰うことだ。
ということで、新年を迎え7歳になった淳于瓊は苗代に適した場所の下見のため西の丘にやって来ていた。
さらに波才や賈子たちも10名ほど一緒に付いてきている。
彼らの目的は投石紐を使った訓練兼食料調達である。
「兎の穴だ!」
丘の中腹まできたときに波才が目ざとく兎の巣らしき穴があるのを見付けた。
我先に駆け寄ろうとする賈子を制して淳于瓊が指示を出す。
「兎を巣から追い出すのに二人居れば充分。俺と紫雲(波才)が追い出すから、君らはいつでも発射できるように投石紐をまわしておくんだ。合図を出したら一斉に石を発射して!」
そう言って、淳于瓊と波才は兎の巣の上へ足音を忍ばせつつ移動した。
巣のすぐ上の立ち木を杖でたたいてウサギを驚かし巣穴から追い出す作戦である。
賈子たちの投石紐の回転が充分になったのを確認後、淳于瓊は波才は目を合わせて頷いた。
カンカンカンカンカン!
立ち木を思いっきり打ち付ける。すると黒と茶色の兎が2匹、巣穴から飛び出してきた。
ヒュンッ!ヒュン!
焦りからだろう、二人ほど合図を待たずに石を投げてしまった。
バラバラに放った石が当たる筈も無く、慌てて逃げる向きを変えた黒の兎は茂みに逃げ込んでしまった。
「落ち着いて! 狙いは茶色! 三,二,一,放て!」
茶色の兎が少し開けたところに出たタイミングで淳于瓊は合図を出した。
ヒュンッ!ヒュン!ヒュンッ!ヒュンッ!ヒュン!ヒュンッ!ヒュン!ヒュンッ!
まだまだ技量の低い賈子たちであるが、八人が揃って投げれば誰かの石が当たる。
石のひとつが兎の足に当たり、見事仕留めることに成功した。遠心力で加速された石には鳥や小動物ならば一発で仕留めるに充分な威力がある。人間でも頭に命中すれば即死、手足に当たっても戦闘困難に陥るだろう。
「よっしゃ~!獲ったど~!」
波才がはでにガッツポーズを決め、賈子たちも興奮気味である。
そんな中、焦って石を放ってしまった二人だけが落ち込んでいる。
「気にしないでいいよ。ひとりひとりがバラバラに投げても駄目なんだって判ってくれれば」
淳于瓊は二人にフォローを入れる。実際、そのための練習としての狩りなのだ。狩りで学んで実戦でちゃんとしてくれればそれでいい。ここで落ち込まなくとも、次で挽回すれば済むのだから。
彼らが狩りにここまで気合を入れているのには理由がある。
今の賈郷の状況は彼ら'賈子'にとっては悪夢の再来なのだ。彼らは故郷の新息で親に間引かれそうになった過去を持つ子どもたちだ。その当時、新息の令を務めていた賈彪によって救われていなければ今は無い。少しでも賈郷の食料事情に貢献しようと必死なのだ。
最初は投石紐を眉唾に見ていた彼らだったが、狩りに使えると判ってからの習得に対する意気込みは凄まじく、今では発案者の淳于瓊よりはるかに上手く使えるようになっている。
彼らのいじらしいまでの努力を見る淳于瓊の視線は優しかった。少なくとも政争に明け暮れる清流派より余程共感できる。
"李膺さんよお、いまは宦官連中とやり合うより重要なことがあるんじゃないか?"
救いは賈彪や郭泰が理解を示してくれていることか。太学の冠として名声は高くとも官位についている訳ではなく市井に身を置く彼らもまた、民の困窮を差し置いての政争に批判的だ。
そんな中ついに恐れていた宦官派から反撃の一手が打ち出された。
それは淳于瓊の予想の斜め上の一手であり、自らの見通しの甘さを思い知らされる手であった。
并州雁門に軍を率いて駐屯している度遼将軍の張奐がその任を解かれ、洛陽へ召還されたのである。
張譲 字は不明 生年135年 潁川の人
史実では霊帝の時代に中常侍に昇進し宦官のリーダーとして権勢をふるう。




