第24話 煮沸
虎賁の陣を後にして半刻以上歩き続け、ようやく董卓の陣とおぼしき篝火が見えてきた。帰りは保護した女たちを連れているため、淳于瓊の足でも普通についていける速さであった。
"やれやれ、これでやっと休めるかな。"
朝から緊張しっぱなしである。いや、正確には董卓と顔を会わせることにビビっていたここ数日か。
実際に会ってみた董卓は史実とは異なり親分肌の実に頼れる好人物ではあったものの。
"先のことは考えても仕方が無い。なるようにしかならんし。‥ん、なんだ?"
後方の女たちの集団の中でなにかあったのか、なにやら慌ただしい。
董卓、董旻、趙索とともに駆けつけると、女が一人倒れ込んでいた。他の女たちも心配そうに周りを囲んでいる。
「どうした。どこか怪我をしていたのか?」
董卓が女にかけよって声をかけると、女は苦しそうにしながらも首を振った。
「それが、急に産気づいてしまって…まだ九ヶ月なのですけど…」
道に倒れこんでいたのはお腹の大きくなっていた妊婦だった。
淳于瓊たちは顔を見合わせた。
もちろん駐屯地に産婆などいるはずがない。
「お前達の中で赤子を取り上げた経験のあるものはいないのか?」
董卓が他の女たちに訊ねるが、どうやらこの中には誰もいないらしい。
このまま時間を浪費できない、と判断した淳于瓊は董旻に声をかけた。
「叔潁(董旻)さん、この近くに郷はありますか?」
「一番近い郷でも片道で一刻(2時間)近くかかるかな。」
「間に合うかは判りませんが、すぐに使いを遣って産婆を連れて来させましょう。産気づいた妊婦をあまり動かすことはできませんし、一番近い陣の天幕に入れてそこで生ませるしかないと思います。」
普通であれば産婆などの経験豊かなものがお産に立ち会うのだが、倒れこんだ女の表情からして悠長なことはいってられそうにない。
「ううむ、やむを得んな」
董旻は淳于瓊の提案に頷くと、使いを手配をするために走っていった。
「仲潁(董卓)さん、できるだけきれいな布を用意してください。あとお湯を沸かしてもらえますか?」
「湯を?なんに使うのだ?」
「用途はいくつかあります。布を煮沸したり、湯を絞って温かい布で妊婦や赤子をぬぐったり…」
「煮沸?布を茹でてどうする?」
董卓が聞き返してくる。
”しまった話が逸れてしまったな。公衆衛生の概念なんてどうすりゃ理解してもらえるんだ・”
「…説明が難しいのですが、負傷兵の傷口を汚い水で洗ったり汚れた布で手当てしていると傷口が膿んでしまいませんか?」
淳于瓊は負傷兵の治療に例えて説明することにした。それならば軍人の董卓にも馴染みがある話だけに理解しやすいだろう。
「ああ、その通りだ。できるだけきれいな水で傷を洗い、清潔な布で手当てするのが基本だな。」
近代になるまで衛生兵のシステムは運用されないのだが流石にその程度の認識はあるようだ。
それさえ理解できているならば説明のしようがある。
「それは汚れの中に目には見えない毒素が存在するのが原因です。微量の毒素が傷口で増殖して、やがて膿みとなり腐らせてしまうのです。或いは膿みを治そうとして体が発熱し、それが体力を奪ってしまうことになるのです。」
「目には見えない毒素だと?毒素が増殖するとはどういうことだ?それではまるで生き物みたいではないか。」
「生きています。それを菌といい、水にも大気にもどこにでも存在しているのです。もちろん目には見えないほどの微量なのですが…傷口や生の食べ物に付着すると菌はどんどん増殖して腐らせてしまうのです。」
董卓は初めて聞く話に絶句しているが、淳于瓊はさらに続けた。
「しかしながら菌は熱に弱く、煮沸や天日干しすることでほぼ死滅させることができます。」
「それで布を茹で上げるというのか…」
董卓が困惑の表情で趙索のほうに目を向ける。
さすがに説明がぶっ飛びすぎてるか、と淳于瓊はもう少しこの時代にあわせた説明をしようと口を開きかけたとき、思いがけず趙索がフォローを入れてきてくれた。
「董の兄貴。奇妙はいつもこんな感じですよ。訳のわからねえことをいきなり言い出しますが奇妙の言葉に従って悪くなることはないんです。信じてやってもらえませんか?」
"趙さん、ナイス。"
趙索のフォローで董卓も踏ん切りがついたようだ。
「判った。大釜でお湯を沸かせよう。あと負傷兵用の布だな。とりあえずこの女を天幕まで運ぶぞ。」
そういって董卓は倒れこんでいる女をひょいっと抱えあげ陣営へと走り出した。
董卓はガタイがいいだけあって、人を抱えているとは思えないほど速い。
趙索と淳于瓊はあわててその後をついていった。




