18〜それは甘い裏切り〜
それはとても安らかな時間だった。
私を包む体温は温かく、背中をさする手は心地良い。
トクントクン……と心臓の音が柔らかく耳に響く。
人の体温がこんなにも安らぐなんて、知らなかったな……。
しかしふと気付く。
――私、今……何をしているの!?
バッと顔を上げた。
「咲子ちゃん?」
そこには急に動いた私を見つめる信也さんの顔があった。
そしてその顔は今までにないくらいの近距離にあって。
そこで私はようやく、信也さんと抱き合っているという何ともこっ恥ずかしい行動をしていた自分に気付いたのだった。
(――わ、私ったらなんて大胆なことを!)
「ご、ごめんなさいっ」
慌てて信也さんの胸を押したが、あまり効果はなくまだ胸の中におさまっている。
信也さんはきょとんとした表情をしながら、けれど腕の力は弱めない。
「咲子ちゃんどうしたの?」
「その……急に泣き出したりして……ごめんなさいっ」
気付けばもう涙は引っ込んでいた。
涙が乾いた頬を擦る私は、恥ずかしくて信也さんと目が合わせられない。
「いいんだよ、泣いて当たり前だよ。……もう大丈夫?」
「……はい」
小さく頷くと、信也さんが頭をポンポンとたたいてくれた。
(あ……)
私にいつもしてくれる仕草だ。
魔法の手で優しく頭に触れてくれる――この瞬間が……たまらなく幸せ。
ぎゅうっ……と胸の奥が熱くなった。
「ほんと、咲子ちゃんが無事でよかったよ」
信也さんはそう言うと、また私を腕の中に閉じ込めた。
私は今度は素直に身を任せた。
「あの……、どうやって中に入れたんですか?鍵がかかっていたのに」
「あぁ、店長から合鍵借りたんだよ。……でも買出しから戻った時は焦ったよ。藤原と咲子ちゃんの姿が見えないんだもん」
苦笑とも拗ねた表情ともとれる何とも曖昧な顔をして、信也さんは私を見つめる。
(信也さん……!)
きっとこれ以上、この人に嘘をつくことなんてできない。
こんなにも真っ直ぐに見てくれる人を……私は……。
(手放したくない……)
――それは初めて感じた欲だった。
美央の暗い表情も、悲痛な声さえも、今は頭の隅に追いやられていて。
押し留めていた気持ちが一気に溢れ出てくる。
美央……ごめん。
「信也さん……」
ゴクン、と静かに喉を鳴らす。
それは、人生で初めての告白だった。
「私……信也さんが好きです」
――もう、限界だった。
今言わなかったら絶対に後悔する……そう思ったら。
想像以上にすらりと言えた台詞に、私自身が驚いた。
不思議と気持ちは落ち着いていて、心臓は心地良く鳴り響いている。
「咲子……ちゃん」
信也さんは一瞬目を大きく開かせ――そして笑った。
「やべぇ……っマジ嬉しい……!」
かあぁ……っと顔を赤く染めた信也さんは、手で口を抑える。
そんな信也さんを見るのは初めてだ。
私は静かに鼓動を鳴らしながら、言葉の続きを紡いだ。
「今更……て思われても仕方ないかもしれないけど、私やっぱり信也さんが……」
「………」
「信也……さんが……」
――好きです、と。
言いたいのに急に言えなくなったのは。
目の前にいる信也さんが、嬉しそうにニヤニヤと私を見ているからだった。
さっきまで、真っ赤になってたのに!
「咲子ちゃん、続きは?」
ニヤニヤ……いや、ウキウキとも表現できる信也さんに見守られているうちに、急に私の心臓が早くなった。
今更ながらに、告白の緊張が襲ってくる。
「す……っす……」
「ん〜?聞こえないよ」
(し、信也さん面白がってる!?)
台詞の続きなんてもうわかりきってるくせに、催促してくる信也さんに私は困ってしまう。
「し、信也さん意地悪です……」
壊れそうなくらい鳴り響く心臓に困り、私は恨めしげに信也さんを見上げる。
「意地悪なのはそっちでしょ?好きなのに好き、て言ってくれなかったんだから」
「ぅ……」
信也さんの告白から逃げた私に、その言葉は痛かった。
しゅん……となると、信也さんは苦笑してまた頭をポンポン叩いてくれた。
「ごめん、嬉しすぎてつい意地悪した。でもその言葉をもう一回どうしても聞きたいんだ。……駄目?」
ふるふる、と横に首を振る。
私だって言いたい。
溢れ出すこの気持ちを。
素直に。
「……好きです」
「……うん、俺も。……大好き」
穏やかに応えてくれた信也さん。
――こんなに幸せなことって、ない。
信也さんはさらに私を強く抱きしめてくれて、その幸せな圧迫感に私は酔いしれた。
(信也さん……大好きっ……)
このまま時間が止まればいい。
信也さんの温もりに浸ったまま、止まればいい。
けれど、信也さんが言った台詞に、私は一気に現実世界に舞い戻った。
「俺、美央に殺されるかもな〜ついに咲子ちゃんに手ぇ出しちゃったから」
はは、と笑う信也さん。
私は一瞬身を固くした。
(美央……!)
途端に、心の奥からどっと何かが押し寄せてきた。
それは多分――美央への後ろめたさ。
『咲子がおにいちゃん好きだなんて、認めないから!』
――美央のあの叫びを、忘れたわけじゃない。
でも結局私は、信也さんと両想いになってしまった。
美央を――裏切ってしまった……。
(美央……美央に私はどうしたら……)
私は、きゅっと唇を結んだ。
これ以上、美央を裏切りたくない。
「あ、あの……信也さん」
「ん?」
「美央には言わないでください……このこと」
「え、何で?」
「私から言いたいんです」
裏切りたくない――だから、私から伝えよう。
信也さんと付き合うことを。
美央の本心はいまだにわからないけれど、私はちゃんと美央と向き合いたい。
だから――逃げてちゃ駄目なんだ。
「ん、わかった。じゃあ絶対言わない」
ポンポンとまた私の頭を叩く。
ありがとう……信也さん。
と、心の中で感謝していたら。
「じゃあさ、口止め料の代わりにチューしてね」
「え!?」
突然のお願いに、私は真っ赤になった。
ち、ち、チュー!?
「そ、チュー」
語尾にハートマークがありそうなくらいニヤついている信也さん。
その笑顔は意地悪な感じは微塵もなく、本当に純粋に催促しているみたいだった。
わ、私、男の人と付き合うの始めてなんですけど!?
だからもちろん、キ、キスなんてしたことないんですけど!?
動揺する私をよそに、信也さんはただ嬉しそうに困る私を見つめているだけ。
(――ああ、もう!)
困っていても仕方ない!と思った私は、最大の勇気を振り絞って――キスをした。
……右ほっぺに。
「あれ?」
「い、今はこれで勘弁してくださいっ」
心臓はドキドキどころかバックンバックン。
目も合わせられなくて、床を見つめるほかない。
必死にそう言うと、信也さんは今日何度目になるかわからない抱擁を繰り返した。
「咲子ちゃん、めっちゃ可愛い!!」
それは一番きつい抱擁だった。
正直、苦しい。
「し、信也さ……く、苦し……っ」
「あ、ごめん!」
しまった、と呟いた信也さんは腕を緩めてくれた。
――そして。
「ファーストキスはまた今度な」
そう耳元で囁かれて。
私は倒れる寸前になってしまったのだった。
それから店に戻ると、店長が『二人とも帰っていいわよ』と言ってくれた。帰り際に『よかったわね』とも言ってくれて、店長には感謝してもしきれない。
藤原さんはもしかしたらクビかもな……と信也さんが呟いた。
私は私服に着替えると、信也さんと一緒に帰った。
「彼女を家まで送るのは彼氏の義務でしょ」
と言った信也さんに、私は至福を感じた。何だか、夢みたい……。
「じゃあ、また今度ね」
「はい、また」
家の前で信也さんとさよならをすると、私は玄関を開けた。
気持ちはまだ夢見心地で、フワフワしている。
(信也さん……大好き)
靴を脱いで玄関を上がろうとした――その時。
(――え……?)
それが目に留まり、私は凝視した。
見覚えのあるピンクのミュール。
ミュールを履くのはこの家で私くらい。でもこれは絶対に私のじゃない。
だって……。
だってこのミュールは……!
「美央……!?」
目を見開いた次の瞬間。
私は脱ぎかけた靴を放り出し――玄関を上がったのだった。




