第7話 幼き日のノイズ(前編)
縁石に頭をぶつけたのは、幼稚園の送迎バスを待っていた朝だった。
ぐらりと視界が傾き、世界が一瞬、白く瞬いた。
(……こいつ、またこけた)
(泣くのか? 泣かないのか?)
(なんでこの子、いつも無表情なの?)
耳の奥で、誰かの“声にならない声”がざわついた。
そのときマサオは、それを現実の声だとは思わなかった。ただ、世界の裏側から響く雑音――まるでラジオのチューニングが合わないときのノイズのようだと、本能的に感じていた。
それ以来、マサオはときどき、周囲の人間の“気持ちの形”を拾ってしまうようになった。
言葉にならないのに、言葉以上にはっきりと伝わってくる、他人の奥底の温度。
だが本人は言わない。
もともと口数が少ないのに、さらに周囲と距離ができていった。
母親は困惑していた。
(……ほんと、この子は何を考えてるのか分からない)
夕方、母親はマサオを熱い風呂に押し込んだ。
「あったまれば喋るっしょ」と言いながら。
だがマサオは、お風呂のお湯の熱さと水音の奥にある“母の苛立ちの温度”だけを感じ取って、もっと黙ってしまった。(火傷はしなかったが凄く熱かったし、なんでこんな思いをしなかきゃ無いんだろうと、今でもずっと頭から離れない記憶)
兄との関係も、距離はあった。
兄は3歳年上だし、魔竿よりも確実に走るのが速かった。家の周囲を走るとき、マサオはいつも大きく遅れた。
(なんでこいつこんな遅いんだよ)
苛立ちのノイズが背中を刺した直後、その背中に兄の蹴りが飛んできた。
顔面からアスファルト転び、手のヒラと膝と太ももとかの皮膚が血まみれに擦りむける。
泣くよりも先に、兄の心の奥底の“面倒くささ”が胸に重く沈んだ。
またある日は、自宅で兄に、「動くなよ」と言われ、シャレにならない遊びが始まった。
プラモデルのラジコンの戦車を、お腹から胸、、首を胸に付けろ!と、言われて、マサオの顔面を走らせ、鼻に引っかかって
皮膚を削り、血が滲み、皮膚を切った。。
(あ、やべ、血出た。)
(でもまぁ、こいつ泣かないし。)
兄の心の奥は、罪悪感よりも“揉めたくない”という薄い感情が広がっていた。
その冷たさが、一番痛かった。
そのとき負った傷跡は、今でも鼻筋に薄く残っている。
小学校に上がる頃、マサオの“ノイズ体質”はより強まった。
田舎の祖母の家に行った夏休み、兄と連れ立って歩いていると、地元のガキ大将とその仲間――二つか三つ年上の小6くらいの四人組が絡んできた。
「お前ら、どこの子だよ」
「兄ちゃんだけ強そうで、こいつ弱そー」
マサオは反応しない。
代わりに、四人の心の奥から次々にノイズが流れ込んできた。
(兄貴のほうだけいじりてぇな)
(あいつ逃げたら追っかけよ)
(このちっさいのは泣かすだけでいい)
殴られた瞬間、胸の奥の何かが切れた。
世界の明るさが急に消え、ノイズの意味だけが鮮明になる。
(やっべ、こいつ立ち上がった)
(目つきやば…)
気づけばマサオは、殴り返していた。
ガキ大将の腕を掴んで転ばせ、地面で取っ組み合いになり、結果的に殴り勝った。
初めて“人に勝った”瞬間だった。
あとで兄が言った。
「お前、なんで急に切れたんだよ……」
(こわ……)
兄の本音のノイズだけが、マサオの耳にいつまでも残った。
そして――思春期が近づくにつれ、ノイズはさらに鮮明になっていく。
小6の冬、ゲーセンの薄暗いトイレで中学生に絡まれたときも。
中3の時は、鍵が鍵穴についたままのスクーターがあり、調子に乗ってそのスクーターを盗み、隠して乗り回していたら、捕まって家庭裁判所に呼び出されたあの日も。
(なんでお前みたいなのがここに来てんだ)
(俺は悪くねぇ)
(反省してるふりしとけばいい)
大人も子どもも、ノイズは同じように汚れていた。
魔竿はますます喋らなくなり、同時に“読み取る能力”だけが静かに成長を続けていった。
その延長線上の未来に――
黒スーツの男たちや、
翔也という少年や、
パールホワイトのスクーターを磨く謎の少年と出会うとは、当時のマサオは知る由もない。
ただ、あの日の縁石の痛みだけが、すべての始まりになっていた。
――――――
第8話 「ノイズの思春期」へ続く




