第12話 「銀色の別れと、夜行バス」
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板金屋のシャッターが、重たい音を立てて上がった。
油とシンナーの匂いが混じる工場の奥。
蛍光灯の下で、それは静かに置かれていた。
――マサオのVespa。
思わず、足が止まる。
「……え」
口から出たのは、それだけだった。
あの錆びたブルーメタリックは、もうどこにもなかった。
代わりにそこにいたのは、
鈍く、上品に光るシルバーのVespaだった。
映画『さらば青春の光』で見た、
あの“ACE”が乗っていたような、冷たくて気取った色。
けれど、それ以上に――
ちゃんとバイクの“板金塗装屋の仕事”が入った、本物の一台に見えた。
フェンダーの歪みは消え、
左側面のえぐれた傷も、
夜光虫の連中に倒されてガリガリに削られたサイドも、
まるで最初から何もなかったみたいに整っている。
「……すげぇ」
それしか言えなかった。
板金屋の親父が、ウエスで手を拭きながら鼻を鳴らした。
「お前、元の状態が状態だったからな。
最初見たとき、正直“どこまで直すんだこれ”って思ったわ」
「……すみません」
「謝んな。
でも、あの色より今回の方が似合ってるぞ」
マサオは、何も返せなかった。
ただ、シルバーに塗り直されたボディを、
黙って見つめていた。
以前のブルーは、自分で塗った色だった。
下地も甘くて、錆も隠しきれてなくて、
ところどころ剥げて、ボロかった。
でも――
あれは確かに、自分の色だった。
金がなくて、
知識もなくて、
それでも何とかしたくて、
ホームセンターの安い塗料で塗った、自分だけの色。
そのブルーが消えたことに、
少しだけ胸が痛んだ。
けれど同時に、
今目の前にあるこのシルバーの完成度に、
どうしようもなく心が奪われていた。
(……かっこよすぎるだろ)
ノイズは、来なかった。
ただ、自分の心の音だけが、やけにはっきり聞こえていた。
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修理代は、魔竿が巻き込まれた、あの抗争に蹴りがつき、和解金として、夜光虫側が払った。
最後は、発端になった、夜光虫のケンジが顔を出した。
以前みたいな威勢はなく、
どこか疲れた顔をしていた。
「……悪かった」
板金屋の外で、そう言った。
短い一言だったが、
そこに嘘はなかった。
(あの時、ちょっと一線越えた)
(マジで終わるとこだった)
(もう、ああいうのいいわ)
マサオは、そのノイズを聞いていた。
怒りよりも、
虚しさの方が強かった。
「……もういい」
そう返した。
ケンジは、少しだけ驚いた顔をして、
それから視線を逸らした。
「翔也にも、悪かったって伝えといてくれ」
「自分で言えばいいだろ」
「……あいつ、こえぇんだよ今」
少しだけ笑いそうになったが、
マサオは表情を崩さなかった。
ケンジはポケットに手を突っ込み、
気まずそうに去っていった。
これで終わりだった。
夜光虫は、もうマサオの人生には深く関わらない。
そう思えた。
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***
けれど、現実は別だった。
板金塗装が終わった数日後、
マサオはそのVespaを、やはり売ることにした。
理由は、単純だった。
東京へ行く金が、足りない。
通信の学費。
最初の生活費。
アパート寮の初期費用。
交通費。
食う金。
バイト代だけじゃ、どうにもならない。
店の手伝いをしても、
ホットドッグ屋でシフトを増やしても、
現実はそんなに甘くなかった。
そして、手元で一番金になるものが――
このVespaだった。
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売却当日。
たまにパーツや自分だと面倒な、ワイヤー交換とかで出入りしてた、ベスパ屋の前でエンジンを切った瞬間、
妙に世界が静かになった。
シャッター半開きの店内。
オイルの匂い。
古いスクーターが何台も並んでいる。
店主は、Vespaを一周見てから、
しゃがみ込んでサイドを確認した。
「……うん、綺麗にはなったね」
「はい」
「ただ、古いし、ベースはベースだからなぁ」
分かっていた。
そんなことは、最初から分かっていた。
いくら綺麗にしても、
もともとが“安く買ったよく分からないカスタムの錆ベスパ”だという事実は変わらない。
しかも今の時代、
みんながみんな古いイタ車に価値を感じるわけじゃない。
店主は立ち上がって、言った。
「……15万かな」
マサオは、一瞬だけ目を閉じた。
(安い)
(安すぎる)
(でも、これが現実だ)
ノイズより先に、
自分の中で答えが出ていた。
「……お願いします」
その一言を言うまでに、
たぶん数秒しかかかっていない。
でも、体感ではもっと長かった。
店主が書類を取りに奥へ引っ込む。
その間、
マサオは最後に一度だけ、Vespaに触れた。
ハンドル。
フロントの縁。
シートの端。
何度も自分で触って、
何度も自分で直して、
何度も夜を走った感触が残っている。
(……ごめん)
その言葉は、
誰に向けたものなのか自分でも分からなかった。
Vespaに対してか。
昔の自分に対してか。
それとも、
まだ東京なんて行けるか分からない未来に対してか。
ただ、
胸の奥がひどく苦しかった。
でも、泣かなかった。
泣いたら、本当に終わる気がした。
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***
上京の日。
夜のバスターミナルは、
思ったより人が多かった。
マサオの足元には、
でかいボストンバッグが一つ。
中には服と、
最低限の生活用品と、
少しの整髪道具と、
何冊かの雑誌。
そして片手には、
古いラジカセ。
兄に「それ持ってくのかよ」と呆れられたやつだ。
「……持ってく」
そう言ったら、
兄はそれ以上何も言わなかった。
母は来なかった。
店があるからだ。
でも、その代わりに
出発前に封筒を一つ渡してきた。
「足りないだろうけど、持ってて。」
中には、折りたたまれた何枚かの札。
多くはない。
けれど、軽くもなかった。
受け取ったとき、
マサオは少しだけ息が詰まった。
(……この人も、ギリギリなんだよな)
そのノイズが、
妙に胸に残っていた。
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バスが到着し、
荷物を積み込む。
窓際の席に座ると、
街の灯りがガラスにぼやけて映った。
見慣れた道。
見慣れた看板。
見慣れたコンビニ。
そして、もうそこには
シルバーのVespaはいない。
エンジン音もない。
排気の匂いもない。
代わりに、
バスの低いアイドリング音だけが、
腹の底に響いていた。
(……何も、なくなったな)
そう思った。
けれど、その直後。
(いや)
と、自分の中で訂正する。
(なくしたんじゃない)
置いてきただけだ。
走ったことも、
殴られたことも、
読めてしまうノイズも、
錆びたブルーも、
シルバーになって蘇ったVespaも。
全部、
自分の中には残っている。
バスがゆっくり動き出す。
街が、少しずつ後ろへ流れていく。
マサオはヘッドホンを耳に当て、
ラジカセから流れる少し掠れた(カスれた)音を聞きながら、
窓の外を見ていた。
ノイズは、なかった。
不安はある。
金もない。
先のことも分からない。
それでも――
(行くしか「銀色の別れと、夜行バス」
その気持ちだけは、
やけに静かで、真っ直ぐだった。
こうしてマサオは、
走る代わりに、街を離れた。
まだ誰にも知られないまま、
後に“魔竿”と呼ばれる男の、
最初の上京だった。




