第8話「結成、いや解散?──俺たちのプロローグ」
喫茶マナリアの窓際席。午後の光が柔らかく射し込み、深煎りの香りが微かに漂う中、水野は時計をちらりと見て、息を吐いた。向かいの清水はノートを閉じ、肩をほぐしながら軽口を飛ばす。
「……緊張しますね」
「理論武装は万全。でも、年甲斐なく手が震えてます」
水野の声は理屈っぽく硬く、清水は軽妙──そんな温度差のまま、会話はぎこちなく続く。だが内心は同じ。“本物”との接触が始まる高揚で、胸がざわついていた。
カラン、とドアベルが鳴る。
現れた男は、喫茶店の空気に似つかわしくない張り詰めた気配をまとっていた。面接会場に踏み込むかのような歩幅、視線は試験官を撃ち抜く覇気。スーツ寄りの装いが、その本気を逆に際立たせる。
(……自分の覚悟を示すべき時だ)
手のひらには微かな汗。袖口を握り直し、深呼吸一つ──そして椅子に腰を下ろすと同時に、放たれた。
「ヒーラー志望の安田貴志と申します。お二人の詠唱は、古典構文派ですか?」
一瞬で凍りつく空気。清水が眉をひそめ、口を開く。
「……古典構文って何ですか? 本名で来られるとは驚きました」
安田は微動だにせず、淡々と返す。
「偽名で神に選ばれると思いますか?」
数秒の沈黙。水野と清水は視線を交わす──結論は同じだ。(……“本物”だ)
静寂を破るように、珈琲の香りをまとった声がカウンターから届いた。
「今日の珈琲は、ホンジェラス産のアラビカです」
マスターがカップを三つ運びながら、呆れ笑いでひとこと。
「今日はサシ飲みじゃなくて、宴会ですか?……常連さんが引く前に、焙煎より濃い話は控えてください」
湯気越しに交わる三つの視線は──この瞬間、狂気の幕が上がった。暴走は、ここから始まる。
* * *
沈黙を切り裂いたのは、水野の低く落ち着いた声だった。
「安田さんは……かなりヒーラーに思い入れがあるみたいですね」
安田は背筋を正し、視線を逸らさずに答える。その目に熱がこもっていた。
「命を救う役割。それだけは譲れません。回復を疎かにしたパーティは、死ぬ」
「でも」清水が肩をすくめ、指先でコースターをくるりと回す。
「初期ステータスでMPが足りなかったら? 転生後、しばらくソロで生き延びるシナリオも多いですよ」
水野はペン先でノートを軽く叩き、静かな声で返す。
「だからこそ、魔力量の増強が先決です。リソースの確保なくして戦術は成り立たない」
「いや、戦術を軽視しては危険です」安田の声は一段深くなる。
「もちろん薬草やポーションの存在は否定しません。しかし効果の発動が遅い。立ち回りで補うプランを練らなければ、仲間は死にます」
清水は片眉を上げて、皮肉っぽく笑った。
「いやいや、そもそも転生直後に装備なしでどう戦うんです? ……私なら飯と刃物を優先しますけど」
水野:「やはり治癒魔法にこだわらず全体的な魔力の底上げを」
安田:「魔獣だけが敵じゃない。腹を壊したら終わりですよ?」
清水:「いやだから、そもそも魔力なんて存在しない世界かもしれません」
水野は譲らず、安田の眉間にしわが寄る。清水はカップを持ち上げ、淡々と視線を窓の外に逸らす。三人の温度差が、会話をさらに軋ませていた。
やがて、水野が深く息をつき、メモを閉じる音が響く。
「……転生後、初日。誰がリーダーです?」
一拍置いて、三人の口が同時に動いた。
「自分以外がいい」
沈黙。
テーブルの端に置かれたお冷のグラスで氷がカチリと鳴る。ペンを閉じる小さな音、カップの取っ手を握り直す手の震え。視線は宙をさまよい、指先がコースターを無意味に回す。冷えた空気の中で、熱気を失ったコーヒーだけが静かに冷めていった。
──この空気、もう続けられない。
* * *
息を呑んだまま、時間がだらしなく崩れていく。冷めたコーヒーと、お冷の氷が小さく鳴る音だけが、場を支配する。誰も口を開かず、視線はテーブルをさまよい、指先はコースターの縁を意味もなくなぞる。
水野はペンを回そうとして、指から滑り落とした。
カランと乾いた音に全員の肩がわずかに震える。言葉は喉で凍ったまま音もなく軋む。
グラスの氷がチリ、と弾け、空気の重さをさらに強調した。
静寂を裂いたのは、カウンター越しの乾いた声だった。
「……急にお通夜っぽくなられるのも困るんですが。いや、いいんですけどね」
マスターがカップを磨きながら、ため息まじりにぼそりと漏らす。三人の視線が一瞬だけそちらに流れ、次に泳いだ。
沈黙に耐えられなくなった清水が、わざとらしく咳払いをして呟いた。
「……そういえば、お二人は冒険者ギルドに所属したい派ですか? いや、メタ情報って大事ですよ。私は、まあ……受付嬢って重要な初期情報源ですし」
水野と安田が、微妙にきょとんとする。その沈黙をすり抜けるように、安田が言った。
「ギルドの受付って、やっぱり“メガネ美女”ですよね?」
水野の目が一瞬だけ輝いた。
「知的で厳しめ。片手に帳簿、心に思いやり」
清水が肩をすくめて笑う。
「怒ると語彙がやたら豊か。叱られるのが癖になる……」
「……全会一致で、よろしいですか?」
三人の視線が合う。無言で、しかし力強くうなずいた。
カウンターから、マスターの声が落ちる。
「……急な熱気、空調が悲鳴あげてますよ」
* * *
清水が手元のスマホをひょいと持ち上げた。
「……とりあえず、仮に“準備委員会”ってことでいいですか?」
水野は少し考え、静かに笑う。
「……“仮”という枠が、かえって強固な気がします」
安田は一拍置いて、まっすぐに言い切った。
「私は、すでに“本気”ですけど」
その瞬間、テーブルの上に並ぶ三つのスマホが、ほぼ同時に光る。清水がグループ作成のボタンを押したのだ。名前欄には《異世界準備委員会(仮)》の文字。
画面にその名が刻まれた瞬間、安田が小さく息を呑み、呟く。
「……これ、神話の序章みたいだ」
水野が応える。
「俺たちの“プロローグ”ってやつですね」
わずかに鳥肌が立つ。馬鹿げているはずなのに、なぜか胸が熱い。笑いそうになる自分を押しとどめながらも、口元が緩む。その感覚を否定できないまま、三人は同じ通知音を聞いた。
清水がスマホを置き、薄く笑う。
「さて……次は、どうやって“我々と同じ温度”の奴を見つけるかですね」
カウンターから、マスターのため息交じりの声。
「……まだ増えるんですか。うちの空調、もう限界ですよ」
▶【次回】第9話「通報されるまでがチュートリアル」
あなたの“ 常識 ”、この芝生ではデバフ扱いです。