第5話「筋肉と異世界は裏切らない(はず)」
斧が唸り、木屑が飛び散る。
森の中、早朝の冷たい空気を震わせて、森本秀樹はひたすらに斧を振るっていた。
対象は倒木。昨晩の雨で柔らかくなった樹皮に、木製の斧がゴスン、と鈍くめり込む。
「よし……いまので熟練値、たぶん30は入った」
息をつく間もなく、斧を引き抜き、また一撃。すでに薪は山のように積まれているが、森本は気にしない。彼の脳内では、薪の数ではなく「習得ポイント」が重要だった。
「そろそろ通算で12,000超えたはず……《重斧一段》は安定したし、次は……」
斧を背中に戻すと、背負ったまま木々の間を歩きはじめる。 愛斧の名は〈レギオン斧・改四型〉。かつてホームセンターで購入した薪割り斧を自作で装飾した一級品。もちろん誰もそんな武器は知らないが、彼の中では異世界で流通している(予定)なのだ。
そして始まる、“戦闘シミュレーション”。
「敵、三体……距離、約八メートル。前衛一、弓手一、術士一……よし」
斧を構え、森の空気を裂くように踏み込む。
「《跳躍強斬》……からの、連撃……よっ、よっと!」
息を切らしながらも、ローリング(風に転がる)、姿勢制御、そして視線のフォーカスまでこだわる。
「ふぅ……よし……今のは《重斧二段》っぽい……スタミナ管理がちょい甘いけど……」
と、自ら評価まで入れる。自作のスコアカードがあれば、星は4.5といったところ。
すべてが脳内で完結したバトル。
傍目から見れば、ただの中年男性が山中で木に吠えて転がっているだけだが──
森本の目には、明確な敵影と戦場が広がっている。
「こっちの《集敵ヘイト率》はまだ高いな……やっぱ、盾持ったほうがいいのか? いや、両手斧のバーサク状態。これが漢のロマンが……」
木々のざわめきのなかで、誰も聞いていない戦術会議が静かに進行していた。
──その右手首には、昨夜の蚊に刺された跡が赤く膨れていた。 森本はちらりと目をやり、「……まだ毒耐性が足りないな」と呟いた。
* * *
森本秀樹は、床に転がったまま脇腹を押さえていた。
ローリング(風に)を繰り返しすぎて、腰を軽くひねったらしい。
「ふ、ふふ……スタミナ切れ。完全にリアルデバフ……」
そう呟きながら、冷凍庫から取り出した保冷剤をシャツの中に突っ込む。
冷気にビクリと肩を震わせつつ、彼は居間の端に置かれたちゃぶ台型のローテーブルに戻った。
ここが彼の研究拠点であり、戦術の司令室──通称“鍛錬ベース”である。
ノートPCの画面には、今日も執筆中の電子書籍が開かれている。
タイトル:『実戦:樹海を制する斧術(理論編)』
最新の見出しには、こうある。
《斧戦士による近接戦構築における瞬間爆発力の限界と、その反動被ダメージの軽減処理について》
……内容は、自身の戦闘ごっこの感想をいかに“バトル理論”に昇華させるかに全振りされた狂気の一文。
「ここは“自己バフ・ブラックスミス型”で繋ぐか……」
自分で考案した用語に、にやりと満足げにうなずく。
メモ帳には他にも、「一撃一閃型」「ラリアット軸ハンマー系」「防壁ごと粉砕タンク型」などの文字が踊っている。
画面をスクロールしていくと、別ウィンドウにはもうひとつの作業が展開されていた。
『斧一本で組み上げるリゾートハウス(仮)Ver.0.92』──
木造建築を“武器運用の一環”として捉えた、構造と間取り設計の謎ドキュメントである。
こちらには、「薪の切り出しから風呂構築までをすべて斧で実現する」という熱意だけが全ページを貫いていた。
だが──ふと、目を離したタイミングで画面右下に通知が一件。
『匿名掲示板:スレッドNo.7《異世界転生準備会(仮)》』
その文字列を目にした瞬間、森本の動きが止まる。
瞼がピクリと動き、背筋にうっすらと電流のような緊張が走った。
「……な、なんだこのスレ名……」
PCのタッチパッドに、そっと指を滑らせる。
クリック。
ブラウザに開かれたそのスレッド。 そこに並んだ言葉は、召喚の光かと間違うばかりの眩さを放っていた。
* * *
スクロールする指が、ふと止まる。
開かれたままのスレッド《異世界転生準備会(仮)》。
そのログには、明らかに“わかってる”人間たちの応酬が並んでいた。
『言語チートを得られるかが初期プランを大きく左右する』 『血糖値の変動とMP消費の相関性については、まだ実証不足だと思います』 『初級のヒールでも最低限の医学知識──上皮と結合組織の関係性くらいは押さえたい』
どの書き込みにも、緻密さと“本気”が滲んでいた。
「……うわ、ガチな人たちがいる…」
自分のことを棚に上げて、思わず画面を閉じた。
パチンというノートPCの音が、部屋の静寂に落ちた。
──が、数分後。
森本はもう一度、そっとPCの蓋を開けた。
再びスレッドを表示し、上から何度も読み返す。
笑ってしまうくらい、自分と同じ“異世界前提”で語っている人間たち。
「……いるんだな、こういう人。他にも」
呟いた声が、少しだけ震えていた。
画面を見つめながら、ふと手元のノートに視線が落ちる。
そこには、昔走り書きした言葉があった。
『筋肉と異世界は俺を裏切らない(はず)』
しばらく黙ったまま、その一文を見つめる。
そして──思い出す。
あの日の母の言葉。
就職もせず、ただ部屋で筋トレと妄想ばかりしていた頃。
食卓の向かいで、お茶を差し出しながら、母はぽつりとこう言った。
「いろいろと期待し過ぎてゴメンね」
責めるでもなく、怒るでもなく。
ただ、静かに、涙を流しながら。
森本はその記憶を振り払うように、背筋を伸ばした。
──今なら、何か変えられる気がする。
タッチパッドに手を伸ばし、スレッドの返信ボタンを押す。
『斧だけで成り上がろうと備えてる者です。よろしくお願いします!!』
投稿ボタンを押す直前、彼は画面に向かってそっと小さく呟いた。
「……筋肉と、異世界……俺は裏切らない仲間も欲しい....」
* * *
返信は、思っていたよりも早かった。
一時間ほど経った頃。
森本が半ばあきらめかけていたそのとき──通知が点いた。
『Re:斧だけで成り上がろうと備えてる者です』
機動型ヒーラーという名前の投稿者からだった。
『ヒーラーと斧戦士、相性は悪くありません。前線の固定と再生補助の分担が成立します。盾は扱えますか?』
文面は簡潔だが、明らかに“対話する気のある返信”だった。
森本は思わず目を見開き、キーボードから手を引っ込める。
「ひ、ヒーラーさん……!? ていうか質問されてる!?」
そして数分後、もうひとつの返信が届く。
DEX振り魔導士という投稿者からだった。
『筋力ビルドの構築論、ぜひ一度お聞きしたいです。特に斧でSP消費をどう管理しているのか、興味あります』
「ちょ、ちょっと待って!? こっちもめちゃくちゃ真面目なやつじゃん!? 嬉し……いや、うれしいけどぉ!?///」
両手で顔を覆ったまま、森本はひとしきりのたうち回った。
──そしてPCの蓋を閉じた。
唐突に湧き上がった照れと恥ずかしさと、謎の達成感に圧倒されて。
再び蓋を開くまでに、20分かかった。
* * *
夕暮れの山中。
森本は再び、木に向かって斧を振っていた。
いつもの修行のように見えて、どこか動きにキレがある。
そして、誰もいない山の中──彼はぽつりと呟いた。
「……仲間、できちゃったかも」
背中の斧を、ぐっと握り直す。
その手のひらには、微かに汗と希望の感触が滲んでいた。
▷【次回】第6話「父さん、覚悟はもうできてるから」
医学部より難しい、“本気”とは。