第3話「貴族としての万事の備え」
月曜の朝。
山城多恵子は、出勤時のエレベーターで既に“演習”を始めていた。
スーツ姿の若手社員が乗り込んできた瞬間、彼女は無言で視線を送る。
じっと、逸らさず、表情も崩さず。
“魔眼(支配系)・短距離照射モード”
心の中で技名を唱えながら、相手の目の動き・姿勢・呼吸の乱れを観察。
(0.5秒で視線逸らし。精神耐性ランク:E。上司に向いていない)
彼女の目は、研究者のそれだった。
*
朝礼の時間。
十数名が並ぶ会議室の中央、マネージャー職である山城は発言者の真向かいに立ち、部下たちの顔を一人ずつ順番に見つめていく。
“注視モード・耐久検証型”
目と目が合えば、彼女は逸らさない。
ただひたすらに、無言で。
(西川:4.2秒、目元に緊張あり)
(原田:1.8秒、瞬き多い、要再訓練)
(鈴木:直視不可、精神崩壊の可能性)
メモは小型のノートに手早くまとめられていく。
朝礼が終わる頃には、山城の手元には「服従度チェックリスト(ver2.1)」が完成していた。
その日の昼前。
人事部から「ちょっとお話があります」と呼び出される。
「……最近、チームの何人かから“睨まれて怖い”とか“精神的にきつい”って声が出てまして」
担当者のやんわりした語調に、山城は軽く頷く。
「なるほど。では彼らの精神抵抗値は想定よりも低かった、ということですね」
「……いえ、あの、山城さん?」
その日、彼女のデスクには“始末書提出依頼書”が置かれることとなった。
だが、山城は反省などしていなかった。
むしろその夜、日記にはこう記された。
『第5次実地試験完了。支配魔眼の初期照射における耐性分布データ取得。 職場階層における初期服従傾向:想定より良好。 魔眼の実用性、一定の確証あり。』
* * *
昼休み。
山城多恵子は、誰も使っていない会議室にノートパソコンを広げていた。
Excelのウィンドウには、びっしりと表が並んでいる。
セルA1には《異世界階級構造マップ》と記され、隣のシートには《ざまぁ系イベント統計(断罪編)》が開かれている。
列には「王族」「大公」「公爵」「侯爵」「子爵」……と続き、行方向には「支配力係数」「民衆扇動率」「断罪イベント発生率」などが並ぶ。
支配の論理を、テンプレ展開と階層構造で最適化する──それが彼女の昼の訓練だった。
昨日は“侯爵家主導型ざまぁ”の支配構造を検討したが、民衆支持率に問題が残った。
「断罪イベント発生率は74%。うち“婚約破棄からの公開処刑型”は42%……。やはり狙うならここね」
もうひとつのシートでは、《悪役令嬢演説タイミング一覧》が表示されている。
“王子が言い切った直後”
“ざまぁ対象が震え始めた瞬間”
“民衆が沈黙した0.8秒後”
「“ざまぁ”の快感は“恐怖と支配の緩急”で増幅される……つまり演説の入りは“静寂”からが理想」
彼女は真剣な表情で新しいシートに《支配系統 第3ルート案(仮)》と記し、構築を始める。
そこへ偶然、近くのフロアで打ち合わせを終えた同僚・安藤が会議室のドアをノックし、覗き込む。
「……山城さん? なにやってんですか、それ」
彼女は一瞬だけ画面を見た後、落ち着いた口調で言った。
「ただの、設定メモです」
「え、設定って……」
「ざまぁ展開の支配構造分析。趣味ですので」
安藤が言葉に詰まるのを確認し、彼女はExcelを睨みながら、小さく呟いた。
「……失敗すれば、斬首ですもの」
安藤の目が一瞬だけ揺れる。
彼女は淡々と続きを入力した。
(安藤、精神干渉耐性:中程度。詮索傾向低。実害なし)
セルに新たな項目が追加される。
『処刑対象選定指標(ざまぁ耐性の低さ)』
* * *
夕方。
山城多恵子は、駅前の小さな喫茶店に入った。
チェーン店でも流行のカフェでもない、レトロな雰囲気の個人経営店。
騒がしくもなく、静かすぎもしない、彼女が“演習”に適していると判断した数少ない拠点の一つだった。
いつもの窓際のテーブル席に座ると、アイスコーヒーをひと口だけ啜り、カバンから革張りのノートを取り出す。
開かれたページには、シナリオタイトル《メインヒロインとの初遭遇:学園入学式編》と丁寧に記されていた。
※過去ロール演習記録数:36回
(状況設定:
平民出身の特待生、成績優秀・高魔力量。
性格も良く、民衆からの支持率も高い。
入学初日、貴族令嬢たちから「この学園に似つかわしくない」と責められる。
自分は“悪徳令嬢”ポジションで初接触)
山城は深呼吸して、静かに口を開いた。
「貴族とは、選ばれし血筋の中においても、なお“格”を問われる存在ですわ」
声は控えめで、それでも周囲の空気をわずかに揺らすだけの気配があった。
カップを置き、姿勢を正し、再度ノートを見る。
(ヒロイン反応Aパターン:『私は、この学園でちゃんと努力して──』)
(対応案:『努力の前に、態度を学ぶべきではなくて?』)
(ヒロイン反応Bパターン:『あなたに何が分かるの!?』)
(対応案:『平民の悲鳴より、貴族の責務の方が重いのですわ』)
(ヒロイン反応Cパターン:『そんな言葉、もう50回くらい聞きました』)
(対応案:『それでも耐えるのが、庶民に課された運命なのでしょう』)
小声で台詞の応酬を繰り返していると、店の奥から若い女性店員がゆっくりと近づいてきた。
「……あの、今日はお静かにお願いできますか」
笑顔だったが、その声には微妙な緊張と警戒がにじんでいた。
山城はほんの一瞬だけ虚を突かれたような表情を見せたが、すぐに穏やかな微笑みに切り替えると、
「もちろんですわ」
と応じ、ノートを静かに閉じた。
鞄にノートをしまいながら、彼女はメモ欄に一行記した。
『貴族は退く時も優雅であれ』
* * *
夜、自宅。
山城多恵子は、カーテンをしっかりと閉めた自室の中で、机に向かっていた。
照明の下には、重厚な革張りの日記帳。表紙には銀色の文字で《異世界支配準備記録》と刻まれている。
今日のページをめくり、ペンを手に取ると、静かに書き始めた。
『第72回訓練報告』
・職場における精神耐性・服従度実験:成功
・階級構造シミュレーション(第3系統案):進行中
・演説訓練(学園入学式編・反応Cパターン対応):実践済
一通り記録し終えると、日記帳の後ろから封筒を取り出す。
中には、羊皮紙風の厚紙に万年筆で丁寧に書かれた一枚の“手紙”。右下には封蝋の痕と、かすれた印章の模様。
《貴女の治世は、我らに安堵と誇りを与えました。
飢えを癒し、理を与え、未来を開いたその統治に、感謝を捧げます。──トリステ領民一同》
山城はそれを日記帳の最後のページに丁寧に糊付けし、余白にメモを加える。
『架空領民感謝状(トリステ領):文体・紙質・印章ともに良。次回はレジスタンス側からの意見文を検討』
満足げに頷くと、ペンを置いて立ち上がり、ノートパソコンの電源を入れた。
検索窓に、ふと浮かんだ言葉を入力する。
『異世界 支配 準備』
最上位にヒットしたのは、一見素朴なブログだった。
《転生後ヒーラーを目指す者の日記》
クリックしてみると、ページの最下部にコメント欄が表示される。
──『仲間が……いた……?』
その短い一文が、画面の片隅に浮かんでいた。
山城は、数秒間じっとその言葉を見つめる。
指がタッチパッドの上で、ほんの一瞬だけ止まる。
「……庶民の文章だけれど、熱意は感じるわね。……領民あっての支配階級。悪くないわ」
パソコンのウィンドウは閉じられず、そのまま静かに灯を灯していた。
▷【次回】第4話「引き寄せられる狂気」
さぁ、遠慮せずに狂気の輪の中へ。