第2話「魔力は未検出、だが仲間を検知」
土曜の朝。
市民センターの第二体育館には、静かな空気が流れていた。
弓道教室の参加者たちが整列し、師範の号令で一斉に一礼する。
その中に、白のTシャツと黒のジャージに身を包んだ異質な男が一人。
水野慎吾、四十三歳。
姿勢は丁寧、礼も深い。だが──その目だけが違った。
真剣、というより「臨戦」。まるで今この場が戦場であるかのような集中を宿していた。
「皆さん、今日は弓に触れるのが初めての方も多いかと思います。まずは構えと礼法から……」
師範が説明を始めたそのとき、水野が手を挙げた。
「質問よろしいでしょうか。装備が得られない状況下での、即席の弓の作り方や素材の選定については……?」
師範は一瞬固まり、やや困ったように笑った。
「いえ、今日はあくまで“弓道”の基本を……」
「承知しております。ただ、想定として“森の中”で装備を失い、敵対的な生命体と交戦中に、何を使って弓を作れるかというケースを──」
参加者の数人が、ちらとこちらを見る。
水野は構わず話を続けた。
「竹が最適か、あるいは柔軟性のある枝のほうがいいのか。魔力を通す場合は導電性も関係しますので──」
「……まずは、型を学んでからにしましょうか」
師範の声が、やんわりと遮る。
水野は深くうなずいた。
「確かに、急ぎすぎました。すみません」
数人がこちらを見たままだったが、もはや水野の目には届いていなかった。
基礎練習が始まる。
皆が弓を構え、ゆっくりと引き、離し、的の方向へと集中を深めていく。
水野もまた、弓を握る。
だが、彼の目は的ではなく、その先の“別の世界”を見ていた。
(この弓の引き感──魔力の抵抗と似ている。放つ瞬間、力を収束させれば……)
他の参加者が足の角度や背筋を正されているなか、水野は問う。
「動きながら撃つ場合、腰の回転はどう入れればいいでしょうか?」
師範が少しだけ眉をひそめた。
「弓道では基本的に、動きながらの射は行いません」
「そうですか。ですが──魔物は止まってくれませんので」
体育館の空気が、ふと止まったように静まり返る。
沈黙の中、水野はメモ帳を取り出し、何かを書き始めた。
(矢に魔力を乗せるには、媒介構造が必要……)
「導管としての矢柄……射出時に魔力を先端へ集中させることで命中精度の向上が……」
彼は次第に、熱を帯びた筆致で紙に図を描いていく。
周囲の視線も、師範の声も、もはや彼の中では背景だった。
そこにあるのはただ──
“「矢型魔力投射術」の試作理論 ”
その午前、水野は一度も的に矢を当てなかった。
だが彼の中では、確かな“命中感覚”が芽生えつつあった。
* * *
午後。
郊外のキャンプ場には、ゆるやかな風が吹いていた。
杉林に囲まれた静かなスペースに、ツールを手際よく並べる男が一人。
小林──水野の会社の同僚であり、週末はソロキャンプを趣味としている男だ。
彼のスタイルは“癒し系”。
ハンモック、スノーピークの焚き火台、そして丁寧にハンドドリップされる豆から挽いた珈琲。
そこに、明らかに緊張感を纏った別の男がひとり、黙って立っていた。
水野慎吾、四十三歳。
タープの張り方を見ながら、すでにメモを取り始めている。
「小林くん、魔法が使えないケースでの火の起こし方を教えていただけますか?」
「え? えっと、まぁ、マッチかライターが基本だけど……。一応、ファイヤースターターもあるよ?」
「なるほど。では、空間収納スキルが使えない場合の最低限の野営装備は?」
「え……? んー、まあ、タープ・寝袋・マット・水・火器……?」
「水源が汚染されていた場合の最終手段は?」
「……一応、煮沸すれば飲めるけど……濾過器も……持ってるけど……」
水野はメモを取り続けながら、うなずきも頷きもしない。
「ナイフ一本で一晩過ごす訓練、やったことあります?」
「……あのさ、水野くん。これ、今日は“のんびりキャンプ”って聞いてたんだけど……」
小林の笑顔が明らかに引きつっている。
だが水野は、周囲の木々を眺めながら、どこか満足げにつぶやいた。
「この程度の自然なら、見習いクラス。街の郊外での野営訓練には、ちょうどいいな」
小林は反応しない。
そのかわり、そっとスマホを手に取って天気予報を確認している。
火を起こす準備が始まる。
小林がゆっくり薪を組み始めた横で、水野は倒木から拾ってきた細い枝を削り始めていた。
枝の先端を細く、尖らせるようにナイフで削りながら、彼はぽつりとつぶやく。
「気配探知スキルって……どうやって鍛えればいいんだろ」
小林の手が止まり、視線が一瞬だけ水野を見て呟いた。
「……やっぱ、俺ソロ向きだな」
静かな杉林に、鳥のさえずりとナイフの削る音だけが響いていた。
* * *
夜。
水野慎吾の部屋には、静寂が満ちていた。
六畳のフローリングに、ちゃぶ台と座布団。
壁にはびっしりとメモや図解が貼られ、その中に今日の日付と「課題:火起こし」「遠距離武器開発(初級)」の文字が見える。
水野はペンを走らせていた。今日の訓練成果と考察を、びっしりとノートに記録している。
■サバイバル訓練(実地)
→ 焚火準備:風向き、火種の保持時間、点火手段の確認
→ 食料確保法未実施、要調査(釣り具+罠具)
→ 同僚の精神耐性:不安定、長期協力には課題あり
■弓術訓練(基本動作)
→ 弓の引き感覚は“魔力収束”に近似
→ 動的射撃に関しては師範理解得られず、代替手段必要
→ 魔力乗せモデル:要設計
その傍ら、紙筒と輪ゴム、竹串を使って作られた“試作品”が数本並べられていた。
水野は一つを手に取り、窓際の段ボール的へと向かって放つ。
シュッ。
竹串が勢いよく飛び、的の端をかすめて壁に跳ね返る。
水野はその軌道を見届け、手帳に記す。
「魔力:未検出。だが飛距離+12%(目測)。射出感覚:矢型魔力導管に類似」
夕飯の時間を過ぎても、冷蔵庫には手を伸ばさなかった。
水野はメモを一瞥し、唇をかすかに動かす。
「MP枯渇=低血糖時の精神集中率、上昇傾向あり……」
お腹が鳴っても無視した。
水野にとっては空腹もまた、訓練の一部だった。
「MP最大値を高めるには、意図的な欠乏状態の繰り返しが鍵……」
そう唱えるように記録しながら、彼は壁の一角に貼られた赤い付箋にペンを伸ばす。
そこには大きくこう書かれた。
『転生してからの努力では遅い』
その下に、今日の日付とともに新たなメモが加わる。
『気配探知スキル:集中状態×環境把握=初期獲得の可能性あり』
窓の外では、夜風がカーテンをやさしく揺らしていた。
部屋の中には、ただ水野の筆記音だけが静かに響いていた。
* * *
深夜。
室内は静まり返っていた。
ちゃぶ台の上には開かれたノートと、飲みかけの白湯のカップ。
水野はノートパソコンの前に座り、薄明かりの中でタイピングを続けていた。
検索ウィンドウには、こう入力されていた。
『異世界 転生 準備』
Enterキーを押す。
検索結果の上位には、ネタ記事やまとめサイト、ジョークブログが並ぶ。
「異世界転生したら人生やり直せた件」「転生テンプレを考察する」──どれも水野の求める“本気”には程遠かった。
スクロールしていくうち、ふと目に留まった。
《転生後ヒーラーを目指す者の日記》
水野の指が止まる。
リンクをクリック。
白背景に黒文字だけの、シンプルな構成の個人ブログ。
最後の更新は3日前。
●2023/10/17 投稿:「血液型と属性親和性の関係について」
●2023/10/11 投稿:「低酸素訓練とMP制御の相関」
●2023/10/05 投稿:「蘇生魔法と心肺蘇生法の比較研究」
一文一文に、見覚えのある“狂気の温度”が宿っていた。
水野は画面を食い入るように見つめる。
──これは、ネタじゃない。
本気で備えている人間の、記録だ。
彼の心拍が一段高まる。
指がキーボードの上で震えた。
タイピングを始めようとして、少しだけ躊躇う。
だが、次の瞬間──その手は動き始めていた。
『仲間が……いた……?』
一行だけのコメントを打ち込むと、水野はゆっくりと背を預けた。
画面の青白い光が、静かな部屋を照らしている。
それは、彼にとって初めての“呼吸の通った夜”だった。
▷【次回】第3話「貴族としての万事の備え」
さぁ、皆様もお覚悟を。