第1話「理解する必要はない、結果は転生してからだ」
──異世界に備えるとは、愚かで尊い営みだ。
すべてを捨て、なお残るものが“祈り”なら。
努力は裏切らない──ただし、召喚されるまでは。
備えよ。
その光は、今夜かもしれない。
この物語を、
勇者になることに人生を捧げ、
43年目の今もなお“前世の最終調整”を続ける最愛の友へ。
* * *
転生しないまま43年。だが今日、俺は詠唱を完成させる。
湯気の立ち込める風呂場で、俺は裸のまま魔法陣をなぞりながら声を発した。
「水源よ、我が渇きを癒せ──《アクア・リザレクション》」
薄い壁の向こうから苦情のような声がした。「またかよ……」
たぶん隣室の住人だ。音が響きすぎるのは、古いアパートの仕様。
でも今日は水魔法だ。火属性の時よりはマシだろう?
あの時は蒸気が真っ赤になって、火災報知器が鳴った。
魔法が出ない? それは糖分が足りなかっただけだ。
今日の昼、魔力回復を狙って甘い菓子パンを三つ食べた。あんドーナツ、メロンパン、カスタードブリオッシュ。
糖分は魔力の源。これは俺の中で再現性が取れている。
職場の同僚は笑っていた。上司は「もういい」と言った。
でも俺だけは、まだ諦めていない。俺は本気だ。
* * *
水野慎吾 四十三歳は、畳の上に大の字で倒れていた。
全身から汗が吹き出し、Tシャツはほぼ全面が濃色に染まっている。
頬を伝った汗が畳に落ちた瞬間、じゅっ、と音がした。
──それは、確かに聞こえた。
「……ふっ……今日は、通じた気がする……」
呻くように呟きながら、天井を見上げたまま、右手をそっと胸に置く。
呼吸は浅く、体は小刻みに震えている。限界まで詠唱を繰り返した、“魔力消費トレーニング”の成果だった。
キッチンタイマーが鳴り、買ってきた冷凍パスタの完成を告げた。
ゆっくりと体を起こし、ふらつきながらキッチンへ向かう。
誰もいない部屋。応答のないLINE。洗っていないマグカップ。
それでも、俺は満ち足りていた。
──孤独?
違う。
これは、“前世の最終調整期間”だ。
この四十三年は、転生先で何者かになるためのプロセス。
異世界で、俺はきっと通用する。ここではなれなかった“本当の自分”になれる。
それだけが、俺の明日を支えている。
水野は、ゆっくりと立ち上がった。
額の汗を拭いながら、窓の外を見る。
「……いや、今日は違った。昨日の詠唱、たぶん通じた。反応があった。間違いない」
誰にともなく、確信を込めて呟く。
その目は、はるか遠く──異世界の彼方を見据えていた。
* * *
午前六時前、まだ冷え切った空気の中。
静かな山間の禅寺。その本堂に、座禅修行を行う十数名の男たちが並んでいた。
その中に、一人だけ異様な存在感を放つ男がいる。
水野慎吾、四十三歳。
背筋は、まるで真冬の竹のように、過剰なまでに真っすぐ。
顎の角度は測ったように定まっており、両膝に置かれた掌は、かすかに震えていた。
だが──本人は、いま魔力の流れしか見ていない。
(……今、魔力は腹部に滞留している。水流が、静かに満ちていく……)
彼にとって禅とは、“魔力循環の整流化訓練”である。
木魚の音が響く。
とん、……とん、……とん……。
そのリズムに合わせ、水野の胸が静かに上下を始める。
まるでその音こそが魔力の拍動であるかのように。
(魔力は外気と同調する。詠唱のテンポは、木魚の間隔で……)
そして、誰にも聞こえぬほど小さく、唇が動き出す。
「水源よ……我が意識を……包み──」
隣の修行者が気配に気づき、ちらと視線を向けた。
住職がゆるやかに歩み寄る。
「……水野さん。息を整えるのは結構ですが、ここは“何も考えぬ場”でしてね」
声音は柔らかかったが、その目は“逸脱者”に向ける視線だった。
水野は一礼して口を閉じる。だがその眼差しは静かに、燃えていた。
(なるほど……ここは“導入的な修行場”か。ならば、これ以上の流れは鈍る)
──数十分後、座禅は終了。
参加者が立ち上がる中、住職が水野のもとに歩み寄った。
「……水野さん。あなたの集中力は、まさに一点の曇りもありません。ただ……この寺では、あなたのような“深みに到達された方”には、もう導けることが少ないかもしれません」
やんわりとした物言いだった。
だが、その言葉の本質は──明確な“お引き取り願う”だった。
水野は深く、礼を取る。
(本気で臨み、排除された。ならば、それは“正しく踏み込めた証”だ)
本堂を出た水野の頬を、朝の冷気が優しく撫でた。
山の端から、柔らかな陽光が差し込んでくる。
その光の中、男はひとり静かに呟く。
「魔力の静流……その輪郭は捉えた。次は“動”──呼吸と詠唱の一体化、だな」
すでに彼の思考は、次の修行段階に移っていた。
誰が止めようと、何に追い出されようと、彼の歩みは止まらない。
なぜなら彼は──“異世界転生の本番”に向けて、今この瞬間も本気で準備しているのだから。
* * *
土曜の昼下がり。
地域交流センターの一室で、「小学生向け科学実験教室」が開かれていた。
教室の中央では、色とりどりのスライムが作られ、子どもたちの歓声が響いている。
「わ〜、のびた〜!」「ねばねばしてる〜!」
保護者たちは後方で和やかに見守り、時おりスマホで写真を撮ったり、子どもの笑顔に頷いたりしている。
──その中に、ひとりだけ異様な空気をまとう男がいた。
水野慎吾、四十三歳。保護者枠、単身参加。
受付では「お子さんのお名前を……」と尋ねられ、「リヒトにしようと思ってます」と答えかけて飲み込んだ。
視線は鋭く、手元のメモ帳には既にびっしりと化学式と観察メモが記されている。
(……この粘性変化は、ダンジョン1階層で遭遇すると思われるスライムを想定できる。
熱処理などさまざまな加工パターンを実験すれば初期ブーストの助けに……)
彼の目的はただ一つ──異世界での成り上がりに備えること。
知識とは、世界の理に干渉する術。
異世界にも応用できる基礎知識の理解のために、スライム実験は極めて有効なのだ。
「先生、質問いいですか」
彼が手を挙げた瞬間、場の空気がわずかに揺れた。
「スライムといえば酸。逆に塩基処理を行うと?」
講師の大学生が戸惑いながらも笑顔で答える。
「え、ええと……今日は特に特殊な薬品処理は扱わないので……また今度調べてみてください」
メモを取る音がやけに大きく響く。
次の実験で、別の児童が色水を混ぜ始めた。
水野の目が光る。
「すみません、もうひとつ。スライムの熱膨張係数は?装備に応用した場合の素材との結合にはどのような処理理想ですか?」
講師の笑顔が少し強張る。体がわずかに後ろへ引かれた。
「そのあたりも……そうですね、お家でぜひ詳しく調べてみてください」
講師の手が、無意識に保護者名簿へと伸びる。
会場の空気がじわじわと“異質”を感じ始める中、一人の小学生が水野にぽつりと尋ねた。
「ねえ、おじさん……なんでそんなに真剣なの?」
水野は一瞬だけ、その子の目をまっすぐに見た。
そして、迷いなく答える。
「世界を救うためだ」
子どもが一瞬きょとんとした後、隣の子に小声でささやく。
「この人……勇者の人?」
水野は何も言わず、静かに実験に視線を戻した。
スライムがゆっくりと固まりつつある。
その流れの中に、彼は魔力の凝固プロセスを感じていた。
(収束工程……これは、スライム素材を魔力触媒とし応用できる可能性を物語っている)
歓声、笑い声、そして水野のメモを走らせるペンの音。
そのどれもが、この小さな教室に確かに共存していた。
* * *
夕方のアパート。
蛍光灯の下、ちゃぶ台に分厚いノートが一冊。
表紙には黒マジックで、こう書かれていた。
《異世界転生論:個人適応型魔力進化記録》
その下に、震えるような文字で副題が添えられている。
『改訂版・血糖値との体内マナ濃度の関係性について』
ページをめくる。
■なろう系魔術失敗パターン分析:Vol.22
→ 無詠唱失敗の構造的要因と、アニメ化時の呪文省略リスクまとめ。
■異世界政治体制別:魔法の使いやすさMAP
→ 王政・ギルド制・魔王独裁などでのヒーラー職の立場比較。
■MPと血糖値の相関実験ログ
→ 食後15分以内に《アクア・リザレクション》の成功率が上昇。
→ グミを3連続で食べた後、魔力の偏りあり。
■「浄水場の管理者=水魔法の前兆」説(未検証)
→ 実際に管理員に話を聞きに行ったが門前払い。
ページの端には手書きのメモ。
『そろそろ全体構成を整理。転生後の初期質問に備えてテンプレ化』
冷蔵庫に目をやると、小さな付箋が貼られていた。
『転生は突然、そして必然。1秒を惜しんで備えろ』
水野はそれを一瞥し、すぐにノートへ目を戻す。
静かにノートを閉じ、つぶやいた。
「俺は……現実を超える準備をしてるだけだ」
外は、茜色の空。
沈む夕陽が、閉じたノートの表紙に柔らかく反射していた。
▷【次回】第2話「魔力は未検出、だが仲間を検知」
転生準備はお早めに。